【8】

 





 送迎用のハイヤーで送ってもらった悠季たちは、既に日が暮れた時刻にようやく伊沢邸へ戻った。

「うっわ〜!散らかったままだったよ・・・・・」

悠季は昨夜の失態を思い出した。・・・・・まずい!

ソファーの上に放り出したままだった服を大急ぎで集めた。ジャケットにネクタイ。そしてあちこちに転がってしまった圭とおそろいだったカフスボタン・・・・・。

「有、ちょっと待ってて!着替えてくるから」

「ええ、ゆっくりどうぞ」

 そう言った有は既に要領よく桐院家を出るときにセンスのよいジャケットとジーンズに着替えてからこちらに来ていた。

 悠季はあわてて二階へと駆け上がった。寝室を有に見られたら、それこそ父親の権威がだいなしになってしまう!

圭のアレは急いで洗って桐の箱へ収めて引き出しの奥へ。使ったティッシュやらはきちんとビニール袋に入れてくずかごへ。最後にシーツをはずして新しいものにベッドメイクをし直していて、シーツの間からひらりと落ちた小さなものがあった。

「え!?・・・・・こ、これ・・・・・」

 悠季の震える手が摘み上げたものはごく小さい小片で、表面をアルミコーティングされた袋の一部らしい。数センチほどのその小さなごみは、コンドームの袋を開けたときに破りとられたものとしか思えなかった。

 その小さなごみをぎゅっと握り締めて昨夜のアレコレを思い出してみたが、確かにこれを使ってはいなかったはず。恐る恐る手を開いてもう一度よく見てみた。

・・・・・確かに見覚えがあるものだった。

あわてて引き出しを開けて、中にあるコンドームの数を調べてみた。圭が亡くなった後、ときたま自慰の時に使うことはあっても、ほとんどなくなっていないはずで数は覚えている。緊張しながら数を数えて・・・・・

「・・・・・減っていない」

 引き出しの中のコンドームの数は悠季の記憶と合っていた。だが不審なごみは確かにこのパッケージと同じもの。

ふいに、ぴりっと鎖骨の上の小さな赤いアトが痛んだような気がした。

「・・・・・以前使ったときのものがシーツ交換のときに紛れ込んでいたのか?」

 そうとしか思えないようなごく小さい出来事だったが、悠季の鎖骨についた赤い小さなアトとともに心を波立たせるには十分なものだった。

「・・・・・!・・・・・父さん・・・・・・・・・・!」

 階下からなにやら自分を呼ぶ声がする。

「有、どうかした?」

「コーヒーが入りましたよ」

 以前のボーイソプラノとは違ったよく通るバリトンの声。昔 悠季は幾度となくこの声で、コーヒーが入ったと呼ばれていた。

 ちくりとまた胸が痛むのを覚えながら、悠季は急いで不審なごみをゴミ箱に捨てた。そして式服から薄手のジャケットとズボンに着替えて、階下へと降りていった。

 台所ではいかにも勝手知ったところという様子で有がコーヒーを入れてくれていた。

「このコーヒーカップを使いましたけど、構いませんよね?」

 それは以前圭がヨーロッパから買ってきたアンティークのセットだった。貴族の屋敷から出たものだろうと説明してくれたもので、とても凝った意匠のカップだった。

「うん。それは構わないけど・・・・・よくこれがある場所が分かったね」

「これには、小さい頃からあこがれていましたからね。でもその頃僕はまだ子供だったし、コーヒーを飲むものなんだから僕には使えないと思っていたんですよ」

「ふうん、そうだったんだ。そんなにあこがれていたのなら、これでミルクでも入れてあげてもよかったのにね」

「コーヒーが美味しいものだと思えるようになるまでは使いたいとは言えないと決めていたんです。
ですからこれを使えるようになって嬉しいですよ」

 大人ぶった様子でコーヒーをサービスしてくれて、自分も席に座った。

 馥郁としたコーヒーの香りが部屋に満ち、ほっと息をつかせてくれた。

「あれ?君、前はこっちに座ってなかった?」

 有が座ったのは、悠季の差し向かいの席。彼にそこに座られるのは抵抗がある。そこは圭の定位置だったのだから。

「やだなぁ。父さんの隣に座っていたのは僕がまだ幼児用の椅子を使って食事の面倒を見てもらっていた頃ですって。最後にここに来た時には、もうこっちに座っていましたよ」

「そうだったかな・・・・・」

 照れ隠しのようにこくりとコーヒーを一口飲んだ。コーヒーはうまく淹れてあって、とても美味しかった。きっと留学先で誰かにコーヒーの淹れ方を教わったのだろう。こんなふうに自分の知らない間に息子は様々な知識を蓄えていくのかと、悠季は不思議な気持ちがした。

「父さん、さっきこれを見つけましたよ」

 有が取り出したのは、カフスボタン。

「あれ?さっき二つとも拾ったつもりだったけど、落としちゃったのかな?拾ってくれてありがとう」

 これは圭とペアで持っていたもの。いつかの結婚記念日に『おそろいですよ』と言いながら嬉しそうに手渡してくれた。圭の分のカフスボタンはあの事故のときにして家を出ていたのだが、葬儀のとき以来どこにいったのか行方が分からない。

 悠季は急いでいたので二階までもって行くのをやめて、カフスボタンをなくさないにと音楽室の引き出しに納めた。

「そろそろフジミに出かける時間ですね」

 その声に悠季が時計を見てみると、そろそろ7時に差し掛かっていた。

「ああ、そうだね。そろそろ行こうか?」

「はい」

 バイオリンを取り上げ、二人で出かける。

「行ってきます、光一郎さん」

 悠季がいつものように玄関にある光一郎の肖像画に挨拶をすると、なぜか肖像画の中の彼が悠季に向かって物問いたげな表情をしているように見えた。