圭は信頼している執事、伊沢宛の手紙を書くことに集中しようとしていた。

 おそらく、これは彼が今まで書いた中でも最も重要な手紙になるだろう。何もかもがこの手紙にかかっているのだ。

 名誉も、財産も、家族の将来も――そして、彼の命も。

しかし、書いている途中で声が聞こえだした。その声は初めは低かったが、だんだん高くなってきている。

 押し殺し、押し殺しても漏れてくるような悲痛な泣き声。

 その誰かが泣いているのは、苦痛のためでなければ、悲しみのためでもない。原因はもっと深い所にあるのがなぜか感じられた。

 圭は手紙に注意を戻したが、集中する事が出来なかった。あの泣き声の主は何かを必要としているのだが、それが何なのかが彼には分からないのだ。・・・・・慰めを必要としているのだろうか?

 いや、そうではなかった。

 泣き声の主に必要なものは希望なのだ。そう思った。あの泣き声は、もはやすべての希望を失った人間の絶望の嘆きなのだ。そして、誰かに向かって必死で訴えている。

 おそらく、圭に向かって。

 彼は目の前の手紙に意識を戻した。あの人間の問題は、圭の問題ではない。早くこの手紙を書き終えて、待っている使いのものに渡さなければ、彼自身の人生が希望のない人生になってしまう。

 彼は続きをちょっと書き、そこで手を止めた。泣き声が強まってきたのだ。声は前よりも高くなってはいないが、激しさが増したようで、部屋の中いっぱいにその声で満たされるような感じがした。

「どうか静かにしてくれたまえ」

 圭はつぶやいた。

「他のときならば君を助けるために手を貸してもよいが、我が命さえもう我の自由にはならないのだ」

 彼は筆を手に取ると、泣き声をさえぎろうと片手を耳に当てながら書き続けた。








悠季は小さい頃からバイオリンが好きだった。

放って置かれれば何時間でも楽しくバイオリンを弾き続けていた。

大きくなって、いつしかプロのバイオリニストになってバイオリンと共に生きていける職業に就きたいと考えるようになった。

音楽を続けるには不利な環境の中でも必死で勉強し、なんとか音楽大学に入り、厳しい教授のレッスンにも歯を食いしばって耐えて、卒業にこぎつけた。後は、オーケストラのオーディションに受かりさえすれば、プロへの道が開かれるはずだった。

・・・・・はずだった、が。

「結局、僕に才能がなかったってことだよなぁ・・・・・」

 本当は、今頃はオーケストラの採用試験を受けた上で、合格か不合格か、どちらにしても とにかく納得のいく結果を得ているはずだった。

 ところが現実はと言えば、プレッシャーに負けてしまって急性の神経性胃潰瘍になってしまい、血を吐いて病院に運ばれるという始末。
 結局、オーディションを受ける事もなく彼のプロ人生への挑戦は終ってしまい、目標としていたプロオケへの道は断たれてしまったのだ。

 彼にとってこれが唯一のチャンスだった。

 ごく普通の農家の息子である悠季にとって、仕事にも就かず何年も浪人してオーディションを受け続ける事は不可能だった。

 音楽大学を卒業する今年だけが、彼に与えられた一回限りの機会だった。

 姉は悠季が入院した病院にわざわざ新潟から来てくれて、彼がオーケストラにはいれなかったことを知ると、親身になって心配してくれて、彼に故郷に戻って仕事に就かないかと言ってくれた。

 だが、故郷に戻ったとしたらもうバイオリンに触れることも叶わないだろう。もともと故郷の親戚連中は悠季が音楽大学に行くことさえ非難の対象だったのだから。

 その上就職も叶わなかったとなれば、なんと言われるか。

プロになれなかった彼にできることは、東京で音楽教師を目指すか、それとも他の職業を選んで趣味としてのバイオリンを続けるか。あるいは故郷に戻って、きっぱりとバイオリンを捨てて堅い職業に就くか、の道しかないのだ。

大学では泣けなかった。

親切に慰めてくれる友だちには、

「仕方ないよ。僕の不摂生が祟ったんだ」

と、何とか笑って見せた。

『彼の演奏じゃプロには無理だったんだよ。その結果を見たくないからオーディションを受けなかったんじゃないのかい?』

 となどという心ない中傷はなんとか無視した。

住んでいるアパートの近所にはフジミの団員が何人もいて、悠季がオーケストラのオーディションに挑戦している事を知っていた。もし彼が沈んだ顔をしていたら、きっと慰めの言葉をかけてくれるだろう。

 けれど、その言葉は悠季にとっては非難されるよりもかえって痛く、針を刺されるようにつらかった。

 期待に添えなかったことへの申し訳なさ。ふがいない自分に対しての自己嫌悪。わずかばかり残っていた自尊心と見栄が悠季を泣かせる事が出来なかったのだ。

 ある日悠季は駅に行った時、大学のある駅で降りなかった。都心のターミナル駅で乗り換え、目に付いた長距離電車のホームへと行き、やって来た最初の電車に乗り込み、幾つもの駅を過ぎ、気が向いた駅で降りた。そこは、行ったことのない路線の見知らぬ駅。

 彼が駅前からぶらぶらとしばらく歩いていくと、目の前には広い公園が姿を現した。

 そこは史跡公園だったようで、なにやら看板が立っていた。

興味が出てきてちらりと読んでみると、ここはもともとはある一族の本拠地で、その後は寺の境内だったのだという。江戸時代の初期にこのあたりで勢力を誇っていた一族が菩提寺としており、その一族が関が原の戦いで敗れて滅ぼされてしまうと、徳川に味方した一族がここを領地として貰い受けて、更に寺を菩提寺として明治まで続いていたのだそうだ。

 最近になってこの寺は、市に公園緑地として土地を提供し、市はここを史跡公園とした。

 今は滅びた一族の痕跡を、新しく入ってきた藩が弾圧し根こそぎ消し去ろうとしたが、ここで良政を行っていた一族を慕うものたちが伝説や口伝えの形で残し、さらに密かに寺の一部に彼らの菩提を弔うための墓が置かれていたという。

 今それがどこにあるのかさえ分からなくなっているが。

すべては時のかなたへと追いやられていた。
 
公園の由来を読むとそれ以上興味がなくなってしまった。その後の藩の業績やらがくわしく書かれていたのだが、悠季は途中で読むのを止めると奥へと進んでいった。

やがて誰も来ないらしい荒れた場所に出くわした。どうやら公園として改修中らしく、もともとあったらしい大きな石が幾つも転がっていた。

 遠くでは公園の中で何かイベントが行われているのか、にぎやかな声や音楽が風に乗って流れてくるのが聞こえる。もうどこにも行きたくなくて、目の前にある古い石にすとんと座り込んだ。

「・・・・・あれ?」

 どこかで子供が遊んでいるのか、風に乗ってシャボン玉が悠季の目の前に飛んできた。

 虹色に輝く小さなシャボン玉。

迷っているかのようにふらふらとしているシャボン玉を見ていると、まるで今の悠季の立場と同じように思えて、思わず手を出していた。
シャボン玉はきらきらと輝きながらこちらにやってきて、まるで擦り寄ってくるかのようにして悠季の手の中に入り、そのままふっと消えた。

 その消失感が切なかった。

 ――― ああ、ここなら誰からもなぐさめも失望の言葉も言われないんだ。

 そう思ったとき、ぼろぼろと涙がこぼれだした。








 悠季は誰にも邪魔されずに泣いていた。周囲に不審に思われない程度に声を殺していたけれど、こぼれてくる嗚咽は止めようがなかった。

子供の頃以来ではないかと思うくらい泣いて、ついには泣く事にさえ飽きて、腫れぼったい瞼をこすった。

もう少しここにいて、腫れた目を冷やしたらアパートに帰ろう。そして、これからの生活になにかの希望を見出す努力をしなければならない。・・・・・あるかどうかは分からなかったが。

「さあ、もう帰らなくちゃ」

 そう声を出して自分を励ましたが、どうしても腰が上がらなかった。 

 うつむいていた悠季の足元に、長い影が入ってきた。

 泣いて情けなくなっている顔を見られるのが嫌で顔は上げなかったが、その人間はなかなか悠季の前から立ち去ってはくれない。

「何か・・・・・」

 御用ですか?という言葉は悠季の口からは出せなくなった。

 目の前に立っていたのは長身の男性だった。

 彼は一言もものを言わずに突っ立ったまま、悠季を見下ろしてひどく怒った様子でにらみつけていた。

どうしてそんな顔で自分を見ているのか?

悠季はぼんやりと考えていた。

 彼はおそろしくハンサムな男で、悠季が今まで見たこともないような立派な・・・・・舞台衣装を身につけていた。

 つややかな長い黒髪は肩に流してあった。そこまではまだ街を歩いていれば時折見られる髪形だ。

 夕方になってきてやや翳ってきた日の光のなかで、絹で出来た極上のつむぎに見える着物や麻の袴らしい衣装もありえるだろう。もっとも足元は草履ではないように思えたが、これが舞台衣装なら納得も出来る。

だが、彼は腰にいかにも重量感のある刀を帯びていた。となると、これはもう日常の生活では見られるものではない。

刀は本物に見えた。その拵えは華麗でありながら、実戦向きでよく使い込まれているように見える。

「そなたが私をここに呼び出したのか?××××よ」

 眉をひそめていたその人物は、深いバリトンでいかにも不機嫌そうに声をかけてきた。

「・・・・・は?」

 悠季は何を言われたのか分からなかった。目の前の男は不意に刀を抜いて、悠季の目の前に突きつけてきた。

これって、もしかして本物ってことないよね?正宗とか言う刀だったりして。

 思考はまだ現実味を帯びてこない。あまりにも非常識すぎる出来事に頭が追いつかず、悠季はぽかんとなって相手の顔を見ているしかなかった。

「いいかげんに私を元のところに戻せ。私にはやらねばならないことがあるのだから」

「・・・・・あの、何を言っているのか分からないんですけど?」

 するとこのおかしな格好をした人物は、更に腹を立てたようすだった。

「このような茶番に付き合っている暇はない!早く戻してもらおう!」

 悠季には彼の言っている意味がまったく分からなかった。

 彼に分かったことといえば、自分に突きつけられた刀がどうやら本当に本物らしくて、よく切れそうだということだけだった。
 

【1】