彼が出て行った後、悠季は呆然となってソファーに座り込んだままだった。しばらくして宅島がやって来た時もその場をまったく動いてはいなかった。
「どうしたんだい?何だか幽霊でも見たような顔だけど」
彼は冗談のつもりだったのだろうが、悠季にとっては笑い話にもならない。
「い、いや。ちょっとね」
「そうかい?ところで、コンサートのことだけど・・・・・」
宅島は悠季にコンサート会場までの電車のチケットを手渡すと、コンサートの概要説明をしてくれた。
N市主催のコンサートは、某国の災害に対する支援金を集めるためのチャリティ演奏会だった。
予定ではこの地方出身のバイオリニストが出演するはずだったが、リハーサルの直後腹痛を訴えてそのまま病院に直行することになったそうだった。病名は急性虫垂炎だったそうで、即刻手術となりコンサートには立てなくなった。
その上、代役の予定の人間もその数日前に風邪で倒れていて、体調が十分でないと申し出たために、舞台に立つ者がいなくなってしまったのだそうだ。
急遽事務局の方からSMEに話がいき、人気のある悠季の出演を必要としたのだという・・・・・。
悠季は彼の話の間も上の空のままで、説明を何度も聞き返すはめになった。
「ごめん。ちょっとその・・・・・ごたごたしてて・・・・・気が散ってるね。悪かった」
「いいけどね。そう言えば、息子さんは?こっちに来てるはずじゃなかった?」
「あ、ああ。有ならさっきまでいたんだけど桐院家戻らせたんだ。明日の朝は僕も出かけてしまうし、ここに子供を一人で留守番をさせるわけにはいかないからね」
「そうだったんだ。彼もずいぶん大きくなっているんだろうねぇ。小さい時に見たときは、伯父の桐ノ院圭とよく似ているなと思ってたから、今はもっと似ているんだろうなぁ。会えなくて残念だったなぁ。噂で聞いているけど、彼が指揮をしたいと思っているところなど、血は争えないって本当だね」
彼はもっと有のことを詳しく知りたいようだった。宅島氏の耳にも彼が指揮者を目指していて、かなりの才能を持っているらしいといううわさが入っているようだった。SMEとしては、早いうちにずば抜けた才能を確保しておきたい気持ちが強いのだろう。
昨日までの悠季だったら親ばか丸出しとばかりに、息子の自慢話をしていたことだろう。だが、真実を知ってしまった今となっては・・・・・。
悠季はみぞおちの辺りをぎゅっと掴んだ。
宅島は大雑把そうな態度や話し方とは裏腹に細かい気配りが出来る人間で、どうやら有と悠季との間になにやらトラブルが起こったことを察してくれたようだった。
雑談を切り上げ、要領よくさらに細かい明後日からの詳しい連絡事項と自分が半日遅れではあるがコンサートに付き人としていくことを伝えて腰を上げた。
「守村さん、来月のコンサートツアーを開始する前に、一度きちんと医者に見てもらうつもりはないかい?」
「えっ?そ、それはどういう・・・・・?」
手はまた無意識にシャツを掴む。
「この間アメリカでコンサートの後倒れたんだよね?そのときは俺はいなかったんで詳しい話を聞いていないんだが、付いていった人間の話によると過労が原因だろうという話で、きちんと専門医に診てもらったほうがいいという話だったよね?それ以来どうも守村さんの顔色が悪い気がして気になってはいたんだ。
過密なスケジュールを入れているのがSMEのせいだから今更言える筋ではないんだけどね。
この際きちんと医者に見てもらって、準備も体調も万全ということで次のコンサートに入って欲しいんだ。守村さんはこのところ多忙過ぎているだろう?」
その誠実な言葉。SMEのマネージャーとしてではなく、友人としての思いやりなのだろう。
悠季はおだやかに微笑んだ。
「ありがとう。そうだね、・・・・・明後日のコンサートが終った後にでも診てもらおうかなぁ」
「そのほうがいいよ。・・・・・ほら、その癖。それも気になってたからね。胃潰瘍がまた再発したんじゃないの?」
宅島は手をみぞおちに当ててみせた。
「バイオリニストは心臓にくるとも言うからね。からだには気をつけないと。じゃあ、そのあたりの日に人間ドックの予約を入れておくということにするけど、それでいいかい?」
「ええ。お願いします」
悠季は玄関先まで宅島を送り出すと、音楽室に戻り、どさりとソファーに座り込んだ。
思わずため息がこぼれた。
宅島と会話をしていても、ちょっとした瞬間にまた先ほどの有、いや圭の言葉がよみがえってきてしまうのがつらい。
どれほど愛し会いたいと請い願った相手でも、これはあまりにひどい運命だと思う。
頭の中が混乱して何をどう決めていいのかさえ分からない。
『考えておいて下さい。僕はもう選びました。
ですから悠季、あとは君の気持ち次第です』
そう言って出て行った、桐院有。いや、桐ノ院圭。
その囁きは悠季の耳元に毒を垂らし込んだかのように、じわじわと悠季の心を侵食していく。モラルと恋着との狭間で、悠季の心は揺れ動いていた。
圭が生きていて、だが、彼は自分の息子という形をとっているなど、論外なことだった。
今も圭を愛していることは確かでも、自分が世間体を気にするがちがちの常識派なのはよく分かっている。
自分をゲイだと認めるのにも何年かかったことだろう?その上、父と子とで性的な関係を結ぶ?そう考えただけで心が悲鳴を上げてしまう。
「どうしよう・・・・・どうしたらいいんだ・・・・・?」
なぜ今頃になって真実を言い出したのかと圭を恨みたくなる。
では、圭の依り代を壊すのか?圭をもう一度殺すことになってしまうのに?
それも自分のこの手で。
「圭、僕には選べそうにないよ・・・・・」
不安と葛藤に心をもみくちゃにされながら悠季はソファーに座り続け、いつしか窓の外には朝の光がうっすらと差し込み始めたのだった。
「お疲れ様でした!とてもいい出来でしたよ!!」
「ありがとうございます!」
S市のコンサートは大成功だった。
バイオリンを持っているときには、悠季は全ての雑事を忘れてしまう。特にこのときは自分からバイオリンとオーケストラ以外のものを切り捨てて、音楽以外のものは皆無の境地で弾いていた。
オーケストラと指揮者までが悠季の気迫に引き込まれていた。その神技とも言えるような演奏を、まるでどこか他人のように客観的に聴いている自分がいて、満足できる出来だった思えた。
鳴り止まない拍手とアンコールの叫びを背に何度も舞台に引っ張り出され、指揮者と握手をし、オーケストラに向かって礼をし、そして二度もアンコール演奏をして、再度挨拶に出たところで宅島が限界だと判断して悠季を控え室へと連れ戻した。
「やれやれ。すごい演奏だったなぁ。お疲れ様」
「・・・・・ああ、はあ。自分でもそう思うよ」
どさりと控え室のソファーに腰を下ろして、ため息をついた。
「珍しいね。君が自分から演奏が満足だったと言うなんて」
宅島がからかっていう言葉に悠季は小さく苦笑した。自分がなぜ忘我の境地で弾けたのかよく分かっていたからなのだが。
ただ単に、自分はバイオリンに逃避して、考えたくないことから目を背けていたのを知っていた。
一人の演奏家ではなく、守村悠季という個人に意識が戻っていくにつれ、じわじわと体が疲れを実感していき、それにつれて気分も重くなっていく。
「大丈夫かい?酸素でも持ってきたほうが?」
「ああ、いえ、大丈夫。ありがとう」
宅島からほどよい温かさの緑茶を受け取ると、一気に飲み干した。
「なんだか今日の守村さんは、何かに憑りつかれたかのような演奏をしていたね」
「憑りつかれた?」
「生前、桐ノ院が言っていたことがあったんですがね。守村悠季という人間は作曲者の意図するところを精確に再現することの出来る天才だ、と」
嬉しそうに言った宅島は、悠季がびくりと身をすくめたのには気がつかなかったらしい。
「たから、今回憑りついたのはブラームス先生かな」
そう言って屈託なく笑った。
「・・・・・もしかして、こっちに有が来てる?」
「有くん?いや、僕のところには連絡はなかったな。来ていないと思うけど」
「・・・・・そう」
「来る予定だったの?」
「いえ、もしかしたら、と思っただけだから」
宅島はそれ以上は聞かなかった。この間のことと言葉を濁す様子から悠季が何か親子としての葛藤を持っているらしいと察したようで、それ以上は口をつぐんだ。
「ところで、守村さんのこの後の予定ですが・・・・・。人間ドックをT病院に予約して、明後日の午前中で取れているんだ。でたから明日は東京に戻ってもらう予定なんだけど」
「分かった。では、このまま電車に乗って・・・・・」
「ちょっと待った。もう東京に戻る電車はないはずだ。こんなに疲れてよれよれの人間を電車に乗せて東京に連れ帰るなんて非情なことは出来ないって。
ホテルできちんと休養をとって、明日戻ってくれないと。そのつもりでホテルを予約してあるし、電車の予約も明日の午後になっているんだ。少し余裕を持たないとね」
「・・・・・ああ、すみません」
宅島に余裕がないとたしなめられて、悠季は自分がどれほど張り詰めているのかに改めて気がついて、赤面した。
その夜、ゆっくりと温泉に入り、ホテルの自慢料理だという山の珍味に舌鼓を打った。宅島が付き合ってくれて、いろいろな話題を酒の肴として楽しんだ。
「ねえ宅島くん。ちょっと聞いてみたかったんだけど、いいかな?」
悠季は杯を伏せると、宅島に尋ねかけた。
【15】