「いやぁ〜お客さんなんて珍しいよう」

 二人を迎え入れてくれたのは純朴な雰囲気の老夫婦だった。

「ここは仙穀の手入れをするための管理人小屋なんだわ。まだしばらくは仙穀が大きくならないから手入れなんかいらないんだし、まあ形だけの管理ってことだねぇ。もうしばらくして背丈が大きくなってきたら刈り入れのために大勢の人間がやってくるけどね」

そんな事情を話しながら二人のためにシチューとナンのような膨らんでいないパンを用意してくれた。

「刈り入れ人足用のベッドならいくらでもあるから、泊まっておいき」

「ありがとうございます。一晩お世話になります」

 桐ノ院は柔らかく微笑んで礼を述べると、老婆はぽっと赤くなって嬉しそうに笑った。

 世話好きらしい老婆がいろいろと話しかけてくるのに丁寧に答えている桐ノ院の声を聞きながら、悠季は瞼がくっつきそうになっているのを必死でこらえていた。

「守村さん、先に休んでいてください。慣れない旅で疲れたのでしょう。僕はもう少し話を聞いてから休みますので」

 気を使ってか、桐ノ院が声をかけてくれた。

「・・・・・うん、悪いけどそうされてもらうよ」

 急激な状況の変化が悠季を緊張させていたのだろうか。提供してもらった人足用だという部屋へと案内してもらい、いくつもの簡素なベッドが並んでいるのを見て取ったのが限度で、なんとか一番手前のベッドにもぐり込んで布団をかぶるとあっという間に眠りが押し寄せてくる。

 ふうっと安堵のため息がもれた。

 入り口のドアが開いているせいか、向こうの部屋から老夫婦と話している桐ノ院のバリトンを耳が拾っていた。何を言っているのか内容は分からなかったが、聞いていて心地いい声の響きに何とはなしにほっとする気分を味わいながら眠りの中へと引き込まれていった。













 悠季はまたあの音楽室に来ていた。



 初めての時と違うのは、廊下を進むことなく既に部屋の中でバイオリンを持っていることだった。まるでそれが当然だとでもいうように調弦をしてバイオリンを構えていた。

 指ならしを終えて指が温まると、今日は何を弾こうかとちょっと迷った。周囲を見回すとちゃんと楽譜の書棚があって中に楽譜が揃っているのに気がついた。

 棚は鍵はかかっていなかったので、ガラス戸を開いて中から適当に何冊か抜いてぱらぱらとめくってみた。

「これってどう見ても僕の世界の楽譜だよなあ・・・・・」

 確かに異世界のはずなのに、ここに置かれている中には悠季の世界のものも幾冊か入っていた。もちろん見たことも聞いたこともない曲の楽譜の方が多かったが。

 悠季は新たな疑問にぶつかった。この楽譜はなぜこの異世界の部屋に置かれているのか?だが、それ以上考えるのはやめた。

 とりあえずバイオリンを楽しめればいい。

 これが夢なのかそれとも違うものなのかということも今は詮索する必要はないだろう。ここには誰もやってこないようだから、邪魔されることもなくこの素晴らしいバイオリンを弾くことが出来る!それさえ出来ればどうでもいいではないか?

 その晩、悠季はまだ弾いたことのない曲を次々と試してみたりして楽しんでいた。

 このままずっとここにいたいと思ったが、それはかなわないことだったようで、ふっと目が覚めると昨夜泊めて貰った刈り入れ小屋のベッドに横になっていた。見ると隣のベッドには桐ノ院がぐっすりと眠っている。

 ああ、やはり夢だったのかと、落胆と納得とごちゃまぜになった気分で再び寝入ってしまった。









「守村さん、そろそろ出かけないといけないので起きてください」

「・・・・・ん?悪い。僕は寝坊したのかな」

 目をこすりながらからだを起こすと、うんと背伸びをした。すると、桐ノ院はなぜかうろたえたように目を逸らした。

「・・・・・朝食が済んだら出かけます」

 ぼそぼそとつぶやくと、ちょっと失礼と言って足早に部屋を出て行った。

「どうしたんだろう?」

 悠季は不思議がりながらも刈り入れ小屋の外に設置してある井戸へ行って顔を洗い、ついでに喉をうるおした。

「あれ、何だろうこれ?」

 赤い毛皮の小さな生き物が井戸の淵にちょこんと座っていた。リスほどの大きさでくるくると動く黒い瞳が愛らしい。悠季がそばにいてもおびえた様子はなかった。

「へぇ?もしかして人に慣れてる?」

 ここに住む老夫婦が飼っているのか、警戒心がないようだった。

 おいで、おいで と言いながら手を出してみた。

「痛っ!」

 生き物は一瞬のうちに悠季の手のひらを引っかくと、あっという間に藪の中へと消えていった。

「・・・・・また、やっちゃったな。ペットのつもりでいたよ」

 手の甲には薄く血がにじんでいた。

 ついこの間もマウという生き物を見てここが悠季の住んでいた世界とは違うのだと、人のすぐそばにいる生き物でも人に慣れているとは限らないのだと理解していたのに、改めてここが違う場所なのだと悟らされた事件だった。




 刈り入れの番人小屋に泊まった二人は、朝食後老人が出す荷馬車に便乗していかないかと言ってもらって、ありがたく乗せていってもらうことにした。

 北にあるという街へと行くことになるらしい。


 老人は無口で、忙しく荷馬車の準備をしている間も二人には何も話しかけようとはしなかったが、別に不機嫌だからというわけではなくて性分なのだと番人の妻である老婆は笑って言うと、にこやかに二人を送り出してくれた。

「あんたもいろいろと大変だろうけど、頑張んなさいよ!きっとこの先辛抱すればいいこともあるに違いないんだからね。あっちの彼がきっと守ってくれるからね!」

 悠季の手をしっかりと握って力説してくれたが、悠季には何を言われているのか分からない。

「はぁ?・・・・・は、はい、頑張ります」

 意味は分からなくても老婆が好意で言っているらしかったので、素直にうなずいてみせると満足そうな表情で二人を見送ってから小屋の中へと戻っていった。

「・・・・・ねえ、桐ノ院。聞いていいかな、さっきあのおばあさんが言っていたことっていったいどういう意味なんだろう?」

 荷馬車が動き出すと、老人に聞こえないように小さな声で尋ねてみた。すると桐ノ院はいかにも複雑な、困惑と苦笑が入り混じった表情を浮かべていたが、老婆の言った言葉の意味については教えてくれなかった。

「もしかして、僕には言えない事情でもあった?僕はこの世界の人間じゃないから聞いちゃまずいことを聞いたとか・・・・・?」

「いえ、そんなことはありません!そういった理由ではないのですよ。しかし・・・・・君の心証を少し、いや、大いに悪くするかもしれません」

 桐ノ院ははほほえみながら言った。

「・・・・・僕の気持ち?」

 ますます分からない。

「実は・・・・・、いえ、街についてからお答えします。ここでは・・・・・」

 うまくはぐらかされた気もしないではなかったが、老人の前では言えないような事かとそのまま黙って揺れに身を任せていた。

 荷馬車はゆっくりと仙穀の畑をたどって進み、昼近くになって、道しるべの意味もあるらしいこんもりと木の茂っている場所に止まった。そこは砂漠で言うところのオアシスのような場所らしく、木々が取り囲むようにして小さな泉が湧いていた。

 老人は御者台の下からバスケットを取り出し、中から昼食のサンドイッチや薄くスライスした野菜や、大きなチーズ塊を出してきた。

 泉の水を持参してきたやかんに入れ、落ちていた石を積んで器用にかまどらしいものを作ると、辺りの落ち葉や木の枝をひろって湯を沸かしコーヒーのような良い香りの飲み物を振舞ってくれた。

 大振りのサンドイッチは、パンにあたるところは昨夜食べたものと同じらしい。中には薄く切ったハムや刻んだ野菜、それに豆を煮たものとピンク色をしたソースがかかっていて、食べると汁気がたっぷりとした美味しいものだった。

 スライスした野菜は塩を付けて食べるだけの素朴なものだったが、悠季の世界にはないものも多く食感や味が見た目を裏切るようなものもあり、見たことも食べたことのない不思議な味の野菜もあった。

 チーズは悠季が知っているむこうの世界の市販のプロセスチーズよりも濃厚で、癖もなくうまかった。

 食事が終わると、老人は無言のままで焚き火の始末をし、食べたものをさっさとかたづけてまた馬車に積み込んだ。そして悠季たちが乗り込むのを待って、さっさと荷馬車を動かし始めた。

 老人はその間一切しゃべらず黙々と進み、夕暮れ前には目的地の『街』に到着した。


【19】