【9】
フジミの練習に有を連れて行った悠季は、そこで有が大歓迎されて受け入れられていたのを知った。以前、彼を連れてここに来ていたのは、もう10年以上前になる。しかし皆はその頃の幼かった有さえちゃんと覚えていたのだ。
「あの頃は守村さんと手をつないでやってきて、緊張した様子でちょこんと部屋の隅の椅子に座っていたものよねぇ」
川島さん(旧姓)はしみじみとした調子で言った。現在、彼女が実質的にはこのフジミの責任者となって活動を支えてくれている。
「きっと有くんも将来は立派な音楽家になると思うわ。そのときはフジミが父子の初競演だったとか言われるわけね。それってとても楽しみじゃない?」
「まあ、そうなればいいですけどね」
周囲が楽しそうに賛同した声を上げるのに、悠季は苦笑した。
「さて、そろそろ始めましょうか?」
彼女の一言でなごやかに昔話に興じていた人たちも所定の場所に座った。悠季もそれに倣ったが、目の前に立つ指揮者が有であることに違和感を感じずにはいられなかった。
ばかなことを。今まで何人も圭以外の指揮者がここに立っていたのか忘れたのか?ついこの間帰国したときだってキムさんが指導してくれていたのに・・・・・。
悠季は自分を叱った。
「では、始めます」
少し緊張した様子の有が指揮棒を振り下ろして演奏が始まる。
最初はこだわっていた悠季だが、それもほんの少しの間で、やがて引き込まれるように演奏の中に没頭していった。
曲が終わり、みんなが楽器を下ろす。
「ビオラが走っています。クラリネット、もう少し切れのいい音で入ってください。それから・・・・・」
有が当然なことのようにあちこちへと指示を出す。その的確な指示に悠季は内心舌をまいた。これがまだ中学生の指揮とは思えない。ニコちゃんが少し未熟なところのある指揮だと言っていたが、これならプロでも十分に通用するのではないかと思えた。
その考えは何回も曲が繰り返していくうちにくっきりとした曲想をあらわしていく手腕によって、よりいっそう感じられた。いつの間にどうやって彼はこれほどの技量を身につけていたのだろうか。
「えーと、そろそろ時間ですね。終わりにします。ありがとうございました!」
有はちらりと時計を見ると指揮台を降り、ぺこりと頭を下げた。それまでの堂々とした指揮ぶりとは違った初々しい挨拶に、ほっとした空気とともに好意的な笑いが混じる。
「今日は特によかったよ!有ちゃん」
団員たちから口々に賛同する声が上がった。
「ありがとうございます。そう言っていただけるととても嬉しいです」
少し照れた様子でそう挨拶すると、にこにことしながら悠季のそばへとやってきた。
「父さん。僕の指揮どうでした?」
「ああ、うん。とてもよかったよ」
有はいかにも少年らしく誇らしさにぱっと顔をほころばせた。
「本当にねぇ。このままずっとフジミで指揮をしてもらいたいくらいだよ。もっとも有ちゃんは留学中だから、またあちらへ戻るんだっけねぇ」
市山が隣の席からバイオリンの手入れをしながら声を掛けてきた。
「ええ、そうなりますけど。でも、来年にはこちらに戻るつもりですから、そのときはまた指揮をさせてください」
有が嬉しそうにそう言った。
「有、来年はあちらに残らないつもりなのか?」
意外な話だった。悠季は小夜子からこの先、有が向こうで音楽の専門的な勉強をしたいと考えているらしいと聞いていたのだから。
「ええ、そのつもりです。・・・・・実はいろいろありまして・・・・・」
少し言いにくそうにしているところをみると、なにやら問題があったらしい。いじめを受けたとしてもそのまま泣き寝入りをするような息子ではなかったが、何かあったのだろうか?そんなことを考えたが、ここで話せる話題ではないので家に戻ってからゆっくりと聞くつもりになった。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか?」
悠季が周囲を見渡せば、既に椅子も綺麗に片付いている。昔は椅子を片付けるのがコンマスである悠季の役目だったが、現在はやってくれる係が決まっているのだ。
「守村ちゃん。ちょっといいかい?」
「ああ石田さん。何か用ですか?」
「ちょっとウチに寄って行かないかい?コンマスの意見を聞きたいんだけど。有ちゃんちょっとお父さんを借りてもいいかな?」
何か有の前では出来ない話があるらしい。
「はい、いいですよ。じゃあ有、先に帰っていてくれるかい?」
有は素直にうなずくと、先に練習場を出て行った。
「すまないね、父子水入らずのところなのに」
石田は悠季にコーヒーを差し出すと、これからのスケジュールについてあれこれと小さな打ち合わせとなった。だが、それだけではモーツァルトに呼ぶほどの理由とも思えない。あの場で話せば済むことだから。
「いいえ、構いません。ところで、何かフジミに問題でも出てきましたか?」
「いや、そうじゃない。そうじゃないんだが・・・・・」
石田は言いにくそうに口ごもり、ためらいがちに話を切り出した
「実はね。この前守村ちゃんと話したときに、有くんの指揮が少し未熟だけど先が楽しみだって僕言ったよね」
「ええ、おっしゃいましたね」
「それで、今日聴いた彼の演奏をどう思った?」
「どうって・・・・・。そうですね。息子だから少々身内びいきのところがあるのかもしれませんが、とても素晴らしい指揮をしていたと思います」
「そう。そうだよね・・・・・」
石田はなにやら考え込んでしまった。
「実はね。この間の指揮ぶりと今日とでは、指揮の出来が全然違うんだよ」
「それは・・・・・?」
「つまり、この間はあちこち手を抜いていたとしか思えないんだ。それが彼のまだ若いための未熟さだと思えたんだけど、今夜の彼の指揮ぶりはまるで・・・・・」
「桐ノ院圭にそっくり、だった?」
「守村ちゃんもそう思ったんだ」
「・・・・・ええ。ですが、これは圭の、いえ、指揮者桐ノ院圭のモノマネをしたわけではないと思います。確かに桐ノ院圭指揮のDVDやCDは桐院家にも置いてあるでしょうが、それを見たかどうか。見ていたとしても今夜の指揮はちゃんと有自身が考えたイメージで指揮していたのだと思います。それが圭の指揮と似ていたとしても、それは有の望みではないでしょう」
「だったらこれは、血のなせるわざと言うべきなのかねぇ」
石田はため息をついた。
「ちょっと気になってしまってね。彼は桐ノ院圭という偉大な伯父を持ってしまって、その影に振り回されているんじゃないかと思えてね。もしそうなら、フジミという桐ノ院圭が活躍していた場で彼に指揮を任せるのは、桐院有という未来のある指揮者をつぶすことになるのではないかと思えたんだよ。同じオーケストラで振っていると、必ず桐ノ院圭の指揮を団員さんたちは望むだろうだからね。たとえ素人の楽団ではあっても、彼の影響はまだ色濃く彼らの中に残っているのだからねぇ」
「それは僕も心配になりました。ですから、そのことはこれから彼と話し合ってみるつもりです。来年こちらに戻りたいと言っていたことも気になりましたし」
「そうか。守村ちゃんは父親だから当然考えていたんだね。いや、ごめん。年寄りの取り越し苦労だったようだね。わざわざ来てもらって済まなかったね」
「いえ、心配していただいてありがとうございました。コーヒーご馳走様。それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみなさい。守村ちゃん、有君にもよろしく言っておいてよ」
悠季は石田に手を振ると、伊沢邸に戻るために歩き出した。