圭はそこまで思い出して思わず深くため息をついた。
「お客さん、もうすぐ成城ですが・・・・・?」
「ああ、それでは駅から・・・・・」
タクシーの運転手に道順を説明しながら、圭は更に祖父(今は曽祖父)との会話を思い出していた。
まだまだお元気だった曽祖父の桐院尭宗が、その年ふとした風邪をこじらせて寝付いてしまった。病院に入院し手厚い看護を受けていたが、もう既に年は年であるし病に打ち勝つだけの力は曽祖父のからだに残っていないらしかった。
――もう長くはないだろう――
桐院家に見舞いに来る人たちの口からそんなささやきが聞こえてくる。
有(圭)は孫である自分が生まれ変わっていることを曽祖父に知らせることもなく、喪ってしまいそうなことはひどくせつなかった。
有の祖父(つまり圭にとって父)の桐院胤充は、孫である有を甘やかせるだけ甘やかせてくれるようなかわいがり方をしてくれているし、祖母(桐院燦子)にも甘えるまでは出来なくても心をほどいて話せるようになっていた。『圭』にとっては考えられなかったような暖かさの中で、『有』は育っていた。
それでも、桐ノ院圭としても桐院有としても、尭宗は彼の音楽の最もよき理解者であり、敬愛すべき一番の肉親だった。
「有様、御前様がお話をなさりたいそうです」
伊沢が圭を呼びにきた。
彼の顔はやつれて青白く強張っていて、その表情を見ているだけで曽祖父の容態が楽観できるものではないということを知った。
「分かりました。すぐ伺います」
このとき有は中学生になろうとしている時期だった。背は圭だった時の記憶と同じように伸びていて、既にこのときにはもう170cmを越えていた。彼を知らないものにとっては高校生以上に見えていたはずだ。
有は伊沢の運転する車で病院に向かった。曽祖父は何を話したいというのだろうか?
「お前は、『圭』だな?」
尭宗は有が部屋に入るなり、そう言った。
それは嘘もためらいも出る暇が無いような絶妙なタイミングで切り出された。
それまで彼は真実を言うつもりでは無かった。信じられないようなことを口にしても、夢を見ているだけだと切り捨てられるのがオチなのだから。だが、死に直面している敬愛すべきこの人物に対して、嘘を言うことなど出来るだろうか?有は、尭宗と誠実に向かい合いたかった。
「・・・・・はい。圭です」
彼がそう言うと、尭宗は深いため息をついた。どうやら彼にはことの真実について推測がついているらしかった。
「光一郎のせいか」
「光一郎氏のおかげです」
そう答えると尭宗はじろりと圭を睨んだ。
「小夜子はこのことを知っているのか?」
「分かりません。ですが彼女も桐院の家に連なるものですから、うすうすは察しているのかもしれません。そうでなければ僕の名前を『有』と名づけたりはしなかったでしょう」
「ふむ。『有』とは『圭』と字画が同じであり、その姓名判断もほぼ同じものになる。そして『有』という字には【存在する】という意味がある。なるほど。・・・・・あれはおそらく知っておるのだろうな」
「・・・・・はい」
「するとお前の依り代を確保したのも小夜子か?」
「小夜子にそのつもりはなかったのでしょうが、結果としてそういうことになったのでしょう。あのカフスボタンを僕の形見として伊沢邸に持って行ったのは、本当に悠季を慰めるだけのつもりだったようですから」
そう。小夜子があの日 圭の血のついたカフスボタンを圭の形見として伊沢邸に持って行ったから、そしてそこで悠季の悲嘆にくれる姿を目にしたから。そして、その後・・・・・。
圭は安堵と嫉妬の入り混じる苦い思いをまた噛み潰した。
「・・・・・水月だな」
尭宗が言った。
「は?」
彼は何を言いたいのだろう?
「水に映る月だ。たとえどんなに美しくて気に入ったとしても触れることさえ出来ず見つめることしか出来ぬものだ。
・・・・・お前は守村くんのことをどうするつもりなのだ?」
やはり尭宗の不安はこのことだったのだろう。
「自分が生きていることを彼に言うつもりではないだろうな?自分の恣意のままに彼を振り回すのはやめておけ。彼が桐院家の秘密を知った時、受け入れてくれるかどうか分からないことだぞ。いや、むしろ拒絶されるのが当然のことだろう」
尭宗は強い光を浮かべる目で睨みつけてきた。
「僕は『圭』が生まれ変わっていることを悠季に言うつもりはありません。このまま父親と息子の間柄でいられればいい。彼の姿を見られるだけで本望だと思っています」
「本当にそうか?」
はい、というつもりだった。心の底からそのつもりだったのだから。
だが、曽祖父である尭宗の目を見つめているうちに、圭はどこかで心の迷いが起きていたのに気がついた。生きていると知らせたいと願っている自分がいることを。
ためらっている圭を見つめていた尭宗は苦笑した。
「まあ、今はいい。今はまだお前の肉体は未成熟な子供のものだからな。だが、やがて第二次性長期を迎え、生き物としての本能がめざめた時には心は変わるものだ。どうなるか分からないぞ。それをよく覚えておくのだな」
「・・・・・はい」
「もしお前が彼に無理強いをして、元のような恋人同士に戻ろうと思えば、彼に対して共に畜生道に堕ちる事を強いねばならんぞ。分かっているだろうな」
「はい。分かっています」
圭は素直にうなずいた。
これまでの人生の中で大きな嵐を経験してきた彼にとって、圭の迷いは当然のように分かりやすいことなのだろう。それに引き比べて、圭は真実の苦さについて何もわかってはいなかったのだ。
圭の返事を聞くと、そのまま尭宗は疲れたように目をつぶってしまい、眠ったのか何も言わなくなった。圭は会釈をするとそのまま黙って病室を出た。
そして、曽祖父はそのまま容態を悪化させて、数日後に他界した。
伊沢は桐院の家族全員から残ってくれるように懇願されたのだが、それを振り切って桐院家を去っていった。
今、圭は自分に問う。
僕は曽祖父の言ったことを肝に銘じていたはずではなかったのか?
だが、僕のやったことといえば・・・・・。悠季にとってみれば、苦しませることばかりだったではないか?
圭は自嘲した。
あの晩のことを後悔などしていないが、どうしてあの夜のことを彼に気付かせるようなまねをしてしまったのか? なぜ故意に跡を残した?
勘の鋭い悠季のことだからきっと気がついているに違いない、と思う。
鎖骨のくぼみに口づけて、つけてしまった小さなキスマーク。そしてシーツの下に残していったコンドームの袋の小さな破片。
――堪え性がないのは、どうやら死んでも直らなかったものらしい。圭として生きていた間も有として生きている今も、僕は『ベベ』のままらしい。――
そう思うと、幾らでもため息が出るというものだ。
「・・・・・お客さん、着きましたよ。ここですね?」
ちょうどタイミングもよく桐院の屋敷に到着し、圭はタクシーを降りた。
これからのことをじっくりと考えなければと思いながら。
【14】