僕が『桐ノ院圭』と名乗った男とまた会ったのはそれから数日後、ようやく部屋にもなじんで暮らすようになった頃だった。

たまたま、またあの富士見に食べに出かけ、ばったりと出会ってしまったのだ。

「やあ、またお会いしましたね」

「ど、どうも」

にこにこと笑顔でカウンターの隣の席に招かれれば、『お前の隣には行きたくない』とは言えない気の弱さがつらい。

ビールを頼んで、コップに注がれて、定食のおかずをつまみにして。

彼は巧みな話術で僕の興味をひいていき、酔いがまわるにつれてたわいのない話題に花を咲かせることになってしまった。

彼は富士見ここに来る前は半年ほどヨーロッパの方に出かけていたそうで、あちらでの音楽事情などを教えてくれた。

「桐ノ院さんはクラシックに詳しいんですね」

「ええまあ。ところで、守村さんはなぜプロになられなかったのですか?」

そんなことを聞いてきた。いつもなら昔の古傷が痛む話だったんだけど、この時は酔いが痛みを忘れさせてくれて、笑いにまぎれて話す事ができた。

「いやあ、プロになるほどの腕がなかったんですよ。プロの試験を受けようとしたこともあったんですが、ダメでしたねぇ」

「まさか。あれほどすばらしいバイオリンを弾かれる方が採用されないなどとはありえないでしょう?」

「えっと、・・・・・どうしてそう思うんですか?」

彼の前で弾いた事なんてないのに、なんでそんなことを言うのだろうか。

「実は聞いた事があるのですよ。先月でしたか、川べりを散歩していましたら対岸からバイオリンの音色が聞こえまして、実に感動しまして、どんな方が弾かれているのか、ぜひ会ってみたいと願っていたのですよ」

「それって本当に僕ですか?」

「ええ、確かに守村さんでした。プロの方だとばかり思い込んで、探し回ってしまいました。ですがようやくお会いできてとても嬉しいですよ」

河原で弾いたことはそれほど多くない。それを聞いていた人に褒められるなんて、思ってもみなかった。

「ありがとうございます。お世辞でも桐ノ院さんにそんな風に言っていただけるなんて嬉しいですよ」

「お世辞などと!僕はそんな嘘は言いませんよ。それより僕の事は『圭』と呼んでいただけませんか?」

「・・・・・桐ノ院さんと呼んではまずいんですか?」

「できればあなたにはそう呼んでいただきたいんです」

「はあ、そういうことでしたら・・・・・ありがとうございます、圭」

桐ノ院は、じゃなくて圭は実に嬉しそうに笑っていた。

海外ではそんな風にファースト・ネームで呼びあうのが慣れているからなのかな?

彼は話しているうちに、話の流れで家には珍しい楽譜をたくさん所蔵している事を打ち明けてくれた。

「たぶん僕以外では芸術大学の図書館にあるくらいではないかと思います。そちらは貸出禁止になっていると思いますが」

「すごいですね!」

彼が持っているのはオーケストラ用の総譜が多いそうだけど、中には珍しいバイオリン譜が幾つもあるそうで、バイオリンを弾く身にとってはうらやましい話だった。

「我が家にはバイオリンもいくつか所蔵してありますよ。僕は触る程度しか出来ないのですが。

祖父が楽器集めが趣味だった人で、海外に出かけた時あちこちから幾つか買い込んできたのですよ」

「へえ!すごいですね」

「イタリア製のなかなかいい音色のものが幾つか揃っています。それにアマーティの写しがありますよ。それにグァルネリも。残念ながらストラドはありませんがね」


弾かせてもらえませんか?


という言葉がのどから出かかった。今使っているバイオリンに対してだんだん不満を感じていた僕には、実に猫にまたたびのような誘惑だった。

「あなたはバイオリンを弾かれるのですから、気に入ったものがありましたらお貸ししましょうか?」

まるで僕が声に出したかのように、彼はあっさりと言った。

「まさか!見ず知らずの他人がそんな貴重なバイオリンをお借り出来るわけがありません」

「見ず知らずではありませんよ。こうしてお話しているだけであなたがとてもバイオリンを好きだという事がよくわかりますからね。それにあのバイオリンたちは誰も弾いていないので、メンテナンスのためにも誰かに弾いてもらった方がいいのですよ」

そんなことを言われたら、断われなくなってしまう。

「あの、貸していただくなんて僕のようなヘボにはもったいないお話ですけど、もしお願い出来るのなら弾いてみるだけでもお願いできませんか」

「ええいいですよ。では行きましょうか?」

「これからですか!?」

「ええ、善は急げと言いますからね」

桐ノ院、いや圭は立ち上がって僕の分まで支払い(僕がそのことに気がついてあわてて払おうとしたら、『お近づきのしるしだ』と言って断られた)そのまま二人で彼の自宅へと歩き出した。






「ここは・・・・・?」

「さあどうぞ。僕の家です」

そこは毎日駅へ行く時に通っている道にある、例のあのお化け屋敷・・・・・じゃなくて、荒れ屋敷だったんだ!

ここからなら僕が通るのを見かけることだってあったはずだ。避けていたつもりだったのに、かえって彼の前に姿を見せてしまっていたんだな。

「しばらく出かけていたために庭が少々荒れてしまって、近くの子供などはお化け屋敷だなどと言っているようですがね。まあ、近いうちに庭師を呼んで手入れをさせるつもりです。さあ、中にどうぞ」

レトロな鍵で扉を開けると、中からひんやりとしてどこか金錆のようなにおいの風が吹いてきて、なんだか背筋がぞくぞくした。

「ようこそ、悠季」

背後から桐ノ院のささやきが聞こえた。交差した腕が僕のからだを包む。

「やっと君がこの腕の中に入ってくれた!」

そうして、かすかなきしみ音と共に扉が閉められ、僕は館の中に閉じ込められた。

そう、僕は閉じ込められたんだった。



――――何人もの青年が。

――――みなバイオリニストばかり行方不明で。



あの隣人から聞いた、例の話が思い浮かんだ。

「あの青年たちをここに連れて来たのは僕の失敗でした。彼らには音楽の才能などなかったのですから。

ですが今度こそ間違いありません。君こそが僕のミューズです!君はここに居るべき人です。ええ、もうどこにも行かせませんよ・・・・・」

そのとき僕はようやくわかった。

僕があれほどこの男の事を警戒していたのは、どこか無意識のうちに『この男は危険だ』と気がついていたのだろう。

耳の奥底に、まるでサイレンのようにけたたましく『今すぐここから逃げ出せ!』と叫ぶものがいる。

でも、もう遅い。

今まで失踪してしまった青年たちもこうしてここに連れて来られたんじゃないだろうか?

そうしてこの屋敷のどこかにある部屋には、桐ノ院がミューズだと信じ、けれど期待を裏切られてしまったために『破棄』された青年たちがいるにちがいない。


――――そう、永遠に家族のもとには戻ることができなくなった青年たちが。










ようこそ、ここは青髭の館。

















青頭巾の次は青髭です。(笑)
ご存じの方も多いと思いますが、ペロー童話に出てくる(ジル・ド・レイがモデルだとも言われている)青髭公の話です。
血まみれにした奥さん(の遺体を)を何人も屋敷の奥へと隠していた架空のシリアル・キラーです。
桐ノ院さんもこんなタイプの話では、実に違和感なく役柄に馴染んでいますね。σ(^◇^;)







2012.11/10 up