その夜、飯田と笹田が収蔵庫の扉の前に言ってみると、何人もの学生や神官見習いらしい者たちが、なにやらひそひそと話しながら待ち構えている姿があった。

「おい!お前たちなにやってるんだ!?」

 止める間もなく、笹田が怒鳴りつけた。

「あ、まずいっ!」

 飯田はひょいと手を伸ばすと、ばたばたと逃げ出そうとしている中の一人の襟首をさっと捕まえた。

「なぜ逃げる?」

「そりゃ学生たちはここへの出入りは禁止だからですよ」

 笹田が、飯田の手によって捕まえられた学生を睨んだ。

「お前はどこの学生だ?担当の神官に引き渡すからそのつもりでいるんだな!」

 しかし笹田がその学生を捕まえる前に飯田が手を放していた。

「行けよ」

ぽんと背中を押すと学生はぱっと逃げ出していった。

「飯田師、なんで逃がすんですか!あいつはここの規則を破ってるんですよ!?」

「学生が好奇心旺盛っていうのはどこでも変わらないんだ。これくらい見逃してやるのは当然だろうよ」

「しかしですね!」

「しっ!」

 言い募ろうとしている笹田をさっと口止めした。扉の奥からバイオリンの音色が聞こえてきたのだ。

「ふぅん?本当に聞こえるんだな」

 その音色は甘くまろやかで優れていたものだったが、練習らしく弾いては止まりまた弾いて止まりと同じ場所を繰り返し弾いている。

 それに・・・・・。

「こりゃあ、トリオかな?」

 飯田の記憶にあるフレーズは確か一人では弾けないはずの曲だった。

「すると、この中のバイオリンの弾き手は一緒に弾いてくれるやつを募集してるってわけだ」

 飯田は何事か思案していたが、そのまま引き返していった。

「い、飯田師!幽霊はどうするおつもりですか!?」

「今夜はここに陣取っていたってどうにもならない」

「そ、それはあなたの手に余るってことですか?」

 飯田は立ち止まってくるりと振り向いた。すぐ後ろを小走りについてきていた笹田はぶつかりそうになってあわてて立ち止まった。

「お前は人の言うことを聞いていないのか?俺は今夜は出来ないって言ってるんだが?」

「ですが、何もなさっていないじゃありませんか!」

「ふうん?・・・・・おい、お前は楽器は何を専攻した?」

 神官や呪師となるものは、学生時代には楽器を数種習うことが必修となっている。その後専門が分かれて音楽を奏でることがなくなる者もいるが、この大神殿にいるものなら必ず弾ける楽器がある。

「・・・・・バイオリンですが」

「ビオラに持ち替えは出来るか?」

「え、ええ、まあ出来ますが」

「じゃあついて来い」

「どちらに行かれるつもりで・・・・・?」

 笹田の質問には答えず、飯田はさっさと収蔵庫を立ち去っていく。笹田は不満そうに小さな声でぶつぶつとつぶやきながらもしかたなくついていった。

 飯田のやってきたのは図書館だった。ここは神官や呪師が学ぶために各国から膨大な量の本や資料や楽譜が揃っている。

 特に、奥の資料室には異世界からもたらされたと言われている貴重な楽譜も揃っているし、有名な音楽家の自筆の楽譜も大切に仕舞われている。ごく限られた人間だけがこれらを閲覧できることになっており、曲を弾くことが許可されるのは更にごくごく限られた人間のみだった。

「えーと・・・・・?・・・・・ああ、これだ」

 飯田が棚から取り出したのは200年ほど前の作曲家によって書かれた三種類の楽器のための楽譜だった。

「ほい、これを写して練習しとけ」

「はぁ?これは・・・・・!ま、まずいですよ。こんな楽譜を弾いたりしたら僕にひどいお咎めがあるんじゃないですか?!」

 笹田は顔を引きつらせて楽譜を突っ返した。

「大丈夫だって。幽霊をなんとかしろって言われたんだからな。これが弾けなきゃ解決出来ないんだぜ。この楽譜は一般には出回っていないし、ここにある以外は、あの収蔵庫に仕舞われてあるものだけなんだ。だからといって、収蔵庫の分を持ってくるわけにはいかないからな」

「で、ですが、これを弾かなきゃならないなんて、いったいどういう理由なんですか?」

「この曲は、さっきあの幽霊さんが弾いていた曲さ」

「飯田師には、幽霊が弾いていた曲が分かったんですか!?」

 驚いた笹田が声を上げた。

「そりゃ、たまたま以前いた黄連おうれんの神殿で弾いたことがあったんでな」

「すごい!」

 笹田はほっとしたように何度もうなずいていた。どうやら飯田が幽霊捜査から逃げようとしているとでも思っていたらしい。

「あ、・・・・・でも、どうして僕がその曲を練習しなければならないんですか?」

「決まってるだろう。あの幽霊さんと合奏するためさ。あの曲は三種の楽器で奏でるものなんだぜ。バイオリン、チェロ、そして、ビオラ」
「合奏ですって!?」

 素っ頓狂な声で笹田が叫んだ。今は夜中でここには誰もいなかったが、もし昼間だったら図書館のの職員たちに最大級の叱責を受けていただろう。

「向こうがお誘いをかけてくれているんだ。こちらがそれに乗れば姿を現してくれるに違いないぜ」

「本当にそうなりますかね?もし幽霊が演奏の邪魔をしたって機嫌を悪くしたら、とり殺されたりはしませんかね?」

「そりゃ、合奏する相手の技量しだいだろうぜ。特にお前さんのな。俺に早めに幽霊と対決させるつもりならその曲を弾けるようになっておけよ。楽譜は見ていても構わないから、合奏できる程度にやっといてくれ。そうだな明日には・・・・・」

「無理です〜〜〜っ!!」

 笹田が絶叫した。

「だろうな。だったら明後日の夜だ。その晩には必ず収蔵庫に行くからな」

 笹田の口から無理です!という言葉がまた出かかっていたが、飯田が鋭い視線で睨んで押さえ込んだ。

「やるんだ。幽霊をなんとかしろと言ったのはお前だろう」

 だからせいぜい練習しておけと言うと、笹田は震え上がり、真剣な顔でこくこくとうなずいて楽譜を写すと自分の部屋へと大急ぎで戻っていった。

「やれやれ。あいつ、役に立つのかな?」

 飯田がぼやいたが、飯田と一緒に合奏してもらうとなるとヤツしかいない。多少の不出来には目をつぶってでも合奏をしてもらわなくてはならなかった。






 笹田が一応弾きこなせるようになったときくと、その晩二人はさっそく収蔵庫へと出かけた。

 収蔵庫の中はひんやりとしていて、人の気配など感じられない。

 謎のバイオリン演奏者が弾き始めるのはいつも深夜近くだったので、もうそろそろ始まる頃合だろう。

 飯田は【エラトー】から少し離れたところに椅子を持ち出し、持参してきた自分のチェロを取り出して調弦を始めた。

「飯田師、やっぱり無理じゃないですかね?今までこの部屋でバイオリンが弾かれ始めると、とたんに収蔵庫の外へと追い出されていたって言いますよ?気がついたら外にいたって。だから誰もバイオリンを弾いているのが誰か分からなかったんですから。僕たちだって弾く前に気がついたら部屋の外にいたってことになるんじゃないんですか?」

 笹田の声が震えているのがよく分かる。

「なんだ?お前、幽霊を捕まえたいと言っていながら、実は幽霊が怖くて逃げ出したくてたまらないってことか?」

「そ、そんなことはありませんよ!」

 そう言いながらも、彼の視線はあからさまに逸らされていた。

「・・・・・そろそろ時間だな」

 そう言うと、飯田はすいっと弓をチェロに当てて曲の出だしを弾き始めた。
 

【25】