数時間後、圭が店に戻ってきた時手にしていたのは一丁のバイオリンケースだった。

 それを見た店主がかすかに苦笑した。

「バイオリンでございますか。それでしたら以前に悠季を欲しいと申し出られた方が何人も持っていらっしゃいました。
中にはストラディバリやシュタイナーなど名のある名器をお持ちになられた方もいらっしゃいましたが、いずれも悠季の気を惹くものではなかったようです」

「それは、彼の手にバイオリンを渡そうとしただけでしょう?それでは悠季の目を開かせることは出来ないと思っています」

 圭の言葉に店主はさらに苦笑をこぼした。

「世界的に活躍させているという有名なソリストをお連れになられて、悠季の前で弾いて下さった方もいらっしゃいます。ですが、悠季はちらりと目を開けただけですぐに元通りになってしまいましたよ」

「それはそうでしょうね。彼の心に訴えかける音楽を奏でなければ目を覚まさないと思います」

 圭はそう言いながらバイオリンケースを開き、中からつややかな飴色に光るバイオリンを取り出した。

「するとそのバイオリンは何か謂れのあるものなのでしょうか?」

「いえ、たいしたものではありません。これはアマーティの写しで、さほど古いものではありませんし」

 店主は不思議そうに首をかしげていた。この青年はいったい何をもって悠季の心を動かそうというのか?

「僕がこのバイオリンを弾きます。僕の気持ちはバイオリンの音色に全て現れるでしょう。悠季を焦がれる気持ちや憧れを。そして、彼への・・・・・恋着までも」

 そして、圭は調弦を済ませ、バイオリンを構えた。

「何を弾いたら君の気に入るのでしょうかね。ああ、そうだ、やはりこの曲からでしょう」

思いついて奏で始めたのは【愛の挨拶】

更に心に浮かんだ小曲を何曲か。思いのたけを込めて弾いた。

途中ちらりと悠季に目を向けたが、彼は聞いているのかいないのか、目を開ける気配はなかった。それでも、圭は演奏を続け、一心にバイオリンを奏でた。


――――― そうして ―――――


 圭がアマーティ写しを肩からはずして恐る恐る悠季の方を見てみると、じっとこちらを見ている悠季の瞳と出合ったのだった。

 不思議なまなざしだった。何かを思い出すかのようでもあり、何かを問いかけているかのようでもあった。

 無邪気そのものの澄んだ瞳の奥には、年老りたものだけが持つ暗い深淵が潜んでいる。圭は自分がその淵の中へと呼び込まれているような気がした。

「悠季、僕と一緒に来てくださいませんか?」

 彼の前に跪きそっと手に触れながらささやいた。大きな声を出せば彼がまた目を閉じてしまうのではないかという惧れが圭ののどを締め付けていた。

 悠季は圭を眺めていたが、表情を緩めると印象は一変した。びろうどのような柔らかな笑みを浮かべて見せると、こくりと一つうなずいた。

「・・・・・ありがとう」

 喜びを表す言葉はいくらでもあるはずなのに、言葉はそれしか出てこなかった。









 圭は呼んでもらったタクシーの中で、何度も隣の席を見ずにはいられなかった。

 そこに座っているのは見事目を覚まして圭と一緒に行くことになった『悠季』

 店主は悠季が目を覚ましたのを見てとるや、あっさりと連れて行くことに同意した。

「彼に与えるのは観用少女と同じように特製のミルクでいいのですか?買って帰りたいのですが」

 観用少年を手元に置くことなど考えたこともなかったから、どんなことに気をつけなければいけないのかさえ分からない。

「いえ、彼にはミルクは必要ありません。彼は普通の人間と同じものを食べますので。もっともさほどの量は食べませんが。あとは美味しい水をたくさん上げてください。
そして、たっぷりの愛情を。
それが彼を生かしていく糧になります。彼があなたの中に何を見出だしたのかは分かりません。ただ彼はあなたの中に自ら愛することの出来る何かを見つけたのでしょう。どうかそれを大切になさってください」

 そして、さらに重大な事実を告げた。

「実は悠季がこの先どれくらい生きられるか、私にも分からないのです。このような状態になっていた観用少年プランツドールは今までいなかったからです。もしかしたら明日にも枯れてしまうかもしれないし、このまま何年も生きているかもしれない。そのことだけはご承知おきくださったうえでお連れ下さい」

「・・・・・分かりました」

 それでも構わないと、そのときの圭は考えていた。この稀有な存在と過ごすことが出来るのなら、それがどんなにわずかな時間であろうと得られるものはどれほどのものか?

 だが、そんな考えがどれほどの苦しみをもたらすか、このときの圭には想像すら出来なかった。


桐院屋敷に帰り着きタクシーから降りると、悠季は物珍しそうにあたりを見回していた。

 すっきりと背筋を伸ばした細身のからだ。やや明るい髪がかすかな風にそよぐと金色に光った。乱れかかる髪をかき上げようと上げられたほっそりとした指がどきりとした色気をはらむ。

 圭は思わず彼の姿に見とれていた。

「お帰りなさい、お兄様。あら、その方は・・・・・?」

 ちょうど着替えてまた出かけるところだったらしく、玄関から出てきた小夜子と出くわした。どこかで開かれるパーティーにでも行くようで、胸元が開いたサテンのドレスに耳元にはきらきらと輝くダイヤモンド。

圭は会いたくない人物に最初に出会ってしまったと内心では苦々しく思ってはいたが、顔には表そうとせずに悠季の肩に手を置いて紹介した。

「彼は『悠季』です。ここに住むことになりました」

 そう答えると、悠季は小夜子の方へと振り向いて、にっこりと笑ってぺこりと頭を下げた。

「まあ、貴方は・・・・・?」

 どうやらあの店に何度も足を運んでいた彼女には、悠季が何者なのか分かったらしい。

「悠季、こちらです。行きましょう」

 それ以上小夜子が何かを言い出す前にと圭は悠季を促して屋敷の奥へと立ち去った。

 おそらく近いうちに彼女が何か言い出すことは間違いないだろうが。

「さあ、どうぞ。座ってください。お茶を用意させておきました」

 圭が悠季のために用意したのは圭が自分の居室にしているゆったりと広い洋室だった。

「いずれ近いうちにここを出て暮らす予定なのですが、少しの間だけここで辛抱してください」

 悠季は圭をじっと見つめていたが、小さくうなずいた。

「疲れませんでしたか?」

 首を横に振ってにこりとした。その柔らかな笑みにも魅了されてしまう自分がいる。圭は内心の動揺を抑えるつもりでテーブルに用意されてあったお茶のセットに手を出した。普段なら執事の伊沢が淹れてくれるのだが、二人きりになりたかった圭が断って準備だけをしてもらったのだ。

 独立してこの屋敷から出て自力で生活できるようにするつもりだったから、このところ自分の不器用さを痛感して伊沢から家事のあれこれを習っている最中の圭だったのだが、紅茶の淹れ方は未だに伊沢にはかなわないまま。悠季に気に入ってもらえるかどうか不安が心の隅をよぎる。

 ふとその手に触れてくるものがあった。

「君が淹れてくださるのですか?」

 悠季が席を立ってティーポットを掴んでいた。彼は圭の手からポットを引き取ると手際よく中に茶葉を入れ、カップを温めておいてからポットの紅茶を注いでくれた。

「いただきます」

 差し出されたカップを受け取って一口すすってみた。果物のような馥郁とした香りがたつ。伊沢に負けず劣らずの美味しさだった。

 美味しいですね。

 そう言おうと顔を上げて悠季の方を見ると、目を伏せほんのりと笑みを口元に刷いておいしそうに紅茶を味わう姿があった。

圭は彼の周囲に漂っている穏やかな静謐さに目を奪われ、言葉を失った。

 彼の纏う雰囲気に憧れ、見惚れる自分。だが、それは同時になんともいえない凶暴な衝動も引き寄せた。

 焦げ付きそうないらだちが、圭の中に渦巻く。だがそれが何を意味しているのか自分でも分からないまま。

 無意識のうちに手が伸びる。何も考えずに悠季を捕らえようと欲する手が。

 ふと悠季の顔が上げられた。


 何か?


 彼の涼やかな瞳がそう問いかけてきた。

「・・・・・美味しいです」

 圭はのどに絡まってくるかたまりを飲み下すようにして、その言葉を口に上らせたのだった。

【3】