「お客さま、お散歩ですか?」
今朝のフロントマンは若くて気さくだった。
「ええ、紅葉が綺麗なようですからちょっと周りを見てこようかと思って」
いつもなら軽くジョギングをするのだが、今日はなんだかからだがだるいので散歩に切り替えることにした。
「それはよろしいですね。このあたりはちょうど見ごろのようですので」
今日乗って帰る予定電車にはまだかなりの時間の余裕がある。宅島はというと、昨夜興が乗るままに飲んでいたのでまだ起きてこられないらしい。
「紅葉を見にいらっしゃるのなら、裏にある高台に行かれると良い眺めですよ。ですが、今朝はあまり天気が良くないようですね」
フロントマンは心配そうに外を覗き込んだ。
「そうみたいですね」
悠季もつられて外を見てみると確かに外の雲行きはあまり良くないようだったが、まだ雨は降り出していないようだ。
「雨が降り出したらすぐ帰ってきますよ。それじゃ行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
にこやかにフロントマンは悠季を送り出した。
教えてくれた高台への道はすぐ分かった。やや急な道を登っていって15分ほどで展望台に到着した。
「わ・・・・・あ!」
開けた空間に広がる紅葉。すぐ下は川になるらしくてその岸辺ぞいの木々がちょうど見ごろを迎えていて、はるかかなたの山も綺麗に色づいている。紅葉が進んでいるということは、かなり気温が下がっていることでもある。特に太陽が隠れている今朝は、息が白くなるほどに空気が冷えていた。
「これで晴れていたらもっと綺麗だったろうなぁ」
悠季はため息をついた。雲は厚く垂れ込めていて、今にも降りそうな気配をしている。
が、その時だった。
空の一角が突然開けて、雲の間から幾筋もの光がまるで輝く柱のように差し込んできた。
神々しいような光景。
昔の宗教画の中に描かれているかのような景色が周囲に生まれ、そして悠季が目を見張っているうちにみるみる雲は閉じていき元通りの曇天に戻っていった。
「きれいだったねぇ、け・・・・・」
つい『圭』と呼びかけたくなるのは、彼が亡くなってからも続いていた癖だった。いつも返事が戻っては来ないことを知りつつ、つい口からこぼれだしてしまう言葉・・・・・。
だがもし今、悠季が望めば、一言望みさえすれば、彼からの返事はまた返ってくるのだ。
彼に告白された時自分はうろたえてしまって本当に考える事が出来なくなってしまっていたのだ。
――どうしよう?どうしよう?――
そればかりが頭の中に渦巻き、世間体やモラルやもろもろの雑事に惑わされて、考えるべき事を真剣に考えていなかった。
だが、悠季がこうして迷っている間にも、もしかしたら何かあって圭が消えてしまう可能性もあるのだということを、昨夜の悪夢は教えてくれた。そのときになって後悔しても何の役にも立たないことを。
あわててポケットを探り、中にあのカフスボタンがあることを確認した。指先にひやりと冷たい金属の感触を得て、ほっとした。
「・・・・・そうだよなぁ。彼がいて僕もここにいる。それだけが大事な事じゃないか。どうしてモラルや常識に囚われている必要があるんだろう?もしここで僕が圭を拒めば、彼をまた失うことになってしまう。もう一度、彼を失うことになったら・・・・・?」
悠季は昨夜のあの悪夢の終わりを思い出して身震いした。
「それに・・・・・」
悠季は無意識のうちに自分の胸もとを掴んでいた。
アメリカでコンサートがあったとき、悠季は倒れて病院に運ばれている。ごく普段どおりに歩いて、ホテルから出ようとした時のことだった。突然何の激しい運動をしていないのに激しく心臓が脈打ち始めた。それに驚いてしまいパニックになっているうちに気を失った。
過呼吸になっていたのだ、とは後で医者に聞いた。
『あなたはWPW症候群ではないかと思いますよ。突然脈拍が上がり、また元に戻るという症状を起こしているようですし、心電図を見てもそう思います。
これまでにも軽い発作は何度も起こしているのでしょう?普通はこれで死ぬことはないでしょうが、心臓に負担がかかりますし、まれに心室細動という死に至るような不整脈の発作が起こる可能性もあるのです。
予防薬もありますが、比較的簡単な手術で治療出来ますので、きちんとした専門医の診察を受けて治された方がいいですよ』
そう、医者は言って詳しい診察と治療を薦めてくれた。
悠季が前々から胃が痛いと思っていたのは、実は心臓の問題があったためだったらしい。
胃の方は別段トラブルを起こしていないことも教えてくれた。多少の胃潰瘍はあるにしても、重大なものではないと。
だが、悠季は日本で治療を受けると言って、医師の忠告を無視してそのまま退院してしまった。
そして・・・・・、何もしないまま今に至っている。
医者に言われた時、どこかでほっとしている自分があったことに・・・・・今は気づいている。
『これで圭のもとへ行くことが出来る』と。
自分は消極的な自殺をしようとしていたことに気がついた。・・・・・そう、ようやく。
ところが真実は、自分が圭のもとへ行くつもりで彼のもとを去ってしまう可能性があったのだ。
なんという皮肉だろうか?
「まずいよなぁ。こんな自虐的なことじゃ。きちんと治療して、そして・・・・・彼と正面からもう一度向き合ってみなきゃいけない」
そう、思った。
息子として生まれ変わってきた圭を受け入れられるかどうか。
今の気持ちは揺れ動いていているが、とにかくこのままここにすくんでいては自分にとっても彼にとっても良いことは何もない。
きちんと彼と話し合いたいと思った。
そうすれば、究極の二択ではなくて、何か他の解決策も出て来るのではないか?
あれこれと解決策を考えていたことで、何か気持ちが吹っ切れるのを感じた。東京に帰って彼に会うことが怖くなくなった。
「いったい僕は何を恐れていたんだろう?さあ、彼に会いに東京へ戻ろう!そして、新しく二人の関係を築かなくちゃいけないね」
悠季の足どりは軽くなり、展望台からホテルへの道を戻り始めた。
ポツリ・・・・・と、顔に触るものがある。
「あれ、雨・・・・・?」
悠季が空を見上げると、とうとう雨が降り出したらしく、次々に雨が手や顔に触れてくる。
「いけない。早く戻らないと」
急いでホテルへ戻ろうとした、そのときだった。
「あ、あっ・・・・・つうっ!」
突然、心臓が激しく脈打ち始めていた。ぎゅっと胸を押さえつけた。
「い、いけないっ!」
――落ち着け、落ち着くんだ!――
ゆっくりと歩いて、元来た道を・・・・・。
だが、急激な心臓の動きにパニックになってしまい、いつの間にか息が荒くなっていた。
手足がしびれて、ふらつく。その上、視野が暗くなって自分が気を失いかけていることに気がついた。かすむ目をはげまして、道の端にある手すりを必死で掴んだ。
「・・・・・死にたくない・・・・・!け、けいっ・・・・・!」
悠季はぎゅっとカフスボタンを握り締めた。だが手の中のものを感じることさえ難しくなっている。
「・・・・・け・・・・・い・・・・・。伝えなくちゃ・・・・・君と一緒に、また・・・・・」
悠季の意識はそこで途絶えた。
【17】