悠季がいつものように夢の中でバイオリンを弾いていると、そこに堂々としたチェロの音が聞こえてきた。そしてためらいがちなビオラも。
弾いていたのは、悠季や町の人間とは違い、また桐ノ院が着ていた貴族の服とも少し違う衣装を着た二人の男性で、チェロを弾いている彼が視線で続けるようにとうながして、悠季と息を合わせたハーモニーを奏でてくれる。
ビオラの奏者の方は、あまりこの曲をやる気がないようで、あまり上手ではない。曲が進むのを追いかけるのがせいぜい。練習不足がはっきりと出ていたが、チェロとバイオリンとはビオラの出来の悪さをものともせず、競い合わせるかのように見事に奏で続けた。
「ブラボー!」
曲が終わり、悠季が曲の余韻を楽しんでいると、声がかかった。
あわてて声のほうに向き直ると、チェロを抱えた男性が笑いながら拍手してくれていた。どうやら先ほどの息のあった合奏をしてくれたこの人も、この曲を気に入っていたらしく、また演奏の出来にも満足しているようだった。
悠季はこの部屋に来るようになって初めて他の人間に出会った。
「いい腕だな。気持ちよく弾くことが出来たよ」
演奏が終わると飯田は声をかけた。例のバイオリンを弾いていたのは細身の青年で、どこか異国の雰囲気を持っていた。
彼は飛び上がるようにして向き直り、飯田を見つけて驚いた様子だったが、すぐにはにかんだ笑顔を見せた。
「あの、ありがとうございます」
青年の笑顔は好感がもてるもので、飯田が握手の手を差し出すとおずおずと握ってきた。
もしかしたら触れることは出来ないのではないかと思ったが、彼の手は実体のある手だった。華奢だったが、指の長いあたたかい人間の手。
「俺の名は飯田弘っていうんだ。お前さんは?」
「あ、僕は守村悠季と言います」
「守村・・・・・守さんか。よろしくな」
「あ、はい。こちらこそ。でも、いったいあなたはどなたなんですか?今までこの部屋には僕一人で、誰にも会わなかったんです・・・・・。不思議な話ですけど」
「すると、守さんはここがどこだか知らないのか?」
「・・・・・どこかって、今まで僕の夢の中だと思っていたんです。でも飯田さんに会って握手も出来たんだから、違うんですね。だとしたら、ここはどこで、どうして僕はここにいるんだろう?」
不思議そうに首をかしげていた。
「夢って・・・・・ああ、なるほどね」
飯田が考え込んでいると、そこにビオラを弾いていた男、笹田が割り込んできた。
「おい、いいかげんにバイオリンをこちらに返したまえ!このこそ泥!」
彼はキンキンとした声で守村と名乗った青年を怒鳴りつけた。
「・・・・・どういう意味ですか?」
突然泥棒扱いされて、青年はむっとしたらしい。気が優しいだけ青年と見ていたが、それは見かけだけのことであって、どうやら意外に気が強いらしい。
「そのバイオリンはこの大神殿の貴重な宝物だ。それも知らないで勝手に使っていたのか?」
そういうと、彼の手からバイオリンをひったくるようにして取り返した。
飯田と握手をしているのを見ていて、相手が幽霊などのたぐいではないと考えたようだった。人間相手なら怖いことはない。とたんに権威を傘にきて居丈高になる類の男だった。
「ここは・・・・・あの、大神殿、なんですか?」
「当たり前だ!国中のどこを探してもこれほど多くの貴重な楽器や楽譜が置いてあるのは他にないだろう。そんなことは子供だって知ってるぞ」
「・・・・・す、すみません、そうなんですか?」
「それで、お前はどこの誰なんだ?どうやってここに入ってきた?」
相手が幽霊でもなく、神殿にも貴族にも関係はないようで、おそらく庶民と推測される・・・となると、笹田は更に調子に乗って高圧的に詰問し始めた。
「・・・・・どうやってと言われても、気がついたらここに来ていたんですけど」
「笹田」
飯田が警告するように小さな声で言ったが、笹田には困ったことにその警告が、さらに厳しく尋問するようにと聞こえたらしく、ますます声を高くした。
「我々はここ数日の間この部屋の中から聞こえてくるバイオリンの音の謎を捜索していた者だ。言い逃れは許さないからな。そんなあいまいな弁解で許されるほど甘いものではないと思うんだな。ここは選ばれた人間しか入ることは許されない、厳重に管理された保管庫なんだぞ。それを勝手に何日も入って貴重なバイオリンを許可なく弾いているなんて・・・・・!我々と一緒に来てもらおうか。どんな方法を使ったのか調べるからな。大きな咎めがあると思っているんだな!」
「そんな・・・・・!だって僕は何も知らないんだ。どうやってここに来たのかもここがどういうところなのかだって・・・・・!」
「誰かが手引きしてここに入れてもらっていたのか?それならそいつも同罪だな」
その言葉を聞いて、青年はさっと青ざめた。
「ほう?どうやら心当たりがあるらしいな。まずそいつの名を教えてもらうことにしようか。それから僕たちをこの部屋から閉め出していた方法を教えてもらう。さっさとこっちへ来るんだ!取調べは表で行うからな」
「おい笹田、やめるんだ!!」
飯田は笹田の横柄な態度を止まらないのを見て、急いで声をかけた。これ以上何か言えば取り返しがつかないことが起こってしまう!
しかし、間に合わずに笹田はぐいっと手を伸ばし、青年の手を掴んだ。と思った。
が、次の瞬間、笹田の手からするりと彼の手が外された。いや、正確に言えば、手の中から相手の腕の感覚が消えうせたのだ。
「ごめんなさい!もう二度とここには来ませんから!!」
青年はそう叫ぶと、さっと身を翻し扉に向かって走り出した。そして
―――― 消えうせた ――――
「な、何っ!?」
笹田が愕然として扉の前で立ちすくんだ。
「あ〜あ。やっちまったよ。まったくどうしてくれるんだ!?なんてヘマをしてくれたもんだか・・・・・」
彼の背後で大きなため息と一緒に飯田が言った。
「ど、どういうことですか?」
「だから、今のが幽霊の正体ってことだろうが」
「だ、だって、手を掴めましたよ?バイオリンだって取りかえしたし」
先ほど青年の手から取り戻したバイオリンは、確かに椅子の上に置いたはず。
「な、ない!?」
椅子の上には何も置いてなかった。
「当たり前だ。あれは実体じゃなかったんだろうぜ。俺たちが彼のいうところの『夢の中』に招き入れられたということさ。彼が作り出した亜空間に音楽を一緒に演奏したことで招待されたってところだろう。だが、彼が夢から覚めれば、実体でないものは全て消えうせる」
飯田がバイオリンケースがおいてある小テーブルへと歩み寄り、ここが定位置となって久しい【エラトー】のケースを開けてみると、何事もなかったかのようにきちんと納まっていた。
「そんなばかな!・・・・・飯田師が仕舞ったんでしょう?冗談はよしてくださいよ」
笹田の顔がみるみるうちに青ざめて、ひくひくと頬がけいれんした。
「お前さんにだって分かってるはずだぜ。バイオリンケースはお前の視線の先にあったんだ。つまり俺が急いでこっそりとバイオリンをケースの中にしまいに行こうとしたとして、お前より背後にいた俺がお前の目からのがれて出来ると思うか?」
バイオリンケースの中にはきちんと弓も入っていた。
笹田は青年から弓は取り上げていなかったはずだった。
確かにあの謎の青年が片手に持ったまま扉へと走っていったのを覚えている。バイオリン本体も綺麗に拭きあげられて松やにの粉がついている気配もない。たった今バイオリンを弾いていたのなら、まったくついていないはずはない。拭くひまなどなかったはずなのだから。
「つ、つまり・・・・・?」
笹田はごくりとツバを飲み込んで飯田の方をうかがった。
「さっきの彼が夢だと言っていたとおり、彼はどうやってか、無意識に空間と空間を重ね合わせることが出来るんだろう。そして、音楽が俺達とあの世界とをシンクロさせてくれるんで中に入ることが出来る。
・・・・・だが、もうここでバイオリンが鳴ることはないだろう。守さんにもうここへは来ないと言わせちまったんだからな!」
飯田はまた一つため息をついた。
「あの青年がどこの誰でどこに住んでいるのかを知る手がかりを失ってしまったんだぜ。彼をなるべく早く見つけなくちゃいけないっていうのになぁ。やれやれ、どうしてくれる?」
「どうするって・・・・・。いいじゃありませんか。あの幽霊だかなんだかがもう来ないって言ったんなら問題はないでしょう?」
自分がどうやら失敗をやらかしたのだということには気がつきはじめたらしい。だが、とんでもないことをして事件を解くきっかけを全て壊してしまったということまでは気がついていないらしい。
「なぁ、お前さんが【エラトー】にそう言って納得させてくれるのかい?あれはどこかの幽霊のようなやつで、もうここには来ないから、また封印されてくださいってな!
このバイオリンがどんな経歴の持ち主なのか分かっているんだろうな?」
【エラトー】は呪いをまとったバイオリン。弾くものを選び、また長い間弾かれないと周囲に災いを起こすと恐れられていた。
実際に昔の記録書には幾つもの災害が書き綴られているのだ。
だから、以前の弾き手が亡くなった時、大神殿ではこのバイオリンを封じ、ここに収蔵した。
ふさわしいバイオリニストが現れたときに封印を解きその人物に渡すことになっていたが、今まで何度か試みたものの、以前の演奏者ほど相性がよくないのか腕がない者ばかりなのか、誰もバイオリンが満足してくれる弾き手にはなれなかった。
「もう封印は効かないぞ。バイオリンが納得する弾き手を見つけてしまったんだからな。どうするつもりだ?バイオリンは自分のもとへと弾き手を呼び戻そうと、相手を求めて災いを起こすことになるんかもしれないんだぞ」
飯田は淡々としゃべっていたが、その内容は非常事態を告げていた。
「ど、どうすればいいんでしょう?」
笹田はみるみるうちに青ざめていった。
今更ながらに自分のやったことがとんでもないことだったと悟ったらしい。どこかにこの大神殿出身だという優越感をただよわせていた顔がこわばり、おろおろとしながら飯田に縋るように尋ねてきた。
今まで態度には見せないように隠しているつもりらしかったが、地方出身の神官だと見下しているのがあからさまだった、当の飯田に。
飯田は答えずに【エラトー】を見つめていた。つややかに光っているバイオリンは、ただのモノのはずなのになぜか嬉しそうにさえ見えて、現在のバイオリニストに満足しているらしいと感じられた。
「さて、どうしたもんかな」
飯田は内心の困惑は顔に見せず、背後でまた言い訳を並べている笹田は無視して、どうしたらこの難問を解決できるか必死で考えていた。
【26】