【1】
その店は、圭にとって決して足を踏み入れることなどあり得ない部類の店のはずだった。
だから、『彼』との出会いは偶然と必然とが絡み合ったものであり、人はそれを『運命』と呼ぶのかもしれなかった。
「お兄様、買い物に付き合っていただけるかしら?」
久しぶりに海外から実家へと戻ってきていた圭は、桐院屋敷のダイニングで朝食を摂っていたが、意外な小夜子の申し出に驚いて顔を上げた。
彼女がまだ未成年の時には何回か買い物に付き合ったこともあったが、ここ数年はそんなことを口にすることもなくなっていた。
「それは、僕が行かなければまずいところですか?」
「いいえ。そういうわけではありませんわ。でも、珍しいところですので、お兄様も興味を惹かれるのではないかと思ったんですの」
どうやら日本に帰国して以来の不機嫌を見透かされ、気晴らしの機会を申し出てくれたらしかった。そんな気遣いはまっぴらと、即断るつもりだったのだが、ここ数日鬱屈をかかえたまま部屋に篭っている反省と珍しい誘いとにふとした気まぐれを起こし、彼女からの誘いを承諾したのだった。
「今日は冷えますわね」
車で走り出してしばらくすると、ぽつりと小夜子がつぶやいた。
「雪でも降るのかしら?」
ほとんど独り言に近い言葉に思われて圭は返事はしなかったが、その言葉の内容に心ひかれて車の窓から外へと視線を動かした。
窓の外はどんよりと低い雲が垂れ込め、今にも天から降ってきそうな気配だった。外を歩いている人々も寒そうに肩をすくめて急ぎ足になっている。
「・・・・・雪、か」
圭はその言葉を口の中でころがしてみた。いったい何時から自分はその日の天気や温度、外の風の匂いや花の香りに気づくことなく過ごしてきたのだろう?今の季節が何であるかさえ忘れていたのではないだろうか?
両親の反対を押し切って音楽家として生きる道を選んだ自分。欧米のコンクールで優勝し華々しいデビューを果たした自分。多忙なコンサート活動を精力的にこなして充実した日々を過ごしていたはず・・・・・の自分。
だが、気がつけば世間のごく普通の季節感とさえ乖離していた。
その違和感に無意識で気がついていたからこそ、先週の自分では満足いく出来だったと思えるコンサートに対して、尊敬している老批評家からの厳しい批判を与えられていたく心が傷ついたのかもしれなかった。
『ケイ・トウノインのコンサートはいつものように聴衆に満足のいく始まりとなり、いつものように感動させ、いつものように余韻を持って終了した。
だがその満足に対して私はそこはかとない違和感と欠落感を覚えている』
そんな言葉で始まっていた。
そして、
『偉大なるコンダクターになるはずの若者よ、どうか精進して欲しい。そしてよき恋をして欲しい。』
そう書かれていた。
普段評論になどに目を止めない圭は、この評論を読んで、思いがけない言葉に頭を殴られたような衝撃を受けていたのだった。
はたして自分は恋をしたことがあったのだろうか?
気が置けない悪友たちとのユーモアとウィットに富んだ言葉の掛け合いや興味深い教養のやりとり。そして、後腐れのないセックスライフ。
しかし、彼らと少し会わないことがあればそれっきり疎遠になってしまう希薄な関係。
自分はそれで満足なのだろうか?
「着きましたわ、お兄様」
物思いにふけっている間に、車は狭い路地の奥まった場所にある小さな店の前に着いていた。圭はショウウィンドゥの奥に飾られているものを見てつぶやいた。
「・・・・・これは、観用少女、ですか」
そこは少女の形をした植物を売る店。
ゲイである圭にとってまったく縁のないといっていい場所だった。
「ええ、そう。前々から買いたいと思っていた子がいるんですの。お兄様は観用少女には興味はないでしょうけど、この店の中はきっと惹かれると思いますわよ」
そう言って小夜子は車から出、やむをえず圭も続いて車を出た。車のドアを開けたとたんにふわりと白く息がこごった。思っていた以上に気温が下がっている。ふっと肩をすくめると店の扉を開けて小夜子をエスコートし、店の中へと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
穏やかな声が出迎えてくれた。
その店の中は、ここが日本であることさえ忘れさせてしまうような不思議なたたずまいを見せていた。
寒い外気に凍えたからだがほっとする暖気。何の香なのか、甘さと青さを持っているような香の香りが漂っている。店の中は少し薄暗く、周囲に置かれている家具調度のたぐいを闇の中へと沈ませていた。
夜光貝の螺鈿装飾をほどこした書棚、エナメル装飾をしたライティングデスク、色鮮やかなヴェネチアガラスのランプ・・・・・。
女性好みの調度の数々でありながら、色や意匠が控えめなので男性でも落ち着いた気分を味わうことが出来る。
いかにも考えてしつらえられた店だった。
「今日の御用は?」
「あの子を見せて頂きに参りましたの」
小夜子が言うと、店主はにっこりと笑って頭を下げた。
「お客様のご希望は『翠蘭』でございましたね。では、どうぞこちらへ」
店主が指し示していたのは、店の奥へと続く帳の中。この店では客の前に商品である少女を持ってくるのではなく、客がプランツの元へと歩いていくことになっているらしかった。
帳の奥にはいかにもそこに置かれた少女の個室であるかのように整えられており、客はまるでこの部屋に招待されたかのような錯覚を覚える。
女主人である『翠蘭』と呼ばれたプランツは穏やかな笑みを浮かべて兄妹を迎えてくれたが、その両眼は閉じられたままだった。
「ああ、やはりまだわたくしを受け容れてはくれないのね」
残念そうに小夜子が言った。
「受け容れる?」
店の中での会話とは思えないような聞き慣れない言葉を聞いて、圭は聞き返した。店はここに座っている観用少女を売る店であるはずなのだから。
「はい。この店の中におります観用少女たちは全て、お客様がプランツを買うのではなく、彼女がお客様を選んで一緒に付いていくのでございますよ」
圭たちの背後につつましく控えていた店主が圭にレクチャーしてくれた。
「ここにいる少女たちの一人が欲しくて欲しくて、受け容れてもらえるように何度も足を運んだあげく、とうとう最後まで選ばれることがなくて、買うことが出来なかった大富豪もいれば、たまたま通りかかっただけの一文無しのホームレスの男性がウィンドゥに飾られた人形から選ばれてしまい、買う金さえなかったのローンを組んでお持ち帰りになられた男の方もいらっしゃいました」
「それは彼にとって災難と呼ぶべきではないのですか?」
「いえいえ。プランツを買っていかれたその方は、その後発奮して会社を立ち上げ、みごとに代金を支払ってくださいましたよ」
「つまり、ここにいる人形たちにはそんなツキを呼ぶ力があるというのですか?」
圭は半ば興味を失い、冷ややかな声で言った。彼にとって神や幸運にすがって願いを叶えてもらおうとする行為は自分の弱さを認めようとしない軽蔑すべきことに思えていたから。
「それは違います。ここにある彼女たちにそんな力はありません。ただ、ここにいる子達はすべて名人と呼ばれる職人によって丹精込めて作られたものだというだけのモノなのです」
「失礼だが、この人形たちはいくらくらいの値段がついているのですか?」
店主が微笑みながら告げた値段は、ごく普通に働いて暮らしている人間にとっては馬鹿げているとしか言いようのない高価なものだった。
桐院家にとってはさほど苦にならない価格ではあっても、それを買う人間がいるということさえ圭には驚きだった。
「いくら名人の手によるものだとしても、そんな価値があるとは僕には思えない。人形などただ買ったものにかわいがられるしか出来ないだろうに」
「そうです。買っていかれた方たちに愛されることしか出来ないのが彼女たちです。愛されることが観用少女に求められていることなのですから」
その言葉に圭はぐっとつまった。
店主は圭に対して非難の言葉を浴びせたわけではない。しかし、彼のさりげなく出された言葉が鋭く圭の胸を刺したのは事実だった。
「私の言葉がお気に障ったのでしたら失礼致しました」
圭の不機嫌を感じたのか、店主がおだやかに頭を下げた。
「・・・・・いえ。帰ります」
自分が何に対して気に障ったのかも分からないのだから、店主をとがめることも出来なかった。
「外は寒さが厳しくなっているようです。こちらでお茶でも飲んで温まってからお帰りになってください」
店主の申し出を断るのは、先ほどのやり取りにまだこだわっていると思われてしまうようで帰りづらい。圭は店主に勧められるままに店の奥にあるソファーセットへと案内された。
圭と小夜子に出されたのはどことなく異国風の味わいのするコーヒーだった。アメリカで出されるような薄いものではなく、かといって欧州で好まれるような濃く苦いものでもない。強いて言うとアラビックコーヒーのような、コーヒー豆以外のスパイスを入れている飲み物に感じられた。
「美味しいですわね。こちらに来てこれをいただくのも楽しみの一つなんですのよ」
一口飲んでほっとため息をつくと、小夜子は店主にほほえみかけながら言った。
「ありがとうございます」
礼を述べた店主は店の奥へと下がっていった。
しばしの間兄妹の間に会話はなく、不思議な香りのコーヒーを味わう時間が過ぎていった。
「お兄様の役にはあまりたたなかったようですわね」
小夜子がぽつりと言った。
「君が僕に気を使ってくれたのは有難かったですがね」
「あら、余計なお世話だと思われたのではありませんの?」
「まあ、最初はそう考えないでもありませんでしたね」
正直な圭の告白にころころと楽しそうに小夜子が笑った。
「しかし、確かにここは僕が自分から足を踏み入れる気にはなれない店ですね。経験させてもらっただけでも有難いことだと思ってますよ」
「そうですの?それならよかったのですけど・・・・・。でも、わたくしがお兄様をここにお連れしようと思っていた本当の理由は他にありましたの」
圭は片方の眉をひょいと上げて、話の続きを求めた。
「実はこの間このソファーに座って同じようにコーヒーを頂いていた時のことですの、この奥でバイオリンが・・・・・」
その時だった。
小夜子の携帯が鳴り出した。
「あ、あら、大変、どうしましょう!」
失礼と兄に侘びを言ってから、届いていたメールを見ていた彼女は、ひどくうろたえた様子を見せた。
「お友達に大切な用件が出来てしまって、急いで私に来て欲しいと言っているんですの」
「ならば車で先に行けばいいでしょう。僕なら店主にタクシーを呼んでもらえば帰れるのですから」
お友達というのが、小夜子にとってただの友達なのかそれとも新しく出来た恋人なのか。
圭にとってはどちらでも構わなかったが、これ以上勘のいい妹と一緒にいれば、圭の鬱屈の理由を聞き出されてしまうかもしれなかった。
圭にとって触れられたくない以上、このあたりで別れた方が無難と言うものだった。
「ごめんなさい。私が誘っていながら先に帰ることになってしまって」
たいしたことはないと言うように圭が手を振ると、小夜子はもうしわけなさそうな顔をしながらも店主に挨拶をすませると、急いで店を出て行った。
「お客様、もし興味がおありでしたら、他の子たちも見ていかれますか?」
店主が聞いてきたが、圭はあっさりと断った。本体が植物であろうとなかろうと、女の子の姿をした人形になどは興味などはなかったから。
「もう一杯コーヒーをいただけませんか?」
「承知致しました」
店主が下がると、たった一人のこの空間に包まれている居心地のよさにあらためて気がつく。
他の店に入って圭が閉口するのはこちらの気分など考えずに流されているBGMだった。
控えめな音量のクラシックでも、誰が演奏しているのか誰がソリストをつとめているのかに気がいって買い物など楽しめなくなってしまう。まして大音量で今流行りらしいポップスを聴かされたりすれば頭痛さえ覚えてしまう。
だが、この店には邪魔な音楽はいっさいかかっておらず、しんと静かに時間が流れていく。まるでここは別世界のようでありながら、それでいてどこか懐かしく心地よい。
この店に来る客は、観用少女を求めてくるだけではなく、この店の中にある雰囲気を求めてやってくるのではないか、そう思えてきた。
とりとめもなくそんなことを考えていた時だった。
・・・・・バイオリン?
圭の耳に届いたのはごくごく小さく聞こえるバイオリンの音色。
それは曲として成り立っているものではなく、拙いバイオリンを練習しているかのように聞こえる音の粒たち。
しかし思わず耳をそばだててしまう心地よさを持っていた。
圭は無意識のうちに立ち上がり、音の出所を探すべく店の奥へと足を進めていった。