ようこそ

僕の名前は守村悠季。

二年前に邦立音大を出たけれどプロの音楽家にはなれなくて、今は高校の音楽教師になっている。

音楽教師の職っていうのはもともと空きが少なくて、僕も昨年までは臨採講師で食いつないでいたんだけど、ラッキーなことになんとか採用が決まって就職する事が出来た。

音大を出た時に、どうしても我慢できなくて買ってしまったバイオリンのローンがきつくて、風呂なしバイオリン演奏不可のぼろアパートで過ごしてきたんだけど、定職についたことで講師の頃よりはましな給料とボーナスとが出るようになったんで、ようやく今月にはローンの支払いが済む。

そうなると今度は新しい弓が欲しくなるけど、それよりも外で演奏しなければいけないのがつらくなってきてるから、次は防音が整っているアパートに引っ越そうかなって迷っているところ。

バイオリンで飯を食うわけじゃない。プロの道をあきらめた僕にとってはくやしいけどバイオリンは趣味でしかないわけだけど、未だに僕にとって一番の友達で何よりも貴重な宝物なんだ。

とは言っても、僕がバイオリンを弾けるのは同じく趣味で集まっている素人楽団のフジミくらいなものだけど。

僕はそんな穏やかだけど少し退屈な日常がずっと続くと思っていた。










「うわぁっ、遅れる遅れる!」

ちょっとしたトラブルのせいで自宅を出るのが遅くなった僕は、職場である高校へと小走りで急いでいた。

駅への道は僕と同じように通勤通学に急ぐ人たちが大勢いる。

ところが、角を曲がって駅が見えたところで、通りの向こうにあるコンビニの前にぽつんとたたずむ男性の姿が目にとまった。

道路を挟んだ向かいの歩道にも大勢の人たちが駅への道を急いでいたけれど、その男だけは周囲の動きに逆らってコンビニの前で動かない。

まるで川の流れの中にぽつんと立っている木のようだった。

「ずいぶんと背の高いやつだな」

2メートル近いんじゃないだろうか。見知らぬのっぽは誰かを待っているのかそれとも探しているのか、辺りを見回しているように見えた。

途方に暮れたような表情が、眼鏡をかけた僕にも見て取れた。

とは言っても、僕も他人への好奇心はそこまでだった。

意識はすぐに次に来る電車に乗れるかどうかに移ってしまい、男の事など忘れてしまったんだった。





その日の夕方、僕はいつものように電車から降りてアパートへと向かっていた。

今日は水曜日でフジミの練習はない。帰ったら夕飯を作って食べてから、野球練習場へバイオリンを弾きに行こうかなんて考えながら。

「あれっ?」

驚いたのは朝に見かけたあの背の高い男がまだコンビニの前に立っていた事だった。

まさかあれからずっとそこにいたわけではないんだろうけど、なんだか怪しい気配がする。

いったい何でそこにいるんだろう?そして、いつまでもそこにいるのだろうか?

コンビニで買い物をして出て来た僕は、ちょうどこちらを向いた彼とばっちり目が合ってしまった。

やばっ!こっちを見てるよ。

小心者で平凡な常識人の僕はとっさに愛想笑いと一緒にぺこりと頭を下げてしまった。

まったく知らない相手なのに。

すると彼は不思議そうな顔をしていたかと思うと、何かに気がついたかのように僕の方へと歩き出そうとするそぶりをみせた。

しまった!なんだか関わり合いにあったらまずい気がする。

僕はそそくさとコンビニから急ぎ足で離れていった。ついてこられちゃまずいからって、家の方角とは違う道をだ。

なんで男の僕がまるで女の子がストーカーを避けるような行動をしなくちゃいけないんだ!?

でも、道の角を曲がり、角から背後のコンビニを覗き込んでいた僕の胸は、何か分からないような不安でどきどきしていた。

幸いあの男は僕の後をつけてくるようなことはなくて(当たり前だ!)ほっとしたけど、それでも何か胸の奥にもやもやとしたわだかまりが残った。

それはまるで今までの平穏な生活が壊されてしまいそうな、漠然とした不安だった。




翌日から僕は勤め先の高校へ行く時、家を出てから駅への道をコンビニを避けて遠回りしていくことにした。

別にあの男が怖いわけじゃないぞ。うん。

ただ、厄介事は避けようと思っているだけだ。何しろ僕はようやく臨採講師から念願の高校の音楽教師に就職したんだからな。トラブルは願い下げなんだ。

そんな風に自分に納得させてみたものの、どうしてこんな風に自分があの男に対してピリピリとした警戒感を持たなくてはならないのかは全く分からなかった。

第一、今日もあの男がコンビニの前に立っているとは思えないのに、なぜか『彼は必ずいる』と確信しているんだった。






それから一週間くらいは何事もなく過ぎた。

もう元の道に戻ってもいいかなとも思ったけど、やむをえず使う事になった遠回りの道は案外散歩に向いている道で、帰りにはぶらぶらとあたりを眺めながら歩くのが楽しかった。

もっとも朝の急ぎの時には、まったくそんな気分にはなれなかったけどね。

その日も今は廃館となっているけどちょっとレトロで洒落た元映画館の前を通って壁面の精緻な飾りを見上げたり、新しく出来たらしい住宅地の家々の綺麗な庭なんかを見てまわった。

途中にある、びっくりするほどホラーな洋館は最近僕の一番のお気に入りだ。今は見る影もないほど荒れ果てているけれど、手入れさえすればきっとお城のように見えるだろう。

そう、おとぎ話の茨姫の舞台のように見えるんだ。

そんな風にぶらぶらとコンビニの(例のコンビニではなくて別の店)袋をぶら下げて散歩していると、途中でまだ新しいアパートを見つけた。



【空き部屋あります。防音完備 要相談】



とあって、不動産屋さんらしい電話番号が書かれていた。

ふうん、なかなかこぎれいなアパートだけど、家賃が高そうだな。

でも、なんだか気になって電話番号をメモして帰っていった。

こんなことを虫の知らせって言うのだろうか。

その日の夜、大家さんがやってきて突然このアパートを取り壊すことになったので、立ち退きを承知してくれないかと言ってきたんだ。

そろそろ老朽化しているが建て替えはせずに土地を売ることにしたのだそうだ。もちろん立ち退き料も払ってくれるという。提示した額はびっくりするほどだった。

まるでこちらの望みを知っていたかのようなラッキーな出来事だった。








『あのアパートでございますか?はい、西の角が空いておりまして、少々西日が強いことなどもありまして、お家賃を安く勉強させて頂いております。お家賃ですが・・・・・』

学校は休みの土曜日にさっそく電話をかけてみると、そこの不動産屋さんはそう言って、家賃の希望額を告げた。

もっと高いと思っていたのに、意外に安い。ユニットのトイレ・風呂がついている、1DK。

西日だけじゃなくて、幹線道路のすぐそばなので昼間は結構うるさいのだそうだ。そんなわけで、納得してくれれば家賃を下げるという。

「あの、実は僕はバイオリンを弾きたいと思っているんですが、部屋の中で弾く事は出来ますか?」

『あー・・・・・たぶん大丈夫だと思いますよ。角部屋ですから。ただ、窓を開けずに寝室の方でなら、ということでございますが』

「そうなんですか?」

『はい。もともと電車の騒音でトラブルがありまして、窓のサッシがきっちりしていますから。それに今時の賃貸では寝室での音が漏れるのはご法度でございますからねェ。いえ、楽器ではございませんがね』

そう言って、何やら意味深な含み笑いをしていた。

あ。ああ、そ、そう。そういうことか。ふうん!

『それで、部屋をご覧になりますか?』

「はい!」

僕と不動産屋さんとはアパートの前で待ち合わせすることになった。

部屋の中も見せて貰って納得した結果、話はとんとん拍子に決まり、僕はここに引っ越すことになった。

もっとも向こうの都合で来週からの入居になったけど。

僕はなんだか浮き浮きした気分でこれまで住んでいたぼろアパートへと戻って来た。ようやくここともおさらばだ。風呂がないこともだけど、バイオリンが弾けない事がきつかったよなァ。

どこかで僕は気が緩んでいたのかもしれない。

まさか、この後にあんなことが起きるなんて想像も出来なかったんだ。