悠季の目の前で輝晶は砕け散って消えていった。
だがそれを惜しんでいる暇はなかった。
輝晶が消えた次の瞬間に袋の口を閉じるかのようにぱたりと穴は閉じ、悠季たちは元の世界から締め出されていたのだから。
穴の中はまるでジェットコースターに乗ったかのようだった。悠季の目の前には次々と周囲にいろいろと目まぐるしく光景が現れ、そして消えていく。
見たことのあるような日常の光景も、まったく何だったのか分からないようなものもあった。
ちょんまげを結っている人が見えたかと思うと、次の瞬間には恐竜にしか見えない生き物がこちらを向いていた。はるか遠い星から地球を見ているような光景が見えたかと思うと、あっという間に場面は変わり、どろどろとした沼のような場所が映し出され、中には巨大なアメーバのような生物がこっちに向かっているといった光景が見えた。
あまりの不思議さに呆然と眺めていた悠季だったが、ふと横に気配を感じて見てみると桐ノ院が隣に横たわっていた。彼は気を失っているようで、悠季が声をかけても返事が返ってこない。
その時、背後に誰かが立った気配がした。
「彼と離れちゃだめだよ!」
声が聞こえて急いで振り向いてみても誰もいない。確かにそこにいたと思えたのに、もう気配さえなかった。
悠季は桐ノ院に視線を戻すと、彼は徐々に悠季から離れて行くのが見えた。あわてて彼の手をとり、さらに彼のからだを引き寄せて抱きしめた。
「桐ノ院!しっかりするんだ。起きて!」
だが彼は目を開けず意識は戻らない。
自分たちがいったいどこへ流されているのかそれともどこかへと引き寄せられていくのかさえ分からず、この不思議な空間の流れに身を任せていた。
リィィィィィィン!!
どこからか清冽な音が聞こえてきた。その音はこの空間の流れを変えることも出来るらしく、悠季たちのからだが流されるスピードが鈍っていくのが分かった。
リィィィィィィン!!
次の瞬間、二人の前にまた穴が開き、眩しい光が差したかと思うとあっという間に吸い込まれ何事もなかったかのように静かな空間へと戻っていった。。
そこは長い廊下だった。
足元はたくさんの人に踏みつけられて磨り減ったと思える大理石。周囲には精緻な彫刻を施した胡桃の板で出来ているらしい琥珀色をした鏡板が並んでいた。
ひたひたひた・・・・・。
悠季の足音だけが廊下に響く。
気がつけば裸足で廊下の奥へと歩いているのだった。
・・・・・僕はどこへ行くつもりだったっけ?
そう思いながらも足は止まらない。まるでどこへ行くつもりなのか知っているかのように。けれどいくら考えてもその場所がどこで、いったい何が待っているのかまるで見当がつかない。
―――来よ―――
どこかからそんな呼び声が聞こえた気がした。
やがて廊下は変化した。
磨り減っていた床石はほとんど人に踏みしめられてることがなかったかのようにつややかに光っていて、周囲の鏡板も木の板から石の板に変わっていた。外国の石造りの神殿に入り込んだかのように思えたが、だからといってここがどこなのかはまるで分からない。
ふと足が止まった。
廊下の終わりにあったのは悠季の身長よりもはるかに高く見上げるほどの金属の扉だった。二枚合わせのその扉は来るものを拒むかのように厳しく立ちはだかっていた。
桐ノ院の持っていた刀と同じように地球上にはあり得ない金属。
彼の刀は薄く碧色をしていたが、ここの扉は深い蒼色をしていた。
扉に精緻に刻み込まれた彫刻は音楽のあらゆる情景を彫り付けたもの。
様々な楽器を奏でながら、天女とおぼしい女性たちが天を舞い地を踏みしめていた。東洋とも西洋とも思えないそれらの彫像からは、錯覚だと分かっていても遠くかすかに楽しげな宴の楽が聞こえる気がした。
扉に手をかけ、そっと押してみた。すると意外にも扉は音もなく悠季の前に開いていき、中に招き入れてくれたから中に入っていった。少しもためらうこともなく。まるで自分がここに招待されるのが分かっていたかのように。
「わ・・・・・ぁ!」
思わず感嘆の声がこぼれた。
その中にはありとあらゆる楽器が収められていた。見たこともないような楽器の数々。昔、母校の楽器資料館には世界中から様々な楽器が収められているのを見たことがあるが、それ以上にバラエティに富んだ種類が並べられていた。
打楽器、吹奏楽器、鍵盤楽器、中にはどうやって演奏するのかさえ分からないような楽器さえ置かれていた。
そして、弦楽器が。
悠季は楽器が収められている棚へと惹きつけられたように進んでいった。見ればシタールや三味線、おそらく琵琶だろうと思える楽器が置かれていた。少し行くとバイオリンやビオラ、チェロとおぼしい楽器があった。昔の楽器、フィドルやビオラ・ダ・ガンバと思えるものも置いてあった。
だが足はそこで止まることはなく、目的の場所はここではないらしい。
並んでいる楽器たちを通り抜けて更に進んでいくと、そこにぽつんとバイオリンケースらしいものが置いてあった。
小さなテーブルの上に放り出されてあるかのように置かれていたそれは、古びてあちこち傷がついていた。傷む前には綺麗な漆黒の皮だったのだろうが、今はわずかにその面影が残っているくらいで価値の分からない者ならばそのまま捨ててしまうかもしれないようなシロモノだった。
だが、悠季の足はそこで止まった。まるで最初からここに来ることが分かっていたかのように。
「・・・・・あ」
瞬きをしてふるふると頭を振った。そこに導いてきた何かが悠季を手放してしまったらしい。このあと何をすればいいのかさえ分からない。
「えーと。ここはいったい・・・・・?」
それまで夢の中だと思っていたのに、にわかにリアルな現実味を帯びてきた。素足に感じる石の床は冷たく、足裏からじんじんと冷えてくるのが分かる。きょろきょろと周囲を見回してみても、この部屋の中には誰もいないようだった。
窓がないこの部屋の中がどうして見えるのか疑問に思っていると、壁のあちこちにぽうっと光っている球体を見つけた。
璧の輝きとは違っていたが、電源などないように見えるそれらの発光体はおそらく輝晶が持つ力によって輝いているのだろう。
「ん?どうして僕はそんなことが分かるんだ!?」
ぽんと頭の中に浮かんでしまった答え。
だが『どうしてここに自分がいるのか』から始まる疑問の山に、更に一つ分からないことが加わってしまっただけなので、とりあえず棚上げにしてここを調べるのを優先にすることにした。
何者かがこのバイオリンケースに来るよう導いてくれたのなら、まずこれを調べるのが先だろう。
悠季はバイオリンケースに手を差し伸べ、そっとケースの表面に触れてみた。もしかしたら警報が鳴り響いてここを警備する人が現れるのではないかと、びくびくしながら。
だが彼の指が触れても何も起こらず、見たとおりに荒れた皮の感触がざらざらと感じられた。
ぱちん
と、古めかしいケースの留め金を外し、蓋を開いてみた。すると中からは見事な飴色のバイオリンが現れた。とろりとした艶が美しい。
「すごい!」
悠季は思わず手を差し伸べてバイオリンを抱き上げていた。
しっくりと手に馴染むそのフォルム。
いったいバイオリンに触れなくて何日経っているのだろうか?大学に通っていた時には毎日何時間もバイオリンと共に過ごしていたというのに。
この間までオーディションに向けて一日中弾き暮らしていたというのに。
「・・・・・嫌なことを思い出しちゃった」
オーディションを受けることさえ出来ず、ダウンしてしまった自分。
思い出したくなかった記憶を振り払って、悠季はケースの内側を探った。バイオリンが入っていたのなら弓もここに収められているはず。
そう考えたのは間違っていなかったらしい。このバイオリンケースの中にはちゃんとおそろいの弓が仕舞われていた。
バイオリンも弓も状態はとてもよく、弦も輝いていて錆びなども浮いていない。そのまま弾くことが出来そうだった。弓のネジを締めて調節し、バイオリンの糸巻きを締めて調弦する。
バイオリンをあごに挟み弓を構えると長さや重さのバランスのよさが分かる。まるでこのバイオリンと弓とが悠季のために作られているかのようにしっくりとからだに馴染む。
ふぃん・・・・・。
なんとも言えない響きが部屋の中に広がる。
「なんていい音なんだろう!」
きっと名のある楽器に違いなかった。だが、胴の中を見てもラベルなど分かるものは貼っていなくてこのバイオリンの作者が誰なのか分からなかった。
悠季は調弦を終えると指鳴らしにスケールを何回か弾き、頭に浮かんだエチュードを数曲弾いてみた。何日かのブランクはてきめんに指に来ていたが、それでもこのバイオリンを奏でるのに夢中になっていて、気に障ることはなかった。
思いつくままに幾つもの小曲を弾き、夢心地でバイオリンと過ごした。
もしかしたら、このバイオリンさえあればオーディションにも受かっていたのかもしれないという思いはちらりと頭の隅に浮かんだが、今はそんなことよりももっとこのバイオリンを弾きたいという願いの方が強かった。
ほうっと一つため息をついて、快い疲れを身にまとって肩からバイオリンを下ろした。
「気に入った?」
悠季の背後で声がした。
驚いて急いで振り返るとそこには一人の男の子が立っていた。色白のかわいい顔立ちをしていて思わず抱きしめてあげたくなるような愛くるしさだったが、今はその顔に少し心配そうな表情を浮かべていた。
「うん。素晴らしいバイオリンだね。最高だ」
そう答えるとぱっと顔がほころんだ。しかし彼は悠季を知っているようだったが、悠季には男の子が誰なのか分からない。
どこかで会ったことがあったかな?
悠季は心の中で首をかしげて記憶の中を探ってみたが、見覚えがあるような気がするのにどうしても出てこなかった。
「ねえ、ここはどこ?どうして僕はここにいるんだい?それに、君はいったい誰なのかな?」
彼は口を開いて何かを言いたそうだったが、それ以上の言葉は出てこなかった。いや、聞こえなくなっていた。
そして。
「悠季」
彼を呼ぶ声がした。
「悠季、どうか起きてください」
誰かの声がする。
悠季は目をつぶっていても、瞼の裏に溢れてくるような光の洪水が眩しくて仕方なかった。腕を上げて光をさえぎってほっとした。なかなか睡魔は離れようとはしなかったが、外の気配の違和感が悠季の目を覚めさせた。
ぽかぽかと顔に当たる日差しはさほど強いものではなく、吹いてくる風は冷たい冬の気配をまとっている。
僕は外で寝ている・・・・・?
「守村さん。目が覚めましたか?」
穏やかなバリトンが悠季のすぐそばでささやいていた。どこか聞いたことがあるような優雅な声が。
「んーーー。・・・・・ん?」
ようやく目を開けてみたけれど、あまりの眩しさにまたぎゅっと目を閉じてしまう。手を上げて手の甲でごしごしと瞼をこすり、瞬きをしてかすみ目をはらってからゆっくりともう一度目を開いた。
「・・・・・桐ノ院?」
「ああ、よかった!ようやく気がつきましたね」
いつもはポーカーフェイスの彼があからさまに安堵の表情を浮かべているのを見ることはとても珍しいことだったのだが、悠季はそんなことなど知る由もない。
「ああ、今のあれは夢だった・・・・・のかなぁ?」
【16】