悠季は不思議な夢(本当に夢なのかどうかは分からなかったが)から覚めて飛び起きたあと突然倒れ、高熱を出して意識が戻らなくなった。

 桐ノ院はあわてて医者を呼んでもらうように頼み急いで往診してもらったのだが、医者を待っている間にも病状は悪くなる一方だった。のどがヒューヒューと鳴るようになり、最初はかなり出ていた汗さえほとんど出てこなくなっていき、肌が熱く乾燥している。もしやこれは夢の中での出来事が関係しているのかとも考えたのだが、どうやら違うらしい。

 このあたりで一番腕のいいと評判だという医者が呼ばれてやってきた。真っ白な髪と少し茶色が残っている髭を蓄えた男性で、眉だけがまだ濃い色を残しているのが彼をアクの強い人間に見せていた。髪の毛だけを見ればかなりの年にも見えていたが、動作はきびきびとしていて声にも張りがあり、更に彼の年齢を分かりにくくさせていた。

 医者は桐ノ院が悠季のベッドまで案内すると容態を診ていくうちに顔をしかめていった。医者がそんなに簡単に表情を変えないはずで、これは悠季の病態ははかばかしくないということだろう。

 やがて悠季の手の傷を見たところで、それ以上の診察はやめた。

「彼の具合はどうなんですか?」

 診断の結果を聞こうと待ち構えていた桐ノ院に向かい、医者は首を横に振って言った。

「彼には以前から症状が出ていたんじゃないかね。手足に痺れやこわばりが出てきたり、目が痛んだり耳鳴りがしたりしていたはずだ。そして、微熱が続き、次第に熱が高くなる。そうじゃなかったかね?」

 それを聞いて桐ノ院は思い出してうなずいた。

 旅の途中、悠季はあちこちで躓きそうになっていたり、ひどくだるそうにしていたときがあった。慣れない旅のせいなのかと見過ごしていた。彼の不思議な夢にうなされているという方に気を取られていたとはいえ、なんでもっと体調に気を配ってあげられなかったのか。

「これが彼の病気の原因だろうよ」

 そう言って悠季の手を指し示した。そこには以前リスのような動物にひっかかれたと言っていた痕が消えずに赤く腫れていた。

「それはどういうことですか?」

「どうやらあなたたちはこのあたりのことを知らんようだな。このあたりには紅狗こうくという生き物がいるんだが、おそらくそいつに咬まれたか引っ掻かれたものだろうな。見た目はかわいいが誰も手を出そうとはしない動物なんだよ。
そいつが持っている毒はじわじわと人間を殺してしまうほどなのでね。この辺りの人間はいつもそいつの危険を知っていて注意してるんだ。そして、もし紅狗にやられた時には何をおいてもまず医者にかかる。時間が生死を分けるからね。
この青年も、もっと早くわしが診察していたなら助けられる方法もあったんだがね」

 医者は肩をすくめてみせた。

「悠季を助ける方法があるというのなら、なぜそれをやっていただけないのですか!?」

 桐ノ院が叫んだ。その悲痛な響きは医者にも通じたらしい。

「もう紅狗の毒が全身に回っている。高熱が出ているということはもう手遅れと言うことなのだよ」

 気の毒そうな口ぶりでそう言った。

「そんな・・・・・!」

 桐ノ院は絶句した。それほどに彼の状態は悪いのか?

「ですが!なんとか彼を救う道はないのですか?この周辺で昔からある病気なら治療の方法は何かあるのではありませんか?!」

一転して胸倉を掴みかかろうかという勢いで食ってかかった。

「方法は、ないんだよ」

医者は淡々と答えた。しかし、桐ノ院の必死の訴えにふっと目に迷いを見せた。

「・・・・・だが、もしかしたら、本当にもしかしたらなのだが、彼を助けられるかもしれん。一か八かの危険な方法だから、ぜひにと勧めることは出来ん。しかし、それでもやってみる気は・・・・・あるかね?」

「彼を助けることが出来ると言うのなら、ぜひ!」

 勢い込んでうなずいてみせた。

「まあ、待て。ちゃんと事情を聞いてからにして欲しい。・・・・・助ける方法というのは、これなのだがね」

 持ってきたかばんの中から、白い水薬が入っている小さな壜を出して振ると小さな水音がたった。

「これならば彼を救うことが出来るかもしれない」

「では早く彼に飲ませてください!」

「ああいや、これは飲ませる薬ではないんだ。この薬はね、直接薬を体内に入れるんだよ」

 その言葉に桐ノ院は目をみはり、医者はうなずいて見せた。

「実はこの先の桂枝けいしという大きな都市の片隅に、客人の世界からきたという医者や医療器具を作っていたという技師などが集まっている集団が出来ているんだがね。向こうの世界で身につけてきた技術を使ってこちらの世界でなんとか生きていく場所を作ろうとがんばっている人たちなんだ。
 わしは向こうの医学に興味があったんで、桂枝に出かけていろいろと教えを請うたのだが、その中に毒の中和方法というものがあってな。地球むこうにある毒を中和する方法と言う技術が紅狗の毒素を中和する方法に使えるということで、いろいろと調べてもらった結果、紅狗の毒にも効く薬を作ってもらうことが出来たんだ!
それからこれは、注射器と呼ばれる道具だそうでね、これで薬をからだの中に入れる」

 医者は持参したかばんの中から見たこともないような器具をとりだした。

「それは、ずいぶんと乱暴・・・・・ああ、いや変わった方法なのですね」

「まあ、普段のわしら医者のの治療ではわざわざ血を見ることなどはないからな。こちらの医療を習った者には粗雑な方法だと思うしわしも同様なんだが、確かにこの方法を試してみて、何人もの人間が助かっているのだから、立派に通用する技術なのだと思う。客人マロウドの世界の医療というのはこちらとはまったく違う理念から出来ているらしいんだよ。
 ただ、この薬が彼に効くかどうかはやってみないと分からない。この薬がからだに合うかどうかは調べようがないのでな。数人かの患者は逆に薬が毒となってしまい、あっと言う間に死んでいる。薬の効用は十分に説明した上でだから、家族も納得した上で使ったわけだが、それでもつらかったよ・・・・・」

 医者はその頃の時の葛藤がうかがえる様子で、ため息をついた。

「だからだね。これは本当に最後の手段、五分五分の博打なのだと思ってもらっていい。それでもかまわないというなら考えよう」

 助かる方法を提示されて桐ノ院はわずかに愁眉を開いたが、医者の次の言葉ですぐに顔をこわばらせることになった。

「言っておくが、彼に薬を与えるには遅すぎる。だから、体力的に薬が効き出すのが間に合うかどうか分からない。毒は心臓を犯し始めているから、心拍数が異常に上がっているだろう?今夜辺りまでもてばいい方ではないかと危惧しているんだ。薬の効果が間に合って彼が助かるか。あるいは合わずに苦しんで死ぬか。
 一つだけ期待できるのは、この薬を製造したのが向こうの世界の人間だから、この患者にも効く確率は高いんじゃないかと思ってね。
 もっとも、気休めにすぎないものになる可能性も高いんだ」

「さてどうするね、彼にこの薬を与えるかね?」

 医者は淡々とした口調で説明を終えた。

 桐ノ院は動揺した。もしかしたら、悠季を助けるつもりで逆に苦しませ、死なせてしまうことになるかもしれない。だが、このまま何もしないままではいずれにせよ彼が助かる道はないだろう。
 その迷いが医者への承諾の言葉を口にのぼらせることをためらわせた。

「まあ、助かるか助からないかは結局のところ当人の運次第ってことになるわけだしね。・・・・・だから仕方ないと思ってるよ」

 そうつぶやくと、桐ノ院のためらいを拒否ととったのか、さっさと壜を仕舞いこもうとしていた。

「待ってください!」

とっさに医者の手を掴んだ。

「それは、彼がもう手遅れだから楽に死ねる方法を選んだ方がいいと言ってらっしゃるのですか?しかし、僕はたとえわずかな確率であっても彼を救う方法に賭けてみたいと思います!そう、こんなところで迷っている暇などなかったんですよね。

どうか彼にその薬を与えてみてはもらえませんか?治るかどうかやってみなければわからない、と僕は承知しています。少なくともやる価値はあると思う。金ならいくらかかっても構わない。出来るだけのことをして下さい!」

 桐ノ院は静かな押し殺した声で医者に言った。その圧迫感に思わず医者はたじろいだ。この男はいったい何者なのだ?普段人に命令することに慣れて当然だと信じきっている口調。ただの貴族ではあるまいと思われるようなその態度。

「・・・・・そ、そりゃあ、まあ、わしは医者だからやるべきことはやるがね。彼が助かるかどうか、本当に可能性はごくわずかだと思わなくてはいけない。それでも?」

 桐ノ院は黙ってうなずいた。

「・・・・・ふむ?あなたの大切な伴侶なのかな?だったら彼を見捨てることは出来ないだろうがね。・・・・・まあ、ためしにやるだけやってみるか」

 無言のまま圧力をかけてくる桐ノ院の迫力に負けたのか、医者は渋々ながらもう一度薬を取り出した。

 桐ノ院が見たこともない玻璃で出来た円筒の筒の先に、小さな穴が通っている針がついている器具を出して薬を筒の中に吸い上げ、悠季の腕に針を刺して薬液を注入した。

さらにもう一本。

「これには『熱さまし』だそうだからいくらか症状が楽になるだろう。あまり高熱が続くのはよくないからね」

 しばらくは何も起こらなかった。しかし一時間もしないうちに、先ほどまで苦しそうだった悠季の息が少し楽になったようで、医者もほっとした様子でしかめていた眉を解いた。

「あとは様子を見るだけしか出来ん。このまま熱が下がって彼の意識が戻るかどうかにかかっている。彼が本当に持ち直すかどうかは彼の体力次第というところだろうな。目を覚ませば薬が効いたってことで安心なんだがな。
 まあ、あとでまた様子を見に来るよ。お大事に。」

「ありがとうございました」

 医者が立ち去った後、桐ノ院は悠季の枕元につきっきりで看病していた。

 そして。

 医者が今夜辺りと言っていた峠はなんとか持ち越して夜が明けた。






 ――――だが、悠季の意識は戻らないままで、容態は一向に良くなろうとはしなかった。――――


【27】