圭はバイオリンの音色に惹かれ、奥へ奥へと進んでいった。
途中、帳の奥に何体もの愛らしい観用少女たちが豪華な衣装を身に纏い、目覚めさせてくれる人を待っている様子だったが、圭を呼び寄せようとしているセイレーンの声はここからではない。
小さいと思っていた店は意外に奥行きがあり、圭が最後にたどりついた場所は、粗末なソファーが置いてある場所だった。子供用と思われるバイオリンのケースがテーブルの上に置かれていた。
「これを弾いていたのか?」
どうりで音が小さく、バイオリンにしては音色が微妙にカン高いと思った。
ソファーには一人の青年が眠っていた。上等だがあっさりとした白いシャツにコットンのズボン。やや顔をうつむけて、ちょっとうたたねをしているといった風情。
「失敬、君がバイオリンを弾いていたのですか?」
だが、圭の言葉にも青年は気がつかない様子で眠ったままだった。
「僕は怪しいものではありません。桐ノ院圭と言いまして、指揮者をしています。先ほど君のバイオリンの音色を聞いてぜひ演奏者にあってみたいと思ったのですよ」
それでも青年は目覚めない。
「もし、君?」
膝の上に乗せられた手に触れて起こそうとした。
が、そこで気がついた。
「君は・・・・・プランツか?」
彼の手は滑らかさとしなやかさを持つもので、人間の手と同じように思えたが、そのひんやりとした冷たさは人間のものではなかった。
彼が観用青年であるのなら、目を開けないのは当然かもしれなかった。
だが、その時。
ゆるゆると青年の顔が上がり、ゆっくりと目が開いていった。
ふわりと彼の顔に表情が宿り、口元がほころび、優艶な微笑が彼を彩っていった。
瞳の色は煙水晶のようで、紫水晶のようで、琥珀のようで・・・・・。その全てを含んでいるように魅惑的だった。
「君は・・・・・?」
はじめ、圭は自分に向けて微笑んでくれたのかと喜んだ。しかし、彼の視線は圭から微妙にずれて流れ、圭の声掛けに応えたものではないことが分かった。
振り向いてみると、そこには裏庭に面した窓があり、窓の外にはひらひらと舞いながら落ちてくる白くやわらかそうなかたまりが幾つも見られた。
「・・・・・雪?」
人間にしか見えない観用青年は、窓から見える雪片に向かって微笑んでいたのだった。
霏々と振り落ちる雪を眺め続けていたが、やがて満足したように青年の瞳はゆるやかに閉じられていき、元の姿に戻っていった。
圭はため息をついた。自分が息をのんで彼を眺め続けていたことにようやく気がついたのだ。
彼が目を開けていたのは長時間のようにも感じられ、またほんの数瞬のようにも感じられた。
生きているのだ。
圭は、ようやくここにいるプランツたちがただの人形ではなく、生きているのだと実感した。
「お客様」
どうやら席を離れた圭を店主が探しにきたらしい。
「ああ、『悠季』を見てらっしゃったのですか」
「彼は『悠季』と言うのですか」
「はい。一般的にプランツは少女の形態をとるのが普通ですが、ごくわずかではありますが少年の姿になるものがあるのです。この子はその中でも逸品の言われていた観用少年でした」
「でした?」
店主の沈んだ声音を聞きとがめた。
「今は少年の形態ではないでしょう?育ってしまっているのです。もっとも彼は非売品ではありますが」
店主は優しいまなざしで『悠季』を見つめ、独り言のように彼のことを話し出した。
「この子が買われていったのは先代の店主だと聞いています。
新潟に住む仲の良いご夫婦が買われていったそうです。その後ご夫婦に娘さんが産まれても『悠季』は家族に大切に愛されていたそうですが、昨年残念なことにご夫婦が事故で亡くなられたそうなのです。
残った娘さんも『悠季』を大切にして、いつまでも手元においておくつもりだったそうなのですが、この度結婚が決まりまして、海外に引っ越さなくてはならなくなったそうなのです。海外に行くとなると、植物である『悠季』を連れて行くことは出来ません。かといって誰かに譲ることなど考えられず、やむを得ずこちらにご相談に来られまして、私どもで引き取らせていただくことになったのでございます」
「彼は十分に魅力的だと思いますが、欲しいという者にまた譲ることは出来ないのですか?」
「ご覧のとおり『悠季』は育ってしまっているでしょう?ごく稀なことなのですが、プランツの一般的な生態を離れ、成長をしてしまった観用少年は、植物でもトウが立ってしまったというべきものです。
プランツは人に愛されるために出来ているものなのですが、この『悠季』は人を愛することを知ってしまったプランツなのですよ」
店主はテーブルに置かれたバイオリンを手に取った。
「彼を買われたのはさほど裕福なご夫婦でなかったそうですが、『悠季』をことのほか気に入ってかわいがっていたそうです。
バイオリンを教え、花を愛でることを教え、季節の移ろうさまを楽しむことを教えて、『悠季』は愛することを覚えた。それが彼にとって幸せだったのか不幸なことだったのか・・・・・。
彼が愛したご夫婦が亡くなられてしまってからは少しずつ弱ってきていたそうですから、枯れてしまうまでの時間をここで過ごすことになるでしょう。それも長くはないと思います」
「枯れてしまう・・・・・ですか」
「はい。プランツは人の愛情を自分の生きるための糧とします。極上の乳酪や特製の飴玉が彼女たちを支えますが、生きていく上で一番大切なものは自分に向けてくれる無償の愛情です。それなしには彼女たちは生きていくことは出来ず枯れてしまうのです。この店の中で眠っているプランツたちはタネの状態といってもいいでしょう。
しかし、『悠季』は違います。彼は愛されることで糧を得ることは出来ません。彼に必要なのは愛することなのです。
ここに来た当初は目を開けて中庭に咲いている花を眺めたりバイオリンを弾いていたりしていました。おそらく中庭の花やバイオリンが彼を愛してくれた人々との思い出を蘇らせてくれて、幾らかでも慰められていたのでしょう。
しかし、思い出や記憶は愛情の残り香でしかない。愛する人間がいない以上、彼をこの世界に繋ぎとめる糧となるものを得ることが出来ません。私にもそれはどうすることも出来ない。『悠季』は徐々に衰弱し、もう一日の大半を眠って過ごしており、ほとんど目覚めることはありません。もう、限界が近いということなのでしょう」
圭のはらわたがひんやりと冷えていく不思議な感触が襲ってきた。もしここで彼に対して何も手を打たなければ、二度と会うことは出来ないかもしれない。
「でしたら、彼を生き延びさせてくれるような相手を、また彼が愛することの出来る相手を探すべきなのではありませんか?店主、どうか彼を譲っていただけませんか?僕なら彼を大切に扱い愛することが出来る。」
「残念ですが、それはお断りしなくてはなりません。今まで何人かの方に『悠季』を譲ってくれるようにと申し出を受けたのですが、誰も彼の目を開けさせることは出来ませんでした。中には足しげく通われたあげく、とうとう諦めた方もいらっしゃいました。『悠季』にはもう生き続けるつもりはないのでしょう。ですので、譲ってくれと言われるお客様には全てお断りするように致しました」
店主はそう言ったものの視線は困ったように『悠季』と圭の間をさ迷っていた。彼をこのまま枯らせてしまうことには強い抵抗感があったのだろう。
「だが、僕には彼を目覚めさせられるのではないかというあるアイディアがあります。ぜひ試させてもらえませんか?」
ケイの言葉にも店主は驚いた様子はなかった。そのような提案は今まで何度もされていたのかもしれない。しかし、結果は今ここに『悠季』がいることであきらかだった。
「無理だと思います。
とは言っても・・・・・そうですね。『悠季』をこのままにして眺めていてはいけないのかもしれない。せめて彼が生きていかれるかどうか探してあげて、それでもだめだったのなら諦めればいい。何もしないより、何度でも試してみた方が彼のためかもしれませんね」
「では、僕に彼を譲っていただけるのですか?」
「それは私にも決めることは出来ません。彼を目覚めさせてください。『悠季』の目を開けさせることが出来たなら、彼をお譲りしましょう」
「分かりました。必ず彼を目覚めさせて、僕のものにしてみせます!」
そう言うと、圭は『悠季』の目を覚まさせるべく、必要なものを取りに急いで店を出たのだった。
【2】