あの某有名なアニメは悠季も見たことがある。しかしあれはあくまでもアニメの世界のものであって、現実に生きているモノがやってくるなんて自分の目で見ていても信じられなかった。
けれど、茶色の毛並みに何本もの足、大きな目玉に笑っているようにむき出している歯が並んでいる顔。胴体には黒い窓のように見える縞が入っていて、あのキャラクターを連想させる部分が多い。
「この生き物はマウと言います。さて、君はこれに乗れますか?」
「の、乗るって。これに乗るの!?」
改めてやってきた動物を眺めてみると、アニメの中のキャラクターとはずいぶん雰囲気が違うことに気がつく。『猫バス』は中に人が乗れるようになっていたが、こちらの生き物は馬のように上に乗るらしい。近くに寄ってみると馬と同じくらいの大きさだったが、馬よりも胴体も足もずんぐりと太く短く、安定感があるように見えた。
アニメの『猫バス』はあくまでも友好的だったが、この動物は悠季の方を獲物を見ているような物騒な目つきをしていた。足はごく普通に4本らしかったが、ぼさぼさの毛皮が房になって垂れているので何本も足があるように見えていたらしい。
薄い茶色の毛皮の横腹に何本もの黒っぽい筋が走っていて窓枠のように見え、その中が少し色が薄くなっているのが更に窓のように見せていた。とっさに猫バスだと思った一番の理由がこれだったようだ。
「・・・・・ねぇ。この生き物はなんだか僕を食べたそうにしている気がするんだけど?」
「それはそうかもしれませんね。これは肉食獣ですから。もしこの時期でなかったら僕もマウを呼び寄せることはしなかったでしょう」
思わずぎょっとなった。
桐ノ院の話によると、この仙穀の畑は古くから栽培されこの国の人間の多くが主食としているそうだ。今の時期の仙穀は草丈がないし穂はまだ出ていなかったが、やがてこれは人間の背丈をはるかに越える高さにまで成長して穂を出し一面が金色の野原になるという。日本の里山のように、人の暮らしと自然界とが合わさって一つの生態系を作っているらしい。
中に入って歩けなくなるほど密で高く茂った時期の仙穀はマウの姿を隠す。彼らはその中に隠れて獲物であるネズミやウサギ、あるいはシカのような動物を狩って生きている肉食獣なのだそうだ。
だが、今の時期芽が出たばかりで背丈のない仙穀の畑には隠れる場所がなく、獲物を探すことが出来ない。マウたちはわずかに残された藪に身を潜めて獲物をうかがっているのだが、仙穀が生えている時期に比べれば格段に少ない食料しか得られない。
それで、飢えたマウは璧を持った人間の言うことを聞くのだという。
「璧からもたらされるエネルギーはマウの食事に相当するものがあるのです。ですから、この時期だけマウは餌をくれる人間の言うことを聞き、襲おうとはしないのです。璧を持っている人間襲ったりしたら自分たちが困ることをどの個体も親から獲物の採り方と一緒に学習していますから」
そう言うと、桐ノ院は悠季のからだをひょいと抱き上げてマウの上に乗せ、自分もその後ろに乗ってきた。
「落ちないようにしっかり掴まっていてください!」
あわてて悠季がマウの首の辺りの毛を掴むと、桐ノ院が悠季の胴に手を回して支えてくれた。
自分が現れた場所から動いていいものか少し不安になっていたのに、そのためらいを口にする時も与えられずあわただしくこの場を移動することになってしまった。後ろ髪を引かれる思いで振り返ってみると、目印のない草原ではどこに立っていたのかさえすでに分かりにくくなっている。ここから移動すれば更に分からなくなるだろう。
それはまるでこの場所に未練を残すことを許さないかのように。
元の世界に戻ろうとするのなら前を向いて進んでいくしかないんだと自分に言い聞かせて、乗っているマウの首筋を軽くたたいてやると機嫌よさそうにぐるる・・・・・と鳴いた。
マウは素直に悠季たちを受け入れてくれたが、今は何かに気を取られているようで、彼方の方向から目を離そうとしない。悠季もつられてそちらへと目を向けた。
「あ、あれ?あそこに人が・・・・・?」
はるか遠くに人影が見えた気がした。
「ねえ、桐ノ院?」
「何かありましたか?」
「今、あそこに・・・・・」
悠季は人影があったことを教えようとして振り返ると、そこには何の姿もなくなっていた。
マウは興味を失くしてしまったようで、自分のすぐ前を走って行ったトカゲらしい生き物へと目を向けている。
「・・・・・あ、いや。何でもない」
気のせいだったのだろうか?
この世界が悠季の常識と違う世界なのだから、蜃気楼のように人の姿が現れることもありえるのかとそのまま口をつぐんでしまった。それに今は乗りなれていない生き物の背中に慣れる方に気を取られていたから。
マウの背中は乗ってみると馬とは違う乗り心地をしていた。新潟の実家にいる頃には近くに牛がいたり馬がいたりしたからその乗り心地がどんなものなのか知っていた。慣れない者が乗ると上下動がつらいのだということも痛い経験をしていて分かっていた。
だがマウという生き物は違っていた。
猫のようだと思ったのはあながち間違いではないようで、猫科特有の柔軟な筋肉の動きは乗っている者にさほど大きな上下動を感じさせない。もし飼い猫の背中に乗ることが出来たらこんな感じかもしれなかった。もっともその毛並みは見た目よりもずっと硬くごわごわとしていて飼い猫とはまったく違っていたが。
意外な乗り心地のよさが分かってほっとした。慣れない身でこれからどれくらいの時間、これに乗っていなければいけないのか分からないのだから。
桐ノ院が胴をつついて走るようにうながすと、マウはすばらしい勢いで走り出した。風が悠季の耳元で鳴っている。服がぴたりとからだに貼り付くような速さ。目の前の草原の景色が目まぐるしく後方へと飛び去っていくが、マウの上は安定していて走る怖さは感じなかった。
背後に乗っている桐ノ院がどんな方法でマウを操っているのかはよく分からなかった。この動物は野生の生き物らしくて、鞍どころか手綱もついていないのだから。
不思議に思った悠季が聞いてみると、
「この生き物は璧からもらえるエネルギーに惹かれているのですから、人間が多くいる方向を示唆してやれば自分からそこに行ってくれるのですよ。どこかの場所へ行けと命じることはほとんど出来ません。僕も少し指示を与えるくらいなものですね」
しごく当然のことのように教えてくれて、足でちょっとわき腹をつついて更にスピードを上げた。
マウはほとんど足音がしない。柔らかな草の上を走っているのだから当然かもしれない。だがそれならなぜさっきマウが来るのが分かったのか?それ以前にどちらの方向からマウがやってくるのかまでなぜ自分に分かったのか?
また一つ、解かれていない謎が増えてしまった。
悠季は重くなってしまう気分を振り払って桐ノ院に声をかけた。
「それで、人間がいるところへ行くのにどれくらいかかりそうなんだい?」
「さあ、それはこのマウ次第となるでしょうね。彼の気分次第です」
「・・・・・それって、どこの場所へ連れて行かれるかも分からないわけ?!」
「ええ、実は僕には今現在どのあたりにいるのかさえ分からない状態なのです。僕の住んでいた国に間違いないとは思うのですが・・・・・」
桐ノ院は申し訳なさそうに言った。確かにこんな目印もないような場所では、この世界で生まれ育った彼にもどこなのかも見当がつかないかもしれなかった。もしかしたら竜彊であっても、彼の住む国とは違うところに降り立っている可能性もあるらしい。
「今日一日で着ければいいのですが・・・・・」
彼の声にわずかな焦燥がにじんでいた。それがどういう意味なのかはこの世界のことをまったく知らない悠季には分からなかったが。
悠季はそれ以上質問することなく彼の指示に従ってマウの背中でおとなしくしていた。
食べ物は持っていないし手に入れる方法がないので我慢するしかなかったが、草原の途中には小さな泉があってのどの渇きだけは癒すことが出来た。
マウはその日一日何回かの休憩を挟んで二人を乗せて順調に運んでくれた。
どうやら悠季のことを気に入ってくれたらしく、休憩の時には悠季のからだに身を擦り付けるようにしてじゃれついてくる。まるで家猫のようなしぐさだったが、馬ほどもある動物になつかれては迷惑そのもので、困惑するしかない。まして相手が腹ペコなら悠季を食うこともあるような肉食動物だと知ってしまえば更に・・・・・ということになるが。
夕方近くになって紫色の草原が濃いオレンジ色に染まってきた頃、はるか遠くに一軒の家のシルエットが見えるようになって、桐ノ院のからだから緊張が抜けた。
「どうやら人家があったようですね」
石垣に囲まれ、大きな倉庫がいくつも並んでいる建物だった。
二人はマウから降りると、建物に入る前に桐ノ院はマウの目の前に璧を掲げて見せた。マウはごろごろと猫がのどを鳴らすような声をたてていたが、やがて満足した様子でのっそりと元来た方向へと帰っていった。
「やれやれ、間に合いました」
桐ノ院がため息混じりに言った。
「どうしてあの動物を放したんだい?この家で一晩休ませてもらえるとしても、まだ旅は続けるんだろう?」
「実を言いますと、マウを夜使うことは危険なのです。マウは夜行性ですから、そのまま乗っていると乗客のはずがいつの間にかエサにされてしまう危険性があるのです。璧を持っていても目が利かないのでは危なくて仕方ありませんから。
ですので、マウを使う場合は昼のみと限定されるのです。僕としても本来は使いたくない手段でした。
食料も水も持たない状況では、なるべく早く人間の住む場所へと行かなくてはいけませんでしたから、やむを得ず、の非常手段だったわけですが」
そう言って苦笑してみせた。
悠季はこの世界が自分の価値観とまったく違うことを改めて知った。ここではしたたかに野生のものたちと共存している世界らしかった。
【18】