「桐ノ院、逃げろ!!」

悠季の声に、彼は一瞬驚いた顔をしたが、動こうとはしなかった。

「いえ、抵抗しないほうがよさそうです。どうやら自分の世界に帰ることが出来そうですから」

 そう言うと何を思いついたのか、桐ノ院が懐から自分の璧を取り出すと何事かつぶやいた。

『 ――――――――――――― !!』

その声はあたりに響いている音によってかき消されて、悠季の耳には言葉として届かなかったが、何か呪文らしいものを唱えているらしいことは分かった。

 君は本当に帰ってしまうのかい?

 悠季は渦の中に引き込まれていくように見える彼の姿に、この二日引っ張りまわされ困惑されられた相手への寂しさと別れの悲しみとを感じていた。それは、自分でも意外なほどに胸を刺すような切ない痛みを伴っていた。



 ―― 出来ればもう少し一緒に過ごしてみたかったかも・・・・・。 ――



 気持ちを言葉にすればそういうことだろう。
彼に対しては言いたいことを歯に衣着せぬ言い方で怒ったり怒鳴ったりしていた。相手を怒らせまいと気を使ったり、相手の気分を害することのないようにそつのない態度でいつも人に接している悠季には、腹を割った話をする相手はいない。おそらく物心ついてから初めてだったかもしれない。

人見知りが激しい悠季にとって、圭は本音で付き合う友人になれそうだった。けれど彼は帰らなくてはならない。もう世界が分かれてしまえば会うこともないだろう。まるで夢のように淡い出来事だった。と、そのうち懐かしく思うようになるだろうか?

 不意に渦の中の雲のようなところから枝が分かれ、蝕肢が小早川や悠季の方へと伸びてきた。

「ひいっ!た、助けてくれェ!だ、誰か!」

 小早川は腰が抜けたらしく、這うようにして部屋の外へと逃げ出そうとしていたが、なぜか部屋の前でもがいているだけで出て行こうとしない。

「な、どうなってるんだ!?どうしてドアに行けないんだ!?」

 半泣きになりながらドアの近くの空気を叩いていた。悠季には何もないように見えるところを。

 不思議に思って自分の手近な窓へと寄って手を伸ばしてみると、窓枠に触れるか触れないかの場所に硬く滑らかな壁があるように感じられた。だが、そこには目で見る限り何もあるようには見えない。手でなぞっていくとまるで透明の見えない箱がこの部屋の中にもう一つ存在しているかのようだった。

そう言えば不思議なことに部屋の中でこれだけの騒ぎになっているにもかかわらず、外から誰も様子を伺いにも来ない。あの好奇心のつよそうな家政婦ならばきっと覗きに来ると思えるのに、ドアの外には誰もやって来る気配はなく、誰もいないかのようだった。
「よせぇっ!僕の方に来るな!あっちに行けェ!」

 悲鳴のような声がしたので振り返ってみると、小早川はばたばたと手を払って雲を追い払おうとしていた。すると枝分かれした雲のような蝕肢は彼のからだに触れることなくひっこむと元の場所に戻っていったが、悠季の方に伸びてきた蝕肢はといえば、あっという間に彼の周囲をぐるりと取り囲んできた。

ぎょっとして、手を振り回した。

「よせ!僕は違う!彼とは関係ないんだ!そばに来ないでくれ!」
 
必死にふわふわとした蝕肢から身を捩じらせて触らせないようにしているのに、まるで目があるかのように追いかけて伸びてくる。

「何をやっているんですか!早く部屋の外に逃げなさい!」

 だが、おびえて雲から逃げようとしている悠季の様子に桐ノ院も気がついたらしい。厳しい口調で怒鳴ってきたが、悠季の頭は怖さで真っ白になってしまって命じている声さえろくに聞き取れない。

やみくもに蝕肢から逃れようと逃げ回っても、部屋から出られないのでついには隅に追い込まれて竦んでしまった。

『 ――――――――!!』

桐ノ院が急いで また呪文らしい言葉を唱えていたが何も起こらない。眉をひそめて二度三度と繰り返し、違う呪文を唱えたがやはり効き目がないらしい。

桐ノ院の顔色が変わった。

「桐ノ院!これを何とかしてくれ!」

 蝕枝がついに悠季を見つけて絡み付いてきた。

 その感触は見かけの雲のようなふわふわとした感触ではなく、濡れた布が巻き付いてきたようにべったりと感じられ、力は思っていた以上に強い。

ぐいっと手繰り寄せられようとしているのを嫌ってとっさに柱にしがみついた。しかし必死でがんばっていても、引き離そうとする力は強い。

「た、助けてくれぇーーー!!誰か、来てくれないか〜!!」

くぐもった情けない声は部屋の隅に置かれている重そうな机の下から聞こえていた。そこに隠れた小早川だった。ソファーや椅子やテーブルは部屋の周囲に押しのけられたようにひっくり返っているが、彼のいる机の場所ではさほど引き付ける力は強くないらしく、それに気がついた小早川が這いずって近寄り、安全そうな場所を確保したらしかった。

机の下からはいくらか心の余裕が出来ているのかきょろきょろと辺りを見回しながら助けを求めていたが、悠季の窮状には無頓着だった。この災いを持ってきたのだからいい気味だと思っているのか、自分さえ助かればいいと思っていたのか。

「僕が行くまで持ちこたえていてください!」

 圭が叫んだ。

だが圭を引き込もうとする勢いは強力で、悠季の方に近づくことすら難しい。

「悠季、なんとか頑張って下さい。このままだと君まで竜橿に行くことになってしまいますよ!」

「む、無理だよ!」

 悠季の声が不安でかすれていく。

 桐ノ院は先ほど小早川が落とした紐を拾い上げると、悠季に手渡すべく必死で動き始めた。紐で柱にからだを固定すれば助かるかもしれない。

「受け取ってください!」

 悠季は手を伸ばし受け取ろうと彼の手を取った。



 そのときだった。
 ふいに渦の中にぽっかりと暗くて大きな穴が口を開けた。



「な、何!?」

 次の瞬間、桐ノ院と悠季のからだは地面からもぎ取られ、あっという間に穴の中へと吸い込まれてしまった。

「ああ、輝晶が!!」

 上げた悲鳴は悠季自身のものだったのか。それとも桐ノ院が上げたものだったのか。

彼らが穴に入る直前に見たものは、先ほどの黒い結晶がごくごく細かい振動を起こしてその形がぶれていく光景だった。そして次の瞬間、ぱあっと破散してきらきらと光る粒子となったかと思うと、花火が燃え尽きた時の様に跡形もなく消えてしまったのが目に焼きついた。













そうして、








二人の姿はこの世界から消えさってしまったのだった。

【15】