部屋の庭先に設置されている露天風呂はさほど大きくはなかったが、坪庭に木々をあしらい、奥には谷川が見えるというしゃれたもので、硫黄のにおいがする湯は乳のように白くにごっていた。
「うーん。いい湯加減だなぁ。桐ノ院はこれくらいの温度でも大丈夫かい?」
「はあ、いい湯加減だと思います」
悠季に誘われるがままに一緒に露天風呂へとやってきたものの、桐ノ院は悠季の方を見ようとはしなかった。
湯船のふちに頭を乗せて気持ちよさそうに入っている悠季は、淡く白い湯気の中にその姿をにじませ、白くて肌理の細かい肌がほんのりと匂いたっているのが透かして見える。
「そろそろのぼせるだろ?背中を洗ってあげるよ」
そう言うと湯船から上がり、彼をうながした。
「い、いえ。洗ってくれなくても結構ですよ」
「いいから、遠慮しなくていいって。おいでよ」
そう言って椅子に座らせると背中へと回ってタオルに石鹸をつけてこすってくれた。
「それにしてもすごい筋肉だねえ。きっと鍛えているんだろうね。僕にはこんな少ししか筋肉がつかないからすごくうらやましいよ」
そう言って力瘤を作って見せてくれたが、その腕のラインや胸筋、そして日にさらされない胸の白い肌の上に並んだ薄赤い飾りが二つ。桐ノ院はどきりとして、さりげなく目をそむけた。
悠季はそれ以上何も言わず、黙って背中をこすり続けた。
と言っても、彼の態度を不審に思ったわけではないらしく、口を開こうとしては閉じて、どうしゃべろうか迷っているようだった。
風の音やさらさらと湯船から湯が流れるかすかな音が風呂に満ちていて、穏やかな風情をかもしていたが、二人にはそんな風流を味わう余裕はなかった。
理由はそれぞれ違っていたけれど。
「・・・・・あのね。実を言うと君には感謝しているんだ」
ぽつりと悠季が切り出した。
「は?」
「僕がこの町に来たのは、現実から逃げてきたからなんだ。
この間オーケストラのオーディションを受けて、・・・・・じゃないな。プレッシャーと緊張とでからだの方がダウンしちゃってね。結局オーディションを受けることも出来なくて、くやしい結果になっちゃったんだ。
その結果プロになることが出来なくてね。それで、僕のことを応援してくれていた人たちや僕の我がままを聞き入れて大学に入れてくれた母さんや応援してくれていた姉さんたちに申し訳なくて合わせる顔なんかなかったし、なによりもテストを受けることも出来なかった自分自身がふがいなくて情けなくて、プロの音楽家になれなかったってことがどうしても認められなくて逃げ出した・・・・・。
富士見町って住んでいる町から適当な切符を買ってはじめにやって来た電車にとび乗って、その後も来た電車がどこに行くかなんて考えもしないままでここへとやってきたんだ。ここの駅がどういう名前かも見もしなかったし、これからどこへ行こうなんてあてもなくここに降りて、そのあとのことなんて何も考えてなかったし。
もしかしたら、このまま自殺・・・・・なんてことも頭の隅によぎっていたのかもしれない。
でも、君と会えて――まあ、最初の出会いは最低だったけどね。――君との行動に振り回されているうちに、いつの間にか自分の悩みなんて忘れてしまっていたよ。
なんだか気持ちを切り替えることが出来たみたいなんだ。これならもう笑ってあの街にいるみんなのところへと戻ることが出来るよ。ちゃんとこれからのことを考えられると思う。
たとえプロ音楽家とはならなくても、音楽と一緒にすごすことは出来るし、僕を必要としてくれる人たちもいるんだ。
プロになれなかったときにはと考えていた音楽教師っていう道も悪くない気がしてきたし。
もっとも、今は音楽教師のクチは少ないみたいだからちゃんと就職出来るかどうかも分からないけどね。でも、ちゃんとがんばって就職活動をして努力していくつもりなんだ。
だからね、そのお返しに君が故郷に戻れるように手助けさせてもらいたいと思ってるんだ」
ありがとう・・・・・。
悠季は桐ノ院の肩に額をつけると、ごくごく小さな声でささやいた。その声は風や温泉の流れる音にもかき消されず、圭の耳に聞こえた。
「・・・・・いえ」
「うーん。ちゃんと言えてすっきりしたよ」
照れくさそうに言うと、照れ隠しのようにごしごしと自分のからだを洗い始め、洗い終わるとさっさとまた湯船へと行ってしまった。
残された桐ノ院はうつむいて固まったまま顔を上げることもしなかった。
「さて、僕はそろそろのぼせてきたから先に上がらせてもらうね」
「・・・・・僕はもう少しここにいます」
「そう?それじゃお先に」
そう言って悠季は湯船から上がって歩き出した。
ちりん
何の音なのかきれいな音色が聞こえ、続いてからからと戸の音が聞こえた。そして悠季が部屋の中に入ったのだろう。ぱたりと閉まる音がした。
桐ノ院は思わずはぁっとため息をついた。
悠季の素直で好意に満ちた告白を聞き、自分を叱責したい気分だった。彼に比べて俗なことといったら。
彼はちらりと自分のからだを見てため息をこぼし、悠季のヌードを見たいという誘惑に負けた自分を嘲笑った。
二人は並べられた布団で休み、朝になると悠季はすっきりと目覚めた顔で起き上がったが、一方桐ノ院はポーカーフェイスの中に隠しこんではいたが、冴えない顔つきで目を血走らせて布団から起き上がってきた。
「なんだか睡眠不足みたいだけどどうかした?」
「いえ、なんでもありませんよ」
「大丈夫だよ。きっと君は故郷に戻れるに違いないんだから」
「ええ、そうですね。気を使っていただいてありがとうございます」
悠季がなぐさめてくれた。彼が故国に戻れるかどうか不安で眠れなかったと思っているのだろう。
しかし桐ノ院は心の中で彼の言葉にひそかに苦笑していた。眠れなかった理由は、悠季のせいだったのだから。
だが一方、彼の鈍さと無邪気さに救われる思いがしていた。
自分の世界に戻る時には珍しい客人よき友人として気持ちよく別れなければいけないのだ。
そう言い聞かせていても、胸の中に吹く切ない思いは消えることはなかった。
【8】