【33】

 翌日になっていざ出かけようという矢先に、すぐ先の道にある岩場で落石が起こったという知らせが届き、石を取り除くためにしばらく時間がかかりそうだと知らされた。

街道が使えるようになるまで、道は閉鎖になっているという。

 予定では、この先の升麻しょうまという街に行くことになっている。そこに信頼する者が待っていて、これから先の手配がされているという。

しかし、出発できなくては仕方ない。やむなく悠季は馳車に残って待つことになり、桐ノ院はこの先の様子を調べるために人々が集まっている街の広場へと出かけていった。






 ぼんやりと通りを歩いていく人々を眺めながら、悠季はこれから先のことを思う。

 桐ノ院と一緒にこの先も行くことを承知したのは、本当によかったのか。自分の気持ちの居心地の悪さは別にしても、二人でこのまま一緒にいることははたして桐ノ院にとっていいことなのか。

彼が政治的に危険な立場にあり、一刻も早く安全圏である自分の領地へと入りたい気持ちでいるのは、この世界のことをよくわからない悠季でも察しが付く。

それなのに足手まといである自分がついていっていいものか。マロウドが排他的な目で見られていると言ってもそれは悠季の都合であり、今までは敵の目をごまかすために必要だったと言っても、家人と連絡が取れたという現在では、もう自分が一緒にいても彼には不利なばかりではないのだろうか?

 彼がこの世界に自分を引き入れてしまった責任を果たすために悠季を保護しようとしているのなら、これ以上迷惑になるようなことはしたくなかった。


 彼に嫌われるようなことは。


「・・・・・嫌われるだって!?」

 なぜこんなことを考えるのか自分でも驚いた。なぜ彼の気持ちの方が重要なのだろう。

さっきまでは彼が自分にしたことをあれこれと自分を説得しようとしていたというのに。

 そう、あの夜の事を。

 彼が悠季を抱いたのはあくまでも非常手段だったのだ。雪山で遭難しかけたら、抱き合って助かろうとする。

同じように、あの夜の事はどうしてもしかたなかったことなのだと言い聞かせて。

そんなふうに自分に言い訳して仕方なく彼と同行していくつもりだったのに、どうして彼の身の安全のことばかり気にしているのだろう?

こんな場所に連れて来られたのだから、この地を知っている者について行って助けて貰っても構わないはずだとずるいと非難している良心から目を逸らして開き直っていたのだ。

自分のこの先のことをまず真っ先に考えなくてはならないのだからと。

ちょっと待て。

今度は彼とずっと一緒に居ることの方が重要で、それ以外のことはたいした問題ではないように考えているではないか?

それに改めて気がついて、混乱してしまう。

いったい自分はどうしたいというのだろう?

このまま彼の動向に一喜一憂して過ごすことになるのだろうか。まるで彼に依存してしまったかのように。

それは・・・・・ひどく怖い考えだった。







「やあ、出発するのかね?」

深く考える前に、悠季に呼び掛ける声がして気が逸れた。

「ああ、先生ですか。今回はとてもお世話になりましてありがとうございました」

 悠季を診察してくれていた医者だった。

 人のよさそうな医者の顔を見て、悠季はいささか後ろめたい気分がした。

夜が明けて悠季は元通りの健康を取り戻していたのだが、あまりの速さを心配して桐ノ院がもう一度診察してもらった方がいいのではないかと言ったのを断った。この先生に興味を持たれたくないからと言ってだ。

確かに医者は悠季の回復ぶりに強い興味を持っていたし、熱心だったが、それは悠季がかかった病気が、治ったわけを知りたかったからだし、他の患者のためにもデータを必要としていたからに違いない。

しかし、悠季の意識の中には自分のからだは調べられてはまずいのではないかとささやくものがあった。調べられたらおかしなところを見つけてしまうのではないかという不安と恐れも奥底にある。

だから悠季がマロウドだと察しても態度を変えなかった老医師には申し訳なかったが、診察は断わった。その上、ろくな挨拶もなしに出発しようとしていたのだが、医者の方はそんな不義理を気にしていない様子だった。

「体調はもういいのかな?」

 悠季の心の葛藤など知る筈もなく、医者はくったくなく笑いかけた。

「はい、もうすっかりよくなりました」

「それはよかった。では彼もさぞかし安心なことだろうね」

 医者はそこで思い出し笑いをしてみせた。

「君はとても愛されて、大事にされているんだね。まあ、駆け落ちをしたくらいだから、それだけの愛情と覚悟が必要だったのだろうけどね」

「・・・・・はあ」

「君の容態がとても悪いと告げたらたいそう動揺してね、胸倉をつかまれて、このまま殺されてしまうんじゃないかと思いたくなるほどの迫力で睨まれたよ」

 怖かったねえと、怖そうな顔もしないでのんびりと笑っていた。

「それは・・・・・申し訳ないことをしました」

「なに。愛している者には当然のことだよ。それに、わしが持ってきた薬が効くかどうか、博打のようなものだと言ったものだからね。彼はひどく悩んでいたよ。

それでも、他に方法がなく、このままでは死ぬしかないだろうと告げた後は、実にきっぱりと君の命運をわしに託してくれたよ。『僕が決断したことですから、どんな結果になろうと先生を非難したりしません』と真っ青な顔をしながら言いきってね」

 身振り手振りを交えて、悠季の意識がなかった時の様子を語ってくれた。

「効くか効かないか分からない薬を試すということになった時、自分の命が危ういとなったら覚悟も決意もつけることは出来る。

しかし、家族や恋人の生死を決めるような立場に置かれたらどんな者でも迷いためらうものだ。

自分以外の者の命への責任を負うということはひどく重い責任ものだからね。

しかし、彼は全て覚悟したうえで、決断したのだろう。全てのことは自分がかぶるとね。

だからまあ、薬が効いて本当によかったことだよ。君の命と一緒にわしの命も危うかったからな」

からからと笑いながら医者が言う。それを聞いて悠季は言葉を失っていた。

 老医者が悠季と桐ノ院との間にあの夜何があったのか知る筈もない。

しかし、語られた言葉は桐ノ院という男の心のありようだった。

 どれほど桐ノ院が自分を大切に思っているのか、彼が言葉で誠実に語っていたことを、口先だけだと考えて、信じていなかったのだから。

「君たちの間柄が駆け落ちなのか、それ以外の事情があるのか聞くつもりはないが、あの彼ならきっと君を大切にしてくれることだろうよ。これから先もいろいろと大変だろうが、まあがんばりなさいよ」

老医者には言葉にされない事情を察していたらしい。

「ありがとうございます。先生もどうかお元気で」

 医者は手を振ると、次の患者が待っているのだと言って、さっさと立ち去っていった。

 悠季は深くお辞儀をして医者を見送った。じんわりと目が熱くなる。

 怪しげな旅人なのに、差別することなく診察してくれただけでなく、毎日のようにたくさんの人を治療している一人に過ぎなくても、最後まで心配してくれる人がここにもいた。

悠季は心から感謝と謝罪を込めて、姿が見えなくなるまで頭を下げていた。

そうして、頭を上げた悠季の表情は変化していて、晴れやかにふっきれた表情になっていた。

あの晩、桐ノ院のしたことも割り切ることが出来た。

頭では仕方ないことで、どうしてもやらなければならなかったことだと理解していた昨夜の事実を、感情の面では納得できなかった。それが、今は心の底に飲みこむことが出来たのだ。

そして、この先の旅で自分がどうすればいいのか、分かった気がしたのだった。




「どうかしましたか?」

 いつの間に戻ってきたのか、悠季心ここにあらずといった様子に、心配そうな顔で桐ノ院が覗き込んでいた。

「ああ、お帰り。戻ってきたんだね。大丈夫、ちょっとぼんやりとしてただけだ」

「どこか具合が悪いのでしょうか?もしそうならもう一度宿屋に戻って・・・・・」

「心配ないよ。なんともない」

「そうですか?それならいいのですが・・・・・」

 まだ心配そうな顔のまま悠季の方をちらちらと見ていたが、顔色もいいし、動作にもぎこちないところがないのを見てとると、表情を緩めた。

「道は大丈夫なのかい?時間がかかるかもって話だったけど」

先ほどまでは会話もぎこちないものだった。それなのに今の悠季は以前と同じようにくったくなく話しかけて来る。まるで悠季が倒れる前の時のように。

いったい何があったのか問いただしたかったがやめた。

社交辞令なら幾らでも知っていたが、ひどく傷つけてしまった彼にこんな時どういう言葉をかけていいのか分からなかったのだ。

「街道は開いたそうです。出発しても構いませんか?」

「うん、行こうか」

桐ノ院は馳車に乗りこんだ。宿屋に滞在している間にあちこち修理をした馳車は軽快に走り始める。

道は今までのような舗装されていない土の道から、石畳で出来た立派な道路へと変わっていた。このあたりからいよいよ国の中央に近づいていくということらしい。

「升麻から桂枝までは近いのかな?」

「いえ、かなりの距離がありますよ。この馳車では1ヶ月ほどはかかるでしょう」

あっさりと言った桐ノ院の言葉に驚かされた。

「だったら、桂枝に着くのに大変じゃないか!その・・・・・大丈夫なのかい?急いで行かないといけないんだろう 」

「ああ、大丈夫ですよ。【扉】を使いますから」

当然と言った様子で、彼は言う。

「扉って?」

「ああ、君の世界にはなかったのですね。主要な都市には扉と扉の間の空間をつなぐ事が出来る構造があるのです。

他の乗り物と違って様々な制限があり、それほど大きな物は運べませんが、急ぎの時の人や物の移動には便利なものなのですよ」

「扉って、ねえ。まるでアニメに出て来る道具みたいだ」

「おや、君の世界にもあるのですか?」

「いや、現実にはないんだ。アニメ・・・・・って言っても分からないか。架空のお話の中に、ネコの形をした人形が主人公のために便利な機械を出してくれる話があってね。その道具の中にあったのさ」

 くすくすと悠季が笑う。

前に乗ったネコの形の乗り物といい、便利な扉といい、この世界には悠季の世界と全く違う理で動くシロモノが多い。もっともファンタジーとは異なっていて、いささか物騒な内容も含まれているようだったが。

「で、桐ノ院。升麻で家の人と待ち合わせて、その扉を使って桂枝に行くわけだね」

「ええ、おそらくそうなると思います。詳しい事は、升麻で宅島に会ってからのことですがね」

「宅島って言うのが君が信頼しているという人なんだね」

「そうですね。彼とは幼いころから知っていて、気心が知れています。それからもう一人、僕の家に古くから仕えている執事で、伊沢という者がおりまして、この二人が僕と公爵家を支えてくれていますよ」

 馳車が出発するまでは、桐ノ院も悠季の機嫌を伺って、腫れものを扱うような遠慮しながらの口調だったが、いざ出発すると悠季が気軽に声をかけて来ることでほっとしたのか、肩の力が抜け穏やかな表情で気軽にこの国の様々な事情を教えてくれた。

 もっとも、彼にとっては常識であり説明する必要を感じていないこともあって、逆に悠季が質問してくることで驚いていることもあったが。

 二人の旅はその後も順調に進み、いよいよ升麻に近づいていく。

「もうそろそろ街の尖塔が見えて来る筈ですよ。あの街の象徴シンボルとして旅人たちの格好の目印になっているものです。

ああ、見えましたね。ほらあれですよ。もうすぐ到着します。向こうに着いたら熱い風呂とまともな食事にありつくことが出来ます」

 平然とした態度を崩さなかった彼もやはり緊張していたようで、安全な場所が近づいていることでほっとして気分が高揚してきたのか、口数が多くなってきた。

「そうかぁ。するともうすぐお別れってことなんだね」

「・・・・・えっ」

 桐ノ院はぎょっとした様子で、馳車のスピードがガクンと落ちた。

「確かに、桂枝に着いたら君が安心していられる場所を探すと約束しましたが、それまでの間は僕の屋敷に滞在してくださるのではないのですか?」

「それは申し訳ないよ。僕はもうそろそろ独りで生きることを考えないといけないから」

 そう思いながら、きりきりと胸が痛むのはなぜなのだろう?まったくといっていい未知の世界で生きて行かなければならないという不安のせいか。それとも他の理由か・・・・・?

「・・・・・やはり僕がしたことは許せませんか?だから急いで僕から離れようとしている」

「そうじゃない!そうじゃないんだ」

 悠季は急いで彼の言葉をさえぎった。

「君はずっと僕を守ってきてくれたし、僕のためを思ってしてくれたことばかりだったからね。

・・・・・あの夜の事は、気にしていないと言ったら嘘になるけど、その・・・・・治療のために必要なことだったと信じることにしたんだ。

だから、君の事を恨んだり嫌ったりしたから離れて行こうとしているんじゃないんだよ」

 桐ノ院の表情に少しだけ安堵の色が浮かんだ。

悠季が決して許してはくれないだろうと覚悟していたのに、許しを与えてくれたのだ。しかし結末は、桐ノ院の思うような事にはなりそうもない。

「君の事はとてもありがたいし感謝している。

でも・・・・・いつまでも君の好意に甘えているわけにはいかないと思ったんだ。今までは僕が君の身を守るための隠れ蓑になれたのかもしれないけど、家の人と連絡が取れたのならもう必要ないだろう?

これ以上僕がいてはかえって危険だと思う。邪魔者はさっさと消えるよ」

「邪魔者などと・・・・・。僕が君をこの世界に連れてきてしまった負い目は決して無くなりはしませんよ。ですから、僕の力の及ぶ範囲で君の手助けがしたいと思ったのです」

「うん。ありがたいと思ってる。でもね、心苦しいんだ。君はこの間言ってたよね。僕に、その・・・・・好きなのだとか何とか」

「ええ、愛していますよ」

 一瞬にして悠季はぐっと言葉に詰まり、赤くなった。