「どうかしましたか?」




 桐ノ院の声ってすごくいい声だなぁとぼんやりと思っていた。

 でも今彼がいるのなら、あの楽器の並べてあった場所は夢だったんだ。ひどくリアルで幸福な夢だったけど。

 それにしても、さっきどうして彼は僕のことを苗字ではなくて名前で呼んだのかな?いつもは『守村さん』としか呼ばないのに、起こすときには『悠季』と呼んでいたよな・・・・・?




 悠季はぼんやりとした頭で考えていたが、それがどういう意味なのかを考えるのは億劫だった。



 ところで今日の予定は小早川氏の話を聞いて・・・・・。



「あ、あれ・・・・・?あのあとどうなったんだっけ?」

 小早川氏の屋敷に招かれ、そのまま泊まらせてもらったはず・・・・・?じゃない!!

 目をこすりながらもようやく起き上がると、手に触れるのは柔らかな植物の感触で、頬に触れていったのはひんやりとした香りのする爽やかな風だった。

「なんなんだ、ここは!?」

 悠季がからだを起こしてあたりを見回してみると、二人がいる場所というのはのっぺりとした草原の真っ只中で、わずかな起伏が見えるばかりだった。

 その中でもいくらか高さがあるのが、今二人がいるなだらかな丘で、はるか遠くまで見渡せたがどの方向を見ても建物らしいものはなく大きな木も生えておらず、もやにかすむ遠景では単純に一本の線で空と大地とに分かたれていた。

 周囲の草原は綺麗な紫色に染まっていて、まるで北海道のラベンダー畑でも見ているような気がしたが、そこに生えている草に花が咲いているわけではなく、まだ生え出したばかりの新芽が濃い紫色を帯びているためにあたり一面が紫色に見えているらしい。

「そうだった。僕は・・・・・」

 ようやく悠季は思い出した。

 あの輝晶と思われる黒い結晶が強い光を放って砕け散ると、自分と桐ノ院はどこか知らない場所へと飛ばされていったこと。そして突然入り口が開いてその中へと放り出されてしまったことを。

 桐ノ院は悠季の視線を受けると、うろたえたように目を伏せて口ごもった。

「申し訳ありません、守村さん。君に迷惑をかけるつもりなどなかったのですが・・・・・」

「もしかして・・・・・僕も一緒に君の世界に来ちゃったってことなのか?」

「ええ、おそらくここは竜彊りゅうきょうです。周囲に見えるのは仙穀せんこくの畑のようですから間違いないでしょう」

 桐ノ院はうなずいた。

「どうしてなんだ!?僕がこちらの世界に来る必要なんてないだろう?」

「それは・・・・・僕にも分かりません」

 彼はためらいがちに言葉を続けた。

「実はあの輝晶が壊れる直前に、僕は璧を使いあちらにあった輝晶に命じて小早川の家の者から僕の記憶を消すつもりでした。僕が君の世界から消えた時に発動するように指定して、矛盾なく痕跡を消すはずでした。これにはそういう力もあるのです」

 悠季が少し顔色を変えるのを見て、さらに声が小さくなった。

「君の記憶は『小早川の家の歴史に興味があって泊まらせて貰った。翌朝には快く帰してもらった』となるはずでした。記憶を操作すれば僕がいたという証拠はなくなり、君の世界から跡形もなく全て消えることにするつもりだったのです」

「いや、だって君が持っていた品物を換金して買い物をしたじゃないか。それが残っているんだから記憶から消したとしても誰かにおかしいと思われるだろう?」

「これのことですか?」

 桐ノ院が懐から取り出したのは、彼がリサイクルショップで手放したはずのあの宝石で飾られた豪華な【しおり】

「これ、どうしたんだ!?・・・・・もしかして渡したように見せかけて、こっそり取り戻してきたとか・・・・・じゃないよね?」

「まさか。そんなことはしませんよ。しかし、なぜかこちらに戻ってきたとき僕の懐の中に入っていたんです。まるで何事もなかったかのようにきちんと本の元のページにはさんでありましたよ」

「・・・・・どういうこと?」

 桐ノ院は軽く肩をすくめてみせた。彼にもわからないことらしい。

「それにしても、どうして僕まで一緒にこっちに来ちゃったのかな?」

「・・・・・何か僕の知らない力が働いているようです。まるで君をこの世界に連れて来るために仕組まれていたかのように。
ですが、僕は約束します。必ず君を元の世界に戻して差し上げますから」

 真剣な面差しで桐ノ院は誓った。

「それって可能なの?あ、いや、君の言葉を疑うわけじゃないんだけどさ」

「ええ。大神殿の、つまり輝晶が生まれる場所に居られる大神官なら他の世界へ開く扉のことを知っていると以前聞いたことがあります。あの方ならばおそらく君を元の世界へと戻すことが出来るでしょう。昔、喪われた輝晶が君の世界に行っていたことを考えれば何か方法はあるはずです。
とにかくそこへ行くことを考えましょう。そうすれば何か方法を得られるでしょうから」

 彼の言葉の誠実さが悠季を少し落ち着かせてくれた。

「そうか。じゃあ今度は君がこの世界を案内してくれるわけだね。よろしく頼むよ」

「・・・・・守村さん、君は僕を責めないのですね」

 淡々とした調子で桐ノ院が言った。しかし声とはうらはらに、口元のあたりに緊張しているらしい様子が見て取れた。

「僕が君をかい?」

悠季は目を丸くして驚いた。何を言い出したのかと思っていた。

「こんなことに巻き込んでしまったのは僕の責任ですから」

「そんなことないよ!」

 悠季はあわてて否定した。

「君のせいじゃないんだし。
こうなったらしょうがないよ。開き直ってこちらの世界を見学するつもりでいるよ。こんな経験はやろうと思っても出来ないことだからね!」

 そう言って悠季は笑って見せた。

―――――笑ってみせるしかなかった。

 桐ノ院は悠季をこちらに引き込んでしまったことに強い罪悪感があるらしい。悠季が怒りなじることを半ば覚悟していたようだった。けれど悠季はそんな気にはなれなかった。彼にもわからない何か分からないシロモノが悠季をここに連れてきているらしいのだから。

 彼を責めても仕方がない。今考えるべきことは、少しでも早くもとの世界へ戻るために前向きに取り組むことだろうと、自分に言い聞かせていた。

「ところで聞きたいんだけど」

「はい」

「ねえ、桐ノ院。僕がこっちの世界にやって来たのは、予想外の出来事だったんだよね?僕が向こうに残っていたら、僕の記憶も消すか変更するつもりだったって言ってたよね?だったら、僕がそれを望まないと言っていればそのまま残してくれた?」

「君が望めば、ですが。しかし異世界の人間がいたなどということは旅の間に見た夢だと考えるようになっていたのではありませんか?でしたら、どちらにしても同じだと思いますが」

「・・・・・そうかなぁ」

 魔法としか思えない出来事も自分が見知らぬ言葉を話す不気味さも全て消えてしまう。常識を覆す『輝晶』というものの存在も全て自分の記憶の中から無くなって平凡だが今まで過ごしてきたと同じ、ごく普通の生活が戻ってくる。
それがたとえモノトーンの味気ない生活であっても。

 そして。

 桐ノ院に会った記憶さえも自分の中から消えうせて・・・・・。

 いや。

 自分の記憶を改ざんすることなど考えられない。たとえそれが不本意な記憶だとしても自分だけのもので、決して喪いたくないものだ。

「そうしてもらわなくてよかったよ。君に会った事まで忘れたくないからね」

 にこりと笑いかけると、桐ノ院は気まずそうに目を逸らした。

「・・・・・はい」

「とりあえずこの後のことだけど、僕たちはどうするつもりなんだい?」

「それは・・・・・ちょっと待ってください。そろそろやってくるはずですから」

「やってくるって・・・・・。いったい何が?」

 桐ノ院ははるか遠くを見回していた。けれど悠季の視力ではきょろきょろと周囲を見回して見ていても何も起こらないように思えた。しかしやがてかすかな音が、太陽のある方向から近づいてくるのが聞こえた。

 足音。それもひそやかな気配をしたけもののモノ。おそらくそれは肉食獣の。ここに立っていると襲われてしまうのではないか?と不安がよぎる。

 悠季はいったい何が近寄っているのかと緊張していたが、

「ああ、来たようですね」

 桐ノ院ののんびりした声でふっと緊張が緩んだ。

「来たって・・・・・。誰かを呼んだの?」

「誰かではありませんよ。人間ではないのです。この辺りには必ずいるはずの野生の生き物を璧で呼んだのです」

「生き物・・・・・?」

「ええ。それに乗ってここから移動します」

 足音は確実に近づき、やがて二人の前に姿を現した。

 野生の生き物に乗ると聞いて緊張していたのに、その姿を見てぽかんと口を開けてしまった。

 その意外な姿。見たことはないはずなのに、この生き物が何か名前を知っている。

 まさかこんなものが来るなんて!

「・・・・・猫バス?!」

 悠季の口から呆然としたつぶやきがもれた。

【17】