「コーヒーでも飲んで帰りませんか?」
僕は無表情を装っていたつもりだったが、出てきた声を自分で聞いてみると語尾が震えているのが分かった。もっとも悠季は気がつかなかったようだったが。
「済みませんが、今日は用事がありまして・・・・・」
彼はバイオリンを拭き上げながら、困った顔で言った。
「えーと、今学期末で忙しくってですね、その、成績表をつけなくちゃいけなくてですね。それに夕飯がまだなので家に帰って食べるつもりなので・・・・・」
「ああ、それなら僕がうまい店を紹介しますよ」
「いえ、あの・・・・・」
困った顔でずれてもいない眼鏡を押し上げるしぐさがほほえましい。
「じゃあ、ここを片付けたら行きますので、先に行っていてください」
内心断りきれなかった自分に腹をたて、ため息をかみ殺しているのが分かったが、それは無視した。たとえ彼に露骨に避けられようとも彼のそばから離れることなど出来ない。
「手伝います」
僕は折りたたみ椅子を持って、所定の場所へと運ぶ手伝いを開始した。椅子はすぐに片付けられて悠季が僕と帰れない理由はなくなってしまった。
「じゃあ帰りましょうか」
僕は内心の嬉しさを顔にも声にも出さないようにして、彼をエスコートした。
彼にとっては嫌いな男と嫌々過ごす時間に過ぎないかもしれないが、僕に取っては貴重なデートだ。
富士見銀座を通って線路沿いの道を歩いていくと、見慣れた赤ちょうちんが目に入る。
【小料理ふじみ】
――――― ああ、懐かしい名前だ。
「いらっしゃい!」
からからと格子戸を開けると威勢のいい親父さんの声が響いた。
日替わり定食とビールを一本とって、二人で分け合う。オーケストラの改善点や次の演奏会の日取りなどを話題にしながら悠季との会話を楽しむ。
「その日あたりを次の演奏会にしたいと思っているのですが」
「ああ、その・・・・・もし出来るなら違う日にすることは出来ませんか?」
「何か用事でもあるのですか?」
「ええ、実は僕の結婚式が」
即刻、飛び起きた。
「・・・・・夢、か」
僕はぎゅっと顔をしかめてベッドから起き上がり、そのままバスルームへと歩き出した。思い切り熱いシャワーを浴びてから冷たいシャワーで引き締め、バスタオルで拭きながら部屋へと戻った。
ここはニューヨークのホテルの一室。コンサートツアーも終わりに近い。
夢はまだ悠季と恋人になれず、何とかして関係を修復しようと悪戦苦闘していた頃の僕だった。こんな悪夢を見たのは、今までと比較してもかなり長いツアーだったから。
里心がついたためだろう。いや、悠季欠乏症か。
あの頃は僕が望んだように、彼と恋仲になれるかどうかも分からなくて、ついには自分の指揮者としての自覚さえ喪いかけた、どうしようもない苦しみにもがいていた時期だった。
それが悠季の寛容さに助けられて、思いがけず最愛の恋人になってもらうことが出来た。今では懐かしくもほろ苦い思い出のはずだった。
それなのに、懐かしい夢のはずがいつの間にか悪夢と化していた。
隣にあたたかな悠季の温もりがないために、不安がこうじてこんな夢を見てしまったに違いない。僕はせめてものなぐさめに悠季の声が聞きたくて、彼がいる東京に電話をかけようとした。
しかし、ちょっと待て。
僕は手を止めて、急いで時計の文字盤に目をやり、それから東京との時差を計算した。
「東京は今の時間は・・・・・真夜中だったか」
いくら夢にうなされて悠季の声が聞きたくなったからと言って、眠っている悠季を無理やり起こしてまでするべき我がままではない。
僕はしぶしぶ受話器を手放して、悠季を起こすのをやめた。
だが、また眠るには目が冴えてしまったし、また同じような夢を見るのはお断りだ。僕は部屋に備え付けてあるコーヒーパックでまあまあなコーヒーを淹れて、朝まで譜読みして過ごすことにした。
「そろそろ時間だが」
譜読みに没頭しているところにマネージャーを引き受けてくれている宅島がやってきた。
「ああ、もうそんな時間ですか」
いつの間にか、朝食を摂ってから今日の会場であるカーネギーへと出かけなくてはいけない時間になっている。
「少し待っていてください。電話を一つ掛けていきます」
僕は受話器をとり、悠季の声を聞くべく伊沢邸の電話番号を押した。
「・・・・・・・・・・無理だろうな」
背後で宅島がつぶやいていた。
「何か?」
「いや、いいんだ。なんでもない」
そう言って、顔を背けてみせた。
僕は彼の態度をいぶかしく思ったが、気をとりなおして呼び出し音に耳を澄ませる方を選んだ。悠季が出てくるまで待つつもりだったが、いつまで経っても呼び出し音が鳴り響くばかりで彼が受話器をとる形跡がない。
「・・・・・ああ、そうか。昨日あたりから大学の講習会があるので早めに出かけると言っていたのでしたか。だとしたらもっと早くに電話するべきだった」
僕は自分の記憶の欠落にいらだちながら、受話器を置いた。確か講習は数日にわたっていて、途中で電話を掛けても出られないと申し訳ながっていた。そんなこともで忘れているとはどうしたことか。
「もういいか?そろそろ出かけないといけないんじゃないか?」
「そうですね。仕方ない、出かけます」
僕は後ろ髪を引かれる思いをしながらも、服を調えて部屋を出た。
コンサートは全て好評のうちに終了した。日本へと久しぶりに帰国できる。僕はパーティーを一つキャンセルして、予定していたよりも一便早い飛行機に乗ることが出来た。
うんざりするようなご機嫌とりなどより少しでも早く日本に戻れることが嬉しかった。
ようやく悠季とも会えるのだ!
あの悪夢を見てから飛行機に搭乗するまで、結局悠季と連絡を取ることが出来なかった。向こうとこちらとの時差や忙しさとが重なり合って、電話が通じなかったのだ。仕方のないことだが、こんなときは悠季を僕のそばに置けないのがとても残念でたまらない。
だからと言って、僕の一番優れたバイオリニストを僕の鞄持ちにするわけにはいかない。活躍する場を持たないというのもたまらないことだ。
出来れば学校の講師など辞めて、バイオリニストとしてソロ活動に専念してくれればいいと思うのだが、それは悠季にきっぱりと断られている。
彼は大恩ある恩師から命じられた仕事をないがしろには出来ないし、引き受けた生徒に対して責任があるというのだが、僕としては僕以外の人間に心を奪われるのはたまらないことなのだ。
自分が心の狭い男だということはよく承知している。これは子供っぽい嫉妬だということもよく分かっている。
だが、『悠季欠乏症』をなんとか抑えていても、こうやって長い時間はなれて過ごせばぶり返してしまうことになるのだ。
日本に到着してところで、急いで携帯を開いた。ようやく悠季の声を聞くことが出来ると内心うきうきしながら。
しかし、ここでも空しく呼び出し音が鳴るばかり。仕方なく僕は宅島の運転する車に乗って、自宅への道を急ぐことになった。
「そんなに露骨に不機嫌な顔をしてるなよ。隣にいる俺は気詰まりで仕方ない」
「これはもともとの顔なのだが」
宅島はやれやれといった顔をしてあからさまにため息をつくと、黙って運転に専念することにしたらしい。
車はひたすら伊沢邸を目指して走っていった。
久しぶりの自宅は、なぜかよそよそしく感じられた。これほど長い時間ここを離れていたのは悠季と二人で過ごした留学時期以来かもしれない。
「ただいま帰りました」
僕は光一郎氏の肖像画に挨拶すると、部屋の奥へと入っていった。しかし、悠季の姿はどこにもなかった。
Happy end |
Bad end |