【10】
「ただいま」
「お帰りなさい!」
悠季が伊沢邸に戻ると、奥からぱたぱたとスリッパの走り寄ってくる気配がして、有の姿が現れた。
「お風呂が沸いてるけど、父さんは入りますか?」
「あ・・・・・どうしようかな。なんだかめんどうくさくなったなあ」
悠季はバイオリンをいつもの場所に置くとそのまま音楽室のソファーに座り込んだ。こきこきと首を回すとひどく肩が痛だるく感じた。
「肩が凝っているんですか?もんであげましょうか?」
「え?ああ、いや別にいいよ」
だが有は悠季の返事を待たずに肩を揉みほぐし始めた。
「凝ってますね。首も肩も背中も・・・・・。すごく張っているみたいで。スケジュールがきつすぎるんじゃないですか?」
「うーん・・・・・そうかなぁ。どうもこのところ左肩が痛かったからなぁ。気がつかないうちに疲れが溜まっているのかもしれないね」
「昔から根を詰めすぎる方でしたよね・・・・・」
悠季は丁度いい強さでもんでくれる有のマッサージに思わずため息をついた。
「今度出すCDはちょっと力を入れているものだから、それもあるかもしれないけどねぇ」
「バッハの無伴奏を全曲でしたね。録音はもう終ったのですか?」
「あと少しというところかな。我がままを言わせてもらって、もう一回スタジオに行って一部録りなおして、それで終わりになりそうだ。・・・・・ところで、有はいつまでこちらにいられるのかな?」
「学校からの許可をもらって、一週間の予定で来ています。父さんに心配をかけるつもりはありませんから、僕のことは気にしないで下さい」
「そんなに学校を休んでいいのかい?まあ、久しぶりに会えたんだからゆっくりできるのは嬉しいけどね」
「ええ」
有の話では向こうは今は休暇中だったそうで、都合がよかったのだと笑った。
「客室のベッドは自分で用意しました。父さんは疲れているんだから早く休んだ方がいいですよ」
そんな優しい言葉がかけられて、悠季の緊張が緩んでくる。どこかでまだ有に対して構えていた自分に気がついた。
「・・・・・うん、そうだね。ありがとう、有」
風呂に入ると、有は風呂上りにパジャマを用意してくれたりとまめまめしく世話を焼いてくれた。悠季は何も考えずにその世話に身をゆだね、すなおにベッドに入って寝てしまった。
夢の中で、悠季は圭がピアノを弾いているのをそばで眺めていた。
弾いている曲は亡くなる数日前に悠季のために作って、演奏会で競演したいと言っていた曲。そのとき悠季は『二月十一日』以来じゃないの?と笑いながら聞き入っていた。まだ未完成だったが、メロディラインがとても印象的で、完成した形を聴くのが楽しみだった。
しかしその曲は永遠に完成することはなく、楽譜自体も残っていない。圭はまだ曲全体のイメージが出来上がっていないと言って、楽譜に書き起こさなかったことを悠季は覚えている。
だが、夢の中では完成されたあの曲が奏でられ、悠季はうっとりとしながら聞きほれていた。
――これに君のバイオリンを乗せて完成ですよ。これは君のバイオリンがあって初めて完璧になるのですから――
ああ、そうだね。僕も君と協奏してみたかったよ・・・・・でも、これは夢なんだ。
悠季は眠ったままだったがふうっと夢から覚醒してきた。だが遠くどこかでかすかにピアノが鳴っているような気がしていた。
ああ僕はまだ夢を見ているんだな。もう一度あの夢に戻りたいと願ったけれどそれはかなわなくて、悠季の意識はまた眠りの底へと深く沈んでいった。
翌朝、目が覚めると階下からはコーヒーのいい匂いが漂ってきた。起き上がって顔を洗い着替えて階下に下りていくと、台所には有が立っていた。
「おはよう、よく眠れました?」
「ああ。ぐっすりだったよ」
有は留学先で覚えたのか、手際よくトーストやスクランブルエッグやサラダを用意してくれていた。
「冷蔵庫に材料はなかったんじゃないかい?」
「ええ。そこのコンビニに行ってきましたが、あそこは以前来たときとはずいぶん変わっていますね」
「そうだったかな?」
他愛ない会話がなんとも心地よかった。
「それで、有は今日はこれからどうするつもりなんだ?今日桐院の家に帰るつもりなら送っていくよ」
「父さん、僕はこのまま留学先に戻るまでここにいたいのですが・・・・・」
「それはまずいんじゃないのか?」
悠季は少々顔をしかめた。昨日の義父胤充との対話で有が銀行家にされそうになって対立しているというのは分かったが、だからと言って息子が祖父である胤充から避けるための逃げ道に悠季がなるのはまずいだろう。
確かに悠季は父親だが、養育権は小夜子にある。休暇中とはいえ、彼女に断らずにこのまま息子を預かるわけにもいかないのは分かっている。息子の将来について、おいおい小夜子と話し合わなければならないことも頭の隅に入れておかなければならないが。
「母さまにはさっき電話をしてちゃんと許可をもらってあります。疑うのなら桐院の家に電話してみたらどうですか?」
有はさっさと携帯を持ってくると桐院家にかけてから手渡してきた。数回の呼び出し音の後、出てきた向こうの声は確かに小夜子で、有の話を告げると、彼が伊沢邸に居たいと言っていることはもう聞いていると言った。
《お父様と有がこれ以上話し合いをしても、結局堂々巡りをするだけだと思いますの。しばらくはお互いそっとしておいた方がお父様も折れやすくなると思いますし。ええ、お父様がおっしゃっているのはただの意地でもあるのですわ。お腹の子が生まれてきたら有に対する態度も違ってくるでしょうし。・・・・・いえ、生まれてくる子が富士見銀行の跡をとるとかいう意味ではなくて、父にとってあきらめがついて有と和解しやすいと言うことですわ》
ほがらかな声で小夜子は言った。
「それなら、向こうに帰るまで有を預かりますよ」
《ええ、よろしくお願い致しますわね》
電話を切って有に方に向き直ると、彼は何やら複雑そうな顔をしていたのをさっと消して元どおりの平然とした顔に戻った。
「さて、それじゃ今日はどうする?どこか行きたいところでもあるのかい?父さんが案内するよ」
「でも、父さんは今日の予定があったでしょう?」
「うーん。一応福山先生のところにご挨拶をしに出かけて、それからCDの録りなおしと最終打ち合わせの予定だったんだけど、打ち合わせは他の日にしてもらっても構わないから、午後に・・・・・」
「父さんの予定を変更したりしないで下さい。父さんが忙しいのはよく知っています。邪魔をして迷惑をかけるつもりはないんです。僕は留守番をしていますから」
「いや、しかし・・・・・」
せっかく久しぶりに会えた息子を放り出して出かけてしまうのもどうかと思ったのだ。
「向こうから宿題を持ってきてるんです。ここでおとなしく片付けていますから」
「ああ、そうか。じゃ、夕方に電話を入れるから出てこないかい?久しぶりに夕食をご馳走するよ」
ほっとして今日の予定を立てると、悠季は出かける準備を始めた。
「うっかりしてた・・・・・。カフスを戻しておかないと」
引き出しにしまっておいたカフスの片方を取り出すと、二階のクローゼットへと運んでいった。