桐ノ院が看病を始めてから二日後。

悠季の容態はいっこうに変わらなかった。毎日医者は注射をして帰っていったが、その間桐ノ院はかいがいしく医者の指示どおりに鎮痛作用のあるというハーブ茶や薄めた果汁を口に含ませて水分を補い、少しは出てきた汗を拭いたり、高熱にうなされている彼の額やわきの下を冷やしたりと出来るだけのことをやっていた。

しかし、そんな桐ノ院の献身的な看護にも関わらず彼の意識は戻らず、熱も高くなったまま下がろうとしない。



 枕元を離れることなく看病を続けていた彼のもとに、桐ノ院家の家人が到着した。

 厚朴こうぼくで仕立て屋の連絡網を使って頼んでおいた伝言がようやく届き、合流するはずの麻黄まおうで会えなかったために、あちこち探し回ってようやく捜しあてて来たらしい。

 夕暮れ時の宿屋という場所柄、人の出入りの多いときをねらって目立たないようにやってきた彼らは、宿屋の裏口でひっそりと桐ノ院を待っていた。

 部屋から降りてきた彼の無事な姿を見るなり緊張しきった顔が緩み、いっせいに涙を浮かべ喜びをあらわにした。

「公爵様、よくご無事で・・・・・!」

 そう言うなり言葉を失っていた。

「なんとおやつれになられて・・・・・。よほどご苦労をされたことでございましょう」

 家人たちはそう言って嘆いて見せた。

 彼らが目にした桐ノ院は、数日の看病で無精ひげが生え目も充血していたが、その気力は尽きることはなく目から力を失っていない。

「僕の事情はまた後ほどに。それよりも詳しい事情を知りたい。僕のところに来たのは君たちだけか?伊沢か宅島は来ていないのか?」

「伊沢様は宮廷や大神殿の状況が難しく桂枝けいしを離れられません。宅島様は今こちらに急いで向かっておられます。公爵様はここよりも安全な場所に落ち着いていただくために、予定していた麻黄ではなくて、升麻しょうままで移動していただきます。そちらに宅島様もいらっしゃる予定になっておりますので、どうぞこのまま私どもと一緒にいらっしゃってください。宿屋の支払いは部下にやらせておきます」

「だめです」

「は?」

 桐ノ院家の中で、伊沢の補佐をつとめている村沢は訳が分からないという顔をした。

「僕の連れが今病気にかかり、重篤なので動かすことは無理なのです。宅島にはここに来るように言いなさい」

「お連れの方・・・・・ですか?もしかして、宿の者が言っていた男性ですか?具合が悪くて、数日寝込んでらっしゃるという」

「彼は僕の命の恩人であると同時に、僕の事情に巻き込んでこちらに一緒に連れてきてしまったひとです。無事に向こうの世界に戻してさしあげなければならない。その責任が僕にある」

「向こうの世界ですって!?」

 村沢はあきれたように言った。

「つまり、彼は客人まろうどというわけですか。公爵様、なぜそんな卑しい者にお心を使われるのですか?」

 村沢以外にも同様に考えている者がいるらしく、彼の背後から賛同のつぶやきがもれた。

 ぎゅっと桐ノ院の眉がしかめられた。

「やめなさい!桐ノ院家の者が客人を偏見の目で見たり蔑んだ言い方をするのは僕が許しません!言ったはずです。彼は僕の恩人だと。失礼な物言いは僕が許さない!
それに客人というのが嘘をついたり盗みをはたらいたりすると言う風評は、この世界に迷い込み、困った挙句に罪を犯してしまう人もいるという、当然ともいえる事情のためです。悠季・・・・・いえ、守村さんは向こうの世界で困っている見知らぬ他人に救いの手を差し伸べてくれた、僕にとってかけがえのない人です。汚らわしいなどと二度と口にしてはならない!」

今まで公爵は声を荒らげて家人を叱責することなどほとんどしたことがない。村沢はあわてて頭を下げた。

「・・・・・失礼致しました。では部下の一人をここに残して看病に当たらせましょう。ですから公爵様は一刻も早く升麻しょうまに向かわれてください」

 背後に控えていた男達に手を上げて指示すると、中からおどおどとした態度をしたまだ少年のような男が進み出た。おそらく同行したなかで一番新米だろうと思えた。

「だめです!」

 桐ノ院は断固として拒否した。

看病を代わってしてくれる者がいるのなら、桐ノ院でなくても彼を看病することは出来る。しかし彼にとって今一番重要な問題は悠季のそばにいること、彼を救うことだった。

もし、この地を離れたなら、悠季の病態がかわって死んでしまうのではないか、自分がそばにいることで悠季の命を繋ぎとめている、そんな錯覚さえ覚えている。短期間の間に心から惹かれた人、まだ自分を受け入れてはくれていない。しかし、彼に心を奪われてしまった。

悠季にもしものことがあれば、自分はどうなってしまうのだろうか?

そんな確証などない不安が頭から離れない。

それだけではない。理性的な理由で桐ノ院がこの地を離れれば悠季の命はあやういものになるかもしれない。

さっきのやりとりだけでも、彼ら公爵家の家人が客人について見下しているのは明らかで、客人である悠季への態度も同様になるだろうと想像できる。桐ノ院がここを離れたとたんに看病はおざなりになってしまう可能性がある。あるいは、密かに命を奪われる可能性さえ・・・・・ありえる。

悠季を本当に大切に思っているのは桐ノ院だけであり、家の事情を一番に考えている家人たちには、異世界から来た客人である悠季は邪魔者以外の何者でもないだろう。桐ノ院が彼のそばを離れたら悠季の身に何が起こるのか分からない。

「僕はこのままここで宅島を待ちます。部屋に戻っているからお前たちは彼にそう伝えに行きたまえ」

「公爵様!」

 すぐにもここを引き払って出発するのが当然だと思っていた彼は、意外な桐ノ院公爵の言葉に仰天していた。

「公爵様は、その・・・・・もしや『客人まろうど』の手管に惑わされているのではありませんか?」

「・・・・・なんですって?」

 冷ややかな声が桐ノ院の口から出た。その淡々とした冷ややかさが彼の怒りの強さを示しているのを村沢も良く知っていた。

彼と一緒に来ていた者たちはみなはみるみる顔色を青くしていき、きょろきょろと視線をさ迷わせて、村沢に失言の責任を押し付けてなんとか怒りの矛先が自分に向かないように恐恐としている様子が明らかだった。

 主人である桐ノ院公爵は普段は寛大だが、ごく稀に逆鱗に触れたときの恐ろしさは身に沁みて知っている。

「今の言葉は聞き逃して咎めないでおきます。ただし、もう二度と彼の悪口を言わないように!次はありません」

「大変ご無礼を申し上げました」

 しかられた部下たちは真っ青な顔で必死にあやまった。だが、一方で、それほど客人に溺れたのかと考えていた。冷徹でどんな感情にも心を動かされることなどないように思われる桐ノ院公爵が、どうしたというのだろう?と。

  


 桐ノ院はその後部下たちと詳しい打ち合わせを済ませて、悠季の寝ている部屋へと戻ってきた。

 彼らは渋々ながら桂枝へと戻っていき宅島からの連絡を数日中に入れることを確約した。警護の名目でここに残ることは一人も許さなかった。誰か連れが増える方が目立つからと。

 階段を上がりながらふと頬に触るとざりっと髭が触れた。ここ数日は自分の身の回りのことにも気が回らないでいる。悠季の容態は小康状態を保ってはいたが、未だに意識が戻らず、食事ものどを通らない。

このまま悪化していくのではないかという不安は、医学にはさほど詳しくない桐ノ院にもある。じわじわと容態は悪い方へと堕ちていく。なんとかして意識を取り戻して欲しいと願っていたが、その方法も見つからない。

「ああ、戻ってきたか」

 振り向いたのは悠季の治療をしてくれている医者だった。桐ノ院と客が話している間、様子を見ていてくれていたのだ。

「長い時間、失礼しました」

「なんの、構わんよ。たいした時間ではないし、宿の女将が出してくれたワインを飲んでいたからな。だが・・・・・彼にはもう時間がない。それは、お前さんも分かっているのだろう?わしは一介の田舎医者でたいした技術も知識も持ってはいないが、ここに大神殿の【輝晶】を使った最新の技術があったとしても無理だろうと思う」

 桐ノ院は答えなかった。

「実のところを言うと、わしはここまで彼がもつとは思っていなかった。わしが呼ばれた最初の晩に亡くなっていてもおかしくなかったのだからな。薬をからだが受けつけたとは言ってもその効果はほんのわずかだったようだし。その上時期的にも遅かった。今日までもっていたのが奇跡的だと思っている。
 しかし、それももう時間切れだろう。明日か、明日の晩か・・・・・。そのあたりがぎりぎりだろうと思う」

「ですが・・・・・!」

 桐ノ院の言葉はその先を言うことが出来なかった。悠季の容態が最悪なことに目をつぶっていたのは自分でも判っていたのだから。

「明日の朝また来るよ」

「・・・・・ありがとうございました」

 桐ノ院をいたわるようにして背中を叩いていった医者を部屋の外まで見送って、寝室へと戻った。

 なんとかして悠季を助けたいと思っていた。異世界で見返りを求めることなく桐ノ院を手助けしてくれた彼。その容貌も性格もこの上なく愛しく思っているのに、どうすることも出来ない。

「なんとしても助けたい・・・・・!誰か・・・・・神よ・・・・・!」

 神になどすがったことのない桐ノ院の口からこぼれ出た言葉。



 だが、それに応えるものなど誰もいないのだ。


【28】