ついに言ってしまった!

 ため息がこぼれ落ちた。

 圭は伊沢邸を出ると、足は急ぎ足となり自然と駅の方へと向いた。胸の中は自分の言ったことの後悔が渦巻いていた。

言うべきではなかった。少なくともあのタイミングで言うのは早すぎたのではないか。圭は自分の性急さに歯噛みした。

先ほど悠季への不安が胸につのって、ついあせりすぎた。彼がショックを受けることは充分承知していたのに、もっと柔らかい表現で告げることも出来たのではないのか? そう思う。

だが悠季が愕然とした顔をして真っ青になっているのを見ていて、彼が聞きたくない事を言い出すのではないかと不安に駆られてしまったのだ。

『もうやめよう。もう終ったのだから、忘れてしまおう。これからは桐院有と守村悠季として、父と子として生きていけばいいじゃないか?』

 そんな言葉を言い出すのではないかと。

 この恋を断ち切り、二人の関係に終止符を打つことを言い出すかもしれないことは、彼の性格なら考えられることだった。
当然だ。モラリストの彼を追い詰めるような酷いことをしてしまったのだから。

だが、圭は悠季の口から絶望的な言葉を聞くのが怖くなって、それ以上その場にいたたまれずに、彼を置き去りにして逃げ出してしまった。

 ・・・・・なんということをしてしまったのか!

 圭の頭の中には自分をののしる言葉が続いていった。

 今度彼と再会出来るのは何時になるのだろうか。もしかしたら、もう『圭』としては会えないかもしれなかった。だが、言ってしまった以上結果がどう転ぶか圭に選択権はなく、あとは俎板の鯉となって悠季の決断を待つだけだった。

 圭はふと足を止めて伊沢邸の方を振り返り、桐ノ院圭としてはこれが見納めになるかもしれない場所を見つめた。ぐっと胸の奥に熱いものがこみ上げてくる。

 ・・・・・泣いて・・・・・どうするというのだ!

「悠季。どうかまた僕の手を取ってください!」

 圭は顔を背けるとまた足早に歩き出し、駅前でタクシーを拾うと運転手に「成城へ」、と告げた。

 帰宅の足に電車を使い、不特定多数の人の顔に向かい合う勇気はなかった。もし自分が電車の中で泣き出しでもしたら・・・・・。
それはプライドが許さなかった。

 タクシーが動き出し、富士見川を越えてこの地を離れた。圭は川面を見ているうちに、あの暗い川の岸辺へと続く記憶をたどっていった・・・・・。

 


――
圭様、起きて下さい。起きて!――

〈なんですか?僕は眠い。このまま眠らせてくれませんかね〉

――
このまま眠ってしまうと、もうあちらに戻ることが出来ませんよ。それでも構わないのですかか?――

〈戻る、ですか?〉

――
ええ。あなたがどうなったか思い出されませんか?――

〈・・・・・どうなって・・・・・?〉

 そして圭は思い出した。フロントガラスに大きく広がってくるトラックの姿を見、まるでスローモーションのようにフロントガラスが砕けていき、自分のからだに金属の塊が食い込んでくるのを見ていたことを。あまりに突然のことで、まるで映画でも見ているかのように他人事のように思えていた。

〈もしかして・・・・・僕は死んだのですか?〉


――
ええ、そうです――

〈しかし、僕はここに存在しているが〉

――
ここは忘却の川を渡っていく人たちが船を待っているところです。三途の川と言った方が分かりやすいかもしれませんが――

〈・・・・・三途の川とは!嫌だ!それは嫌だ!僕はあの世になど行きたくない!悠季を残して逝くことなど出来るものか!〉

ぎりっと歯をくいしばりこぶしを握り締めた。

〈・・・・・こぶし?〉

 下を見ると、見慣れた自分のからだがちゃんとある。着ている服も記憶にあるものだ。


――
今のあなたが持っていると思っているものは、イメージでしかありません。生前に持っていた自分のイメージです。ですが、川を渡ればそのイメージも忘れはて、今までの記憶も消え去り、まっさらな新しい人間として生まれ変わるわけです ――

〈忘れることなどと!悠季を忘れ去ることなど出来るはずがないではありませんか!?光一郎氏、何とかして僕を生き返らせる方法はありませんか?僕はこのまま死にたくない!〉


――
あなたの肉体は葬式を済ませ、火葬に付されています。もう灰しか残っていないのですよ。戻ることは既に出来ないのです――

 思わずうめいていた。

〈それでは僕はもう悠季の元に帰ることは出来ないのですか?僕は戻りたい!悠季のところに戻りたい!!〉


――・・・・・
方法がないわけではありません。かなり無謀な方法ですが・・・・・――

〈どんな方法でも構いません!どんな姿になろうと、悠季のそばにいられるならそれで本望です!〉

――
もし出来なかったらあなたは私と同じように何時までもこの中宇を彷徨う『モノ』になってしまいますよ?転生することも出来ず、永遠にここにとどまっているしかない・・・・・――

 
僕はふと我に帰って周囲を見渡した。そこは音もなく流れる黒い川のほとりで、川は向こう岸がおぼろな霧に隠れて見えない。

〈光一郎氏?〉


――
はい、何でしょうか?――

〈あなたはどこにいるのですか?あなたもイメージとしての姿は持っておられるはず。それなのになぜ姿が見えないのですか?〉

 圭の目の前にゆらゆらとぼやけた影が現れた。その姿は額絵と同じ伊沢光一郎氏本人だと分かったが、はっきりとした姿になったとたんにまた揺らいで朧な影となった。


――・・・・・
これが失敗した時に支払う代償なのです。時が経つにつれ自分のイメージは擦り切れ、記憶はあいまいになっていきます。私はもう自分の生前の姿をとることがほとんど出来なくなっています。やがて伊沢光一郎だったという記憶も失せてただ永遠に浮遊するモノになり果ててしまうのでしょう。

 あなたも失敗すれば私と同じ運命をたどることになります。肉体は記憶を保存し、存在を確実にし魂を封じる器です。新しく生まれなおすための肉体を持つことが出来れば魂は定着できます。しかし出来なかった私は、ここで永遠に彷徨い続けているのです。

圭様、あなたにそのお覚悟はおありになりですか?――

 圭はためらわず、『諾』と答えた。

万に一つの望みがあるのなら、それに掛けてみるしかないではないか?


――
では、その川に身を沈めて下さい。渡し守を待てなかった者は向こう岸にはいけないのです。そして・・・・・四十九日の間に例えごく僅かでもあなたと血のつながりのある血筋の誰かに胎児が出来れば、新しい魂が入る前にそのからだに入り込むことが出来るのです。

そして十月十日の後、あなたは生前の記憶を持ったままの赤ん坊として生き返ることが出来ます。ですが、四十九日の間にもし胎児が現れなかった場合は・・・・・私と同じことになりますよ。それでも構いませんか?
――

彼は宗と再会したいがためにその決意をしたのだろう。願いはかなわず、結果ここに今も居続けることになっている。

だが、圭の思いも同じだった。悠季に会うためにならどんな犠牲も払うだろう。たとえ失敗して永遠に彷徨うモノ成り果てる運命を受けることになるとしても。

圭は川に入ることでその決心のほどを示した。水は凍るように冷たかった。しかし突如感覚は逆転し、燃えるように熱くなり彼の肉体を焼き尽くすような激しい痛みが襲ってきた。

圭は絶叫した。のどが切れ、血がほとばしるくらいに。

 しかし、絶叫したはずなのに、その声は彼の耳には聞こえては来なかった。そして気がついてみると、圭のからだは水の底に深く深く沈んでいき、その深い水の底にゆらゆらと映るなつかしい光景が見えた。


悠季!

 その光景は伊沢邸の中の見慣れた音楽室の中にたたずむ悠季の姿だった。ぼろぼろと声もなく泣いている彼。自分が泣いていることにさえ気がつかないでいるようだった。

〈泣かないでください。僕はここにいます〉

 だが圭の手は彼のからだをすり抜けてしまい、悠季が彼に気がつくことはなかった。

 不意に悠季のからだに抱きつき、ぎゅっと抱きしめてくる人間がいた。

〈小夜子ではないか!?僕の悠季になにをする!!〉

「お泣きになればよろしいのよ。貴方にはその権利がありますもの。ここではあの兄をなじって気の済むまでお泣きになればよろしいわ。あれからずっと我慢されていたのですものね」

 小夜子は聞いたことのないようなやさしい声と誠実な言葉で悠季を慰めていた。

「・・・・・小夜子さん・・・・・!」

 悠季は震える腕で小夜子を抱き返した。まるで溺れるものが必死ですがっているかのように。

 そして・・・・・!

〈やめろ!やめてくれ!〉

圭の叫びは届かない。

小夜子と悠季が!?そんな、そんなことが・・・・・!


――
圭様。さあ今です!――

 突然、圭は背中を強く突き飛ばされた。

その力は抗うことも出来ないほど強く、彼はまるで自分が濁流の中に飲み込まれたかのようにぐいぐいと流されていくかのような気分を感じながら、悠季と小夜子の抱き合っているそばへと漂い流されていった。

 なんとか彼らから身を逸らせようともがいてみたが、自分のからだが思うように動かない!

 圭の後ろで光一郎氏がなにやらつぶやくように唱えているのが聞こえたが、それがどこの言葉でどんなことを言っているのか数ヶ国語を話せる彼にもわからなかった。


 そして、その後の記憶は・・・・・。

【13】