「で、でも、本当に何を言われているのか分からないんです!」

 悠季は震える声で必死に抗弁した。先ほどまで人生に絶望し、死ぬことさえ考えていたことなど綺麗さっぱりと忘れていた。

「だが、僕がここにいることは事実でしょう。ここがどこだか知らないが、早く元の場所へと戻してもらおう」

 この男は気が違っているのか!?

 どう考えてもこんなのは理不尽過ぎる。

 きらりと男が持っている刀が光った。

 斬られる!!
 こんな気違いの巻き添えにされたら大変だ!

悠季はぎょっとなって、あわてて飛び上がって走り出すと一目散にその場から逃げ出した。男が追ってくるのではないかという恐怖が悠季に普段は出ないような力を与えてくれたらしかった。

 しかし、しばらく走って後ろを見ても男は悠季の後を追っては来なかった。てっきり追ってくるかと思っていたのに。

「きっと僕が人違いだと気がついたんだよ」

 悠季は自分に言い聞かせてみた。・・・・・さほど信じられはしなかったが。

「・・・・・もう、帰らないと」

 悠季はようやく我が家を戻る決意がついたことに気がついた。幸いにもあのハプニングが悠季に戻る勇気を与えてくれたらしい。

「アパートに帰って、明日からは・・・・・教職の準備にかからなくちゃ」

 口に出してみて、ようやく自分の進路に決意がついた。そう、自分は一度音楽の世界で生きていきたいと決めた以上、故郷に戻って音楽から切り離された生活をするなど考えられない。

「あのとんでもない男にも感謝、かな」

 悠季は言葉に出して、ちょっと笑った。

 笑えることが嬉しかった。

 駅まで歩いて、ようやくここがどこなのか知ることとなった。○県○市。思いがけず遠出をしていたらしかった。

「さて、帰るには・・・・・?」

 駅の路線図を見て、切符を買おうとしたときのこと。

「・・・・・財布がない!」

 ばたばたとポケットを探ってみても出てこない。そう言えば上着を着ていない。先ほどあの見知らぬ男に襲われたときに、財布ごと上着を忘れてきたらしかった。

 戻ればあの勘違い男に会うかもしれない。また絡まれるかもしれない。そう思うと不安だったが、家に帰るためにはどうしても戻らないわけには行かなかった。

 悠季は恐る恐る元来た道を引き返し、上着を置いたはずの場所へと戻っていった。

  そして、あの男は・・・・・?

「・・・・・もう、いない?」

 彼も行くべきところへと帰っていったのだろう。しかし、ほっとなって上着を探し始めたが、それらしい場所のどこにも見つからなかった。風に飛んだのかと藪の中や石の間も見たけれど、どこにもない。

「・・・・・どうしよう?」

 こうなったら交番に届けられているのを期待するしかなかった。それしか方法がない以上、やむなく駅への道を戻ろうと引き返し始めた。

「待ちたまえ!」

 背後から声がかけられてぎくりとして振り返った。

 やはりあの声は会いたくない人間のもの。物陰からあの男が近づいてくる。腰には昼間脅されたあの刀を持っている。今は鞘に収めて腰に差してあったが。

 彼が追ってこなかったのは、いずれ悠季が戻ってくることを見越していたのかもしれなかった。

「ぼ、僕にこれ以上なんの御用ですか?」

 悠季がたずねた。平静な声を装おうとしても声がわずかに震えた。

 彼の手にあるのは、悠季の上着だった。

「僕のだ!返してください!」

 叫んで手を伸ばしたが、さっと手を引かれた。

 あらためて正面に立つと、相手の男がどれほどの長身なのかよく分かる。悠季も平均男子の身長は十分あるというのにこの男はさらに大きい。その上、衣装に見合った尊大な態度は更に彼の体格を大きく見せていた。

「もちろんこれは君にお返しする。ただその前に、僕の質問に答えてもらいたいのですよ」

「・・・・・僕に何を聞くというのですか?」

 どうやら相手の男に害意がなくなったことがわかってほっとしたが、上着が人質にとられたままではここから立ち去ることも出来ない。

「いったい君は、僕をどこに連れてきたのですか!?」

 先ほどとは違って平静な声。だが、内容を聞いてみるとさっきと同じようにわけの分からないことをたずねてくる。

「僕はあなたのことなど知りません!あなたを連れてくるなんてことがあるわけないじゃないですか。あなたが勝手に僕のそばにやって来たんですよ」

「だが、君は僕と会話が成立する」

「・・・・・は?」

 さらにわけの分からないことを。

「僕はここの言葉がまったく理解できない」

「そんな馬鹿な!今だってこうして話しているじゃありませんか!?」

「だから驚いている」

 彼はぐるりと手を振り回し周囲を示して見せた。

「先ほどどこからか女の声が聞こえていた。おそらく拡声の術を使ったのだろうが、今まで聞いたことのないような大きさの声だったし、どこから聞こえてくるのかさえ全然分からなかった。その上話している言葉は今まで聞いたことのない言葉で、僕には何を言っているのかまったく分からなかった。それにこれだ」

 彼の手の中にあったのは、ここの城跡で行われている祭りを知らせる安っぽいちらしだった。誰かが踏みつけたのか、中央にはべったりと足跡がついていた。

「この文字らしいものも僕には理解できない」

「じ、冗談はよしてくれ!」 

 ぎょっとなって悠季は叫んだ。

「そんなとんでもないことを聞かされても、信じられるはずがないじゃないか!だったら僕だって君の言うことを理解できないはずだ!!」

「確かにそのとおり。だが・・・・・」

 考え深げに彼は呟いた。

「ここで話しているより証拠を見せたほうが早い!」

 そういうと、悠季の腕を掴み、ぐいぐいと引いて駅の方へと歩いていった。途中何人もの人たちからじろじろと見られたが、どうやら彼の服装は祭りのための衣装だと考えたようで、途中でも不審者だととがめられることはなかった。

 悠季がここで助けてくれるように大声を出した方がいいのか迷っているうちに、ぴたりと彼の足が止まった。

「あそこがいいだろう」

 彼が指差したのは、地方でよく見かけるみやげ物を扱っている店だった。彼は悠季の腕を掴んだまま、店先に立った。

「いらっしゃいませ!」

 小太りの中年の女性店員がにこやかに応対してくれた。店先に立った背の高くて着物を着ている男性を見ると、ほんのりと頬を赤らめ、そわそわと身づくろいをしてみせた。

 やはりハンサムな男というのは何を着ていてももてるんだな。と、悠季はぼんやりと考えていた。

「すまないが、どうやったら故郷に帰れるか教えてもらえないか?」


 彼は店員に向かって尋ねた。実に魅力的なバリトンで。

「・・・・・はい?お客さん、外人さんだったの!?すみませんけど、この人いったい何語を喋っているんですかね?」

 おばさんはとまどった表情で、悠季に救いを求めてきた。

「・・・・・どうやったら帰れるかって言ってますけど」

「おや、そうなんですか。駅への道ならこの先をまっすぐ行けば駅舎が見えてきますよ。それより、この人はいったいどこから来られた人なんですかね?着物を着てるのかと思ってたけど、よく見ると違うわねぇ。民族衣装なのかね?それにしても、日本語を喋らないなんて、びっくりしちゃったわよ」

「・・・・・日本語じゃない?」

 悠季は震える声でつぶやいた。ひやりと背筋を冷たいものが走っていく。

「いったいどちらからの方なんですか?韓国かしら?でも、韓国語じゃないわよねぇ。韓国の人ならよくお土産を買っていくから聞くけど、こんな言葉じゃなかったから。英語でもなさそうだし・・・・・?」

 おばさんは首をひねっていた。観光地で土産物を扱っている店だから、数多くの外国人が来ている。それでいくつもの外国語にも耳慣れているらしい。

「僕の言ったことが分かりましたか?」

 男は悠季に向かって皮肉っぽく言った。

「でも、僕には日本語に聞こえる」

 悠季が小さな声で言った声が店員の耳に入ったらしい。

「おや。お客さんは分かるんですね。この人の喋っているのはどこの言葉なんです?」

 悠季は引きつった笑いを浮かべて男の方に助けを求めたが、男は悠季の窮状が分かったのか、違うのか、肩をすくめて見せただけで何も言わなかった。

「か、彼、アラブの方で育った人でして、日本語が分からないんです。失礼しました!」

 悠季は適当な言葉でごまかすと、男の袖を掴むと大急ぎで店先を離れ、元いた城跡へと戻っていった。

 城跡ではもう祭りが終わったらしく、さっきの場所まで歩いていく間にも人影はまばらで、さっきの場所は静かで誰もいなかった。ここなら誰かに見咎められることはないだろう。

「言ったとおりだったでしょう?僕の言うことを信じましたか?」

 悠季は力なくうなずいていた。確かに自分は目の前の男ともあの店員とも日本語で喋っていたはずだった。それなのに、彼の言葉は店員には理解できなかった。いったいこれはどういうことなのだろうか?

「ところで、先ほど君が言っていたアラブとかいうのは何ですか?」

 悠季がこのわけの分からない状況をなんとか理解しようと首をひねっていると、男が面白そうに尋ねてきた。

「・・・・・アラブっていうのは中東にある国だよ。ここは日本で、ヨーロッパから見ると一番東に当たるから極東と呼ばれている。ヨーロッパにもっと近い国々を中東と呼ぶんだけど、そこにある国の一つなんだ」

「ああ、なるほど。国の名前なのですね。どうやら固有名詞だけは君と僕との間でも伝わらないらしい」

 男は納得したらしく、深くうなずいた。

「・・・・・どういうこと?君にはこれがどういうことか分かるんですか?」

 悠季はいやな予感を覚えつつ、彼の次の言葉を待っていた。

【2】