明後日には引っ越しをするというその日、学校から帰るのが遅くなった。

授業が全部入っていたし、ブラスバンドの顧問を引き受けることになってしまって、あれこれ準備しなくてはならなかったし。

こうなると家に帰ってめしを作るのもおっくうになるってもので、以前ニコちゃんからうまいって聞いたことのある小料理屋の『富士見』という店に入ることにした。

「へい、いらっしゃい!」

威勢のいいおやじさんの声が出迎えてくれた。

「カウンターの席でいいですかね?」

「構いませんけど」

おやじさんが示してくれた席に座って、おしぼりを貰って手を拭きながら店の中を見回していて、気がついた。

僕の隣の席に座っていたのは、あのコンビニで出会った男だったんだ!

「おや、確かいつぞやお会いした事がありましたね」

彼も気がついたらしくて、僕に挨拶してきた。

「ど、どうも」

「今日はバイオリンをお持ちではないのですね」

「今日はフジミがないので・・・・・って、僕がバイオリンを弾くって、どうして知っているんですか?」

びっくりした。こいつの前に姿を見せたのはあの時だけだと思っていたのに。

「この間バイオリンを持って歩いておられたのをお見かけしましたから」

「そ、そうでしたか」

避けていたつもりだったけど、毎日駅の方に通っているんだから、出会う事もあったのかもしれなかった。

「僕は桐ノ院圭と言います。今は・・・・・少々休職中の身でして」

「そうですか。僕は守村と言います。高校で音楽を教えています」

「プロの演奏家ではないのですか?」

「音大は出たけれどプロにはなれなかった、ヘボバイオリニストなんです」

「・・・・・」

桐ノ院と名乗った男は、何やら口の中でつぶやいた。

『ヤハリ、ソウキマシタカ』

そんな風に聞こえた。

「え?」

「いえ、なんでもありません。ところで守村さんはこちらに住んで長いのですか?」

「そうですねぇ。大学に入った時からだから・・・・・」

その男は実に気さくで如才ない話しぶりで、何で僕がこの男をひどく警戒していたのか分からなくなってしまった。

当たり障りのない話題をふられ、なんとなく話しているうちに次第に人見知りの強い僕も打ち解けていった。

「失礼ですけど、桐ノ院さんはどうして何日も駅前のコンビニの前に立っていたんですか?いえ、言いたくない理由があるのでしたら話さなくていいです。これは僕の好奇心ですから」

「いえ、別に言いたくないわけではないのです。僕がこの街に来た理由は、ある人を探しているからです」

「ここに住んでいる方なのですか」

「たぶん・・・・・そうなのだと思います。ですがどこに住んでいるかまでは分からないんですよ」

「それは大変ですね」

彼が駅前に立ち続けていたのはこれだったのか。

「ですが、きっとその人を見つけ出しますよ。以前探した時には間違えてしまいましたが、今度こそきっと見つけ出します!」

そんなに懸命に探しているというくらいなんだから、たぶん恋人なんだろう。

僕は今さらながらに彼がとても男っぽい美形だって事に気がついた。こんなハンサムに捜される女性なんて、いったいどんな美人なんだろうか。

彼はお近づきのしるしにとビールを注文して、僕もお相伴にあずかって。

でもあまり酒が強くない僕は、コップ2杯も飲むと酔いが回って来て気がゆるんでくる。

そう言えば今日は忙しくて、昼飯はほとんど食べられなかったんだっけ。

「守村さんはいつもはバイオリンはご自宅で弾かれるのですか?」

「いえ、ボロアパートに住んでいるので弾けないんですよ。ですからたいていは野外で練習ですね。河原で弾いたり、野球場に出かけたりです。でもようやく弾けるアパートに引っ越すことになったので、これからは雨の日にも気にしないで弾けるんで嬉しいですよ」

「それで君は・・・・・いえ、なんでもありません」

彼は、僕がどこに引っ越すことにしたのか、聞きたかったんじゃないだろうか。でも、それを聞けば僕が警戒すると思って聞くのをやめたように思えた。

なんでだろう。僕はどうしてこんなに神経質になっているのか。

でも酔いのせいだろうか。僕はそんなことを考えた事などすぐに忘れてしまっていた。

桐ノ院さんとはそのあとすぐにふじみの前で別れてアパートへと戻った。あれほど警戒していた男のことを『なかなかいい奴じゃないか』なんて考えながら。


そうして、日曜日。

僕は念願だった防音付きのアパートに引っ越すことが出来た。さあ、これで寒い思いをせずに思いっきりバイオリンが弾けるぞ!

アパートに置いてある僕の荷物なんてたいしたことはない。自分の手で運んだっていいくらいだったけど、一応段ボール箱を幾つか作って、軽トラックで運んでもらった。

アパートに入って一段落した後、一応あいさつ回りをと思ってまわりの部屋に声をかけた。

「ああ、誰だぁ?」

すぐ隣の部屋に住んでいるのはいかにもガテン系のおじさんだった。

「ひっこしの挨拶だァ?今時ずいぶんと律儀なこった。まあよろしくな」

そう言ってさっさと部屋に引っ込んでしまった。まあ、こんなものだろうな。

今度は1階の真下の部屋へと行った。こっちの方が問題だ。音漏れするとしたら下の方が響くんだ。

「はぁい、だぁれ?」

出て来たのは水商売らしい、派手な感じの女性だった。昨夜の疲れが残っているのか、くまやシミが目立つ顔がむくんでいた。

「今度上に引っ越してきた守村と言います。どうぞよろしくお願いします」

「あらぁ、ご丁寧にどうもォ」

「時々バイオリンを弾くのですが、うるさいようでしたら言って下さい」

「それって昼間にやるの?」

「いえ、たいてい夜だと思います。仕事から帰ってから弾きますから」

「あらあたしなら昼間じゃなければ大丈夫よォ。平日の夜はたいていお店に出てるから。よかったら来てくれると嬉しいわ。よろしくねェ」

そう言って、あだっぽくウインクしてきた。

「は、はあ。どうも」

「それより・・・・・ねえ、あんた音大生?」

「いえ、音大はもう卒業していまして、今は高校の教師をしています」

「卒業したのは邦立?」

「ええ、そうですが」

女性は何を考えているのか、僕をじろじろと眺めていた。

「あなた、よくこの部屋を借りる気になったわねぇ」

「は?どういうことでしょうか?」

「あら、知らなかったの?ニュースになったのに」

女性は疑わしそうな表情を見せた。

「すみません、僕はテレビを持ってないもので。・・・・・あの、もしかしてここで誰か亡くなった、とか?」

もしかして、ここで自殺でもしたんだろうか?

「違うわよ。死んでたら不動産屋さんがそのことを言わなきゃいけないでしょう。契約トラブルを防ぐ義務があるんだから。そうじゃなくて、半年ほど前の話なんだけどね。

あの部屋に住んでいたのはあなたと同じ邦立の音大生だったんだけど、突然に失踪してしまって今も行方が分からないんだってさ。家族は息子さんが何でいなくなったのかまったく分からないとかで、警察に失踪届けを出したんですって。

大家さんとしては何時帰ってくるのかわからない部屋がいつまでもそのままというのは困るからってことでね。結局家族の人と相談して契約を解除したはずよ。まあ、失踪したっていうのがうわさになるのを嫌ったのかもね」

「行方不明ですか。でも家出くらいならこの部屋に問題はないですよね」

「一応そう言う事になるから不動産屋さんもあなたに何も言わなかったんでしょうけど、でも警察が出てきていろいろと聞いて回っていたから、もしかしたら、ただの失踪事件じゃないのかもしれないのよねェ

ニュースで見たんだけど、ここ1、2年の間に、今回の音大生の他にも何人か若い男性がこの周辺で突然失踪しているんですって。しかもみんな音大生の・・・・・確かバイオリニストばかりだったはずなのよ。大学は邦立ばかりではないそうだけどね」

ここで女性は内緒話をするように声をひそめた。

「実はね。あのアパートの角部屋の失踪者っていうのは、2人目なの。ここのアパートは防音だから音大生が借りることが多いから、たまたまそうなっただけかもしけれないどね。

でもこうなると、縁起が悪い部屋だってことになっちゃうでしょう?

それでニュースでも『また、また音大生謎の失踪。事件に巻き込まれたか?!』って出たのよね」

警察がただ行方不明なだけでは動くはずがないということは僕にも推測できるけど、いったい何が起きていたんだろうか。音大生ばかりを狙った連続誘拐犯とか?音大生って裕福な家庭が多いからなァ。

でも、もしそうならただの農家の息子の僕は関係ないだろうけど。なんて不謹慎なことを言っている場合じゃなかったな。

妄想してもはじまらない。本当の事は分からないんだから。

「あんた、もしかしてお家賃を格安にしてもらったとか?」

「え、ええ。たぶんですが」

「まあ、そうでしょうねぇ。そうじゃなければ借り手はつかなかったでしょうし。あなた、気をつけてね。3人目にならないことを祈ってるわよォ」

女性が同情と好奇心とを顔に浮かべて僕を見つめているのを振り切って自分の部屋へと戻っていった。

道理でこの部屋が安くなったはずだった。

でも、あの女性が言った事が本当かどうかは推測にすぎない。仮にそうだとしても、この部屋には問題がないのだから、関係はないはずだ。

実際、部屋の中でバイオリンが弾けくことが出来るのがなによりありがたかったし、家賃が安いのだから、多少の問題には目をつぶらなくては。