久しぶりの自宅は、なぜかよそよそしく感じられた。これほど長い時間ここを離れていたのは悠季と二人で過ごした留学時期以来かもしれない。

「ただいま帰りました」

　僕は光一郎氏の肖像画に挨拶すると、部屋の奥へと入っていった。しかし、悠季の姿はどこにもなかった。

　まだ講習会から帰っていないのだろうか？

　僕は時差がからだの奥に重い疲れを溜めているのが分かっていた。

　飛行機の中や車の中ではさほど感じられなかったが、こうやって自宅に戻り馴染みの椅子に座ってみると、ずっしりとした重く湿った綿がからだ中にまとわりついているように思えて仕方がない。

　今日のフジミは休むことにして、軽くシャワーを浴びてそのままベッドへともぐりこんだ。ベッドの中には伊沢が気を配ってくれたのか、ラベンダーの匂いがむせるほどにしていたが、悠季の匂いと違って僕を安心させてはくれない。

「早く君に会いたいです･････」

　僕はつぶやくと、目を閉じて眠りへと滑り込んでいった。














「君は僕の気持ちを知っていたはずです。なぜ結婚するというのですか？僕は君のことを、あ･････」

「君は僕に！」

悠季は僕の言葉をさえぎった。

「言ったはずだ。『友達のままで構わない』と！君に対しての僕の気持ちは親友としてしかないんだ！」

　悠季は困った顔で僕にそれ以上の言葉を言わせなかった。

「確かに君のおかげで音楽を続けていくことが出来るようになったけど、これだけは譲れないんだ。
　もし、もしもだよ？これ以上君が僕に会うのがつらくて嫌だというのなら、僕はこのままフジミをやめてもいいんだよ。その方がいいのなら、僕は二度と君に会わないようにする」

「･････いえ」

　悠季の言葉は僕に対する脅迫ではない。確かに彼のバイオリンはフジミにとって、なくてはならないものとなっている。

　そして、彼自身フジミに対して深い愛着を持っている。しかし、それ以上に僕の気持ちを大切に思って、優先しようとしてくれているのだ。

　　大切な友人として、だ。　――――　恋人としてでは、ない。

　僕が悠季を恋人だと思っていたのは僕の願望であって、真実には彼は僕の親友に過ぎない。

　それでもいいと、僕は彼に言ったのだ。

　とても大切な親友であり、恋人になって欲しいと願い続けるあやうい均衡のまま年月だけが過ぎていった。

　悠季は留学後に母校の講師となり、僕はプロの指揮者となり。

　そして、彼は愛する人を見つけた。



　･････僕以外の。



「君は僕のバイオリニスト、僕のコンマスです。どんなことがあってもフジミを辞めて貰いたくはありません。

　･････結婚、おめでとうございます」

「･････ありがとう！」



















　僕は冷や汗にまみれて目を開けた。

　なんという悪夢だろう

　とうていこれ以上寝ている気にはなれなかった。

　時計を見ると、もうじきフジミが始まる時間になる。

　今日はこのままフジミを欠席するつもりだったのだが、ここにいても眠れなくなってしまった以上、気分を変えて出かけることにした。

　急いでシャワーを浴びて、ラフな服装に着替え、フジミの練習場へと向かった。

　以前ならフジミの練習は市民センターの会議室を使っていたのだが、昨年からはようやく完成したフジミホールでの練習が可能になっている。

　フジミのオーケストラとしての技量も上がり、演奏会も決して身内の義理や縁故でチケットを買ってもらうような出来では無くなってる。だからこそ毎回僕は楽しく指揮をしているし、こうやって疲れを押してでも振りに行きたくなるのだ。

　入り口を入り、防音扉を開けて中に入ると既に練習が始まっていた。金管の容赦ない響きが鳴り渡り、バイオリンのまだ調律が済んでいない音が響いている。

　だが、その中に悠季の澄み切った音色を聞き分けて、僕はほっとした。

　ああ、悠季の音がここにある。

　彼はここに来ていたのだ。

「おや、桐ノ院さん、明日帰国するんじゃなかったのかい？」

　入り口近くにいた斉田くんが目ざとく僕を見つけて尋ねてきた。

「ええ、飛行機の便が一つ早くなりましたので」

　僕達の会話が耳に入ったのだろう。奥で手直しをしていたらしい悠季がこちらに振り返って僕に気がついてくれた。

「やあ！」

　嬉しそうな顔でこちらへやってきてくれる。

　ああ、悠季･････！

「ああ、お帰りなさい。早かったんですね。向こうでの演奏はどうでした？桐ノ院くん」

　にこやかに笑っている彼の左の薬指には、


きらりと金色に輝く結婚指輪があった。

















　
「うわぁっ！！」









　今度こそ本物の悪夢だった。

　僕は飛び起きると、胸骨を叩き破ろうとしているような動悸を手で押さえ、震えてしかたがないこぶしを握り締めた。

　悠季との別れを告げられた悪夢から覚めて、フジミに出かけたつもりでいたが、あれもまた夢だったのだ。

　僕はシャワーを浴びてベッドに入り、そのまま眠り込んでいたのだから。

　そう、フジミに出かけて、帰りに悠季に『渡したいものがあるから』と言って、連れ帰ったのも夢。彼のささいな言葉のせいで激情にかられ、そのほっそりとした首に手を掛けたのも、確かに夢。

　そして、彼の左の薬指から金色の結婚指輪を抜き取って捨て、代わりに右の薬指に銀色の指輪を嵌めてあげたことも･････夢。


「･････やはり夢だったのですね。

　だってほら、ここにはちゃんと悠季がいるではありませんか」

　青ざめて冷え切った肌をしているが、確かに圭の隣にいるのは悠季。

　首の周りにくっきりとついている手形さえ、彼の魅力を傷つけるものではない。

　胸の上で組まれた白い手。その右の指には銀色の指輪が嵌められていた。左の薬指には指輪の痕が残っていたが。

　僕は彼にほおずりする。強張って冷たい唇にくちづけした。

「やはりただの夢だった。君は僕のそばにいる！」

　微笑には狂気が混じる。

「不愉快な女からもらった金の指輪など、最初から悠季の指にはまっていない。永遠に君は僕のそばにいてくれる。君は僕のものなのだから･････！」














そして世界は逆転し、夢は狂気となり、現実は悪夢となった。

	えー･････。すみません。 『青頭巾』に続いて、またまた桐ノ院さんの狂気モノになってしまいました。 どうも彼はこういう話が似合いますね。 天才っていうのは紙一重だから？（苦笑）

2007.4/25　up