「弾くのをやめなさい!」

 悠季は怒鳴った。

目もくらむような怒りと悲しみとが腹の底からこみ上げてくる。

「これは君の作った曲ではないだろう?いったいどこでこの曲の楽譜を見たんだ!?」

「楽譜を見ておいて弾いたわけではありません。これは僕が作った曲ですよ」

 悠季の怒鳴る姿を見ても有は驚かなかった。

「そんなはずはない!これは圭が作った曲だ!覚えているんだ。そのフレーズを僕に聞かせてくれたから間違いない。これは圭が死ぬ直前に僕にプレゼントするつもりだと言っていたものだ。まだ未完成だったけど、僕の誕生日には・・・・・」

 そこまで言って、悠季はのどの奥に熱いかたまりがこみ上げてくるのを感じて口を押さえた。ひどく心が動揺して取り乱している自分にうろたえた。

 自分は父親なのに。いくら圭に似ていても自分の息子の前なのに!

「悠季の誕生日にコンチェルトの形にしてプレゼントするはずの曲でしたね」

「・・・・・どうしてそれを・・・・・?」

「まだ気がつきませんか?」

 有はゆっくりとピアノの前から立ち上がり、悠季の前へと歩みを進めた。

「あの日、僕は君と違う仕事に出かけていた。次の日からの休暇では一緒に旅行に行こうと計画をして、楽しみにしていたにもかかわらず、それを果たせなかった。休暇の間に楽譜に書き上げるつもりだったので、まだ紙に書き起こしてはいなかった。それで今書き留めておくことにしたのです。今度こそ悠季に渡すためにね」

 有はうっそりと悲しげに笑っていて、その表情は昔同じように微笑んでいた人間をはっきりと思い出させた。

「・・・・・う・・・・・そ・・・・・だろう?」

「僕は君が気づいてくれるのをずっと待っていたのですよ」

「・・・・・君は・・・・・圭だとでも言うつもりなのか?圭の生まれ変わりだと!?そんなばかなことがあるわけないじゃないか!」

「ですが、真実はそのとおりですよ」

 
あまりに静かな口調は、彼の言葉が冗談や悪戯ではないことを教えてくれる。

「僕だって生まれ変わりになるなど信じられなかった。それも君の息子になどね。しかし、事実は事実だ」

 ひょいと肩をすくめてみせた。

「有、いいかげんにして、もうふざけるのはやめなさい!」

「ふざけてなどいませんよ。僕は確かに桐ノ院圭だという記憶を持っている。その記憶が間違ったものでないことは幾らでも証明できます。

何を言ってみましょうか?初めて君のバイオリンを川原で聞いたときの曲を並べてみましょうか?君と結婚式をあげたのが何時どこでだったか、何を君のご両親の墓前で言ったのか言ってみますか?まだまだありますよ。君と初めて関係したときのことはどうです?僕があのマンションで、君を強姦したときのことを言いましょうか?タンホイザーを共犯に使って、それから・・・・・」

 ばしんと有の頬が鳴った。

「いいかげんにしろ!そんなことを君の口からは聞きたくない!君は・・・・・君は僕の息子なんだよ!?」

 口を切ったのか、有の、いや圭だと言い張っている彼の唇には血が滲んでいたが、それに構わず静かに悠季の目を覗き込んだ。

「ですが、本当のことです。どんなに言いつくろっても真実は変わるものではない」

 その静かな視線。それは十代の少年が持つようなものではなく、人生の年輪を感じさせるような成熟し老成した者だけがもつものだった。

「僕が死ぬ時は君を連れて行く。君が死ぬ時は僕も一緒だ。そう言っていたにもかかわらず僕は一人君を残して逝くことになってしまった。僕はそれがくやしかった。だが、気がついたときには僕の肉体は既に焼却され、僅かな残骸が残るだけになってしまった。この世に舞い戻るすべは無いように思えたのですよ・・・・・」

 悠季は声も出ずただ首を横に振って、後ずさりしていった。

「自分でもどうやって生き返ったか、くわしくは分かりません。ただ、光一郎氏がいまだこの家に留まっていられることと無縁ではないらしいです。桐院家は遥か平安時代から続く旧家です。古くから伝わる秘儀が幾つもあった。いや、現在も存在すると聞いたことがあります。それを僕が自らの身で証明することになるとは思わなかったのですが、どうやら無意識のうちに使うことになったらしいですね」

 悠季は、『有』いやもう心の中で目の前にいる人間が、息子の有ではなく音楽のパートナーであり最愛の恋人だった『圭』なのだと信じてしまいかけている。いや、確信していた、彼だと。だからといって、認められることだろうか?

「僕はまるで水の底に沈んでいるかのように忘却の川レテの深く暗く冷たい底に沈んでいった。僕一人では戻るすべはなく、どうしようもなかった。その僕を掬い上げてくれたのは光一郎氏の力と君の助力だったのです。

 僕が君がいるこの世界に戻るためには僕の魂の憑り代と新しい肉体が必要でした。それも僕と血縁がある肉体が。君はここで小夜子と・・・・・」

「やめろ!やめてくれ!」

 悠季は耳をふさぐとかすれた声で叫び、必死で否定した。

「・・・・・そう。やむをえないこととはいえ、僕にとっても苦しい出来事でしたね。君が他の女性と結ばれるということは。でも、おかげで僕はこうしてまた君のそばにいることが出来た。君の腕に抱かれ、君に無条件で甘えることが出来ましたからね。君の息子として甘えられたのはとても嬉しかったですよ。
 もう『桐ノ院圭』という人間はこの世に存在しない。だから、せめて君の姿を見て声を聞き、君に触れられるだけで充分だと自分に言い聞かせていた。

 もし、君が母さま いえ、小夜子と別れた後に誰か他に愛する人が現れて、今度こそその女性と幸せな結婚をすることになっても僕は笑顔で心からの祝福が贈れるつもりでいましたよ。・・・・・たぶん、ね。君の幸福が僕の幸せであるべきだから。今度こそ自分で立てた誓いを一生守りきるつもりでいたのです」

「・・・・・ではどうして今頃になって僕に言ったんだ!?君が僕の息子として生まれ変わったことを、納得して受け入れていたのなら、僕に話すことはなかったじゃないか!・・・・・あの夜のことは・・・・・あの・・・・・ああっ!!」

 悠季はあわてて自分の口を押さえた。あることに気がついて叫びだしそうだった。
 あの夜、自分の身に残っていたキスマーク。そして残されていた小さな袋の残骸。では夢の中であの圭に抱かれているつもりになって、すがりついてよがり泣き快感に夢中になっていた相手の肉体からだとは、息子のものだったのというのか!?

「僕がなぜ今になって告白したか分かりますか?」

「・・・・・え?」

「君をこの世に縛り付けておくはずの鎖が次々に外れていくのを知って危機感を覚えたのですよ。君は僕が死んだ後、何度か自殺しようと試みたことがありましたね?」

 悠季は気まずそうに目をそらした。

「・・・・・そんな気になったこともないわけじゃないけど。でもすぐにそんな気はうせたよ」
「ええ。小夜子やフジミの諸君、それに周囲の人たちが気をつけてくれていましたからね。それに光一郎氏も蔭ながら君を見守って下さっていた。

君がかろうじて衝動を抑えられたのはこの世のしがらみがいくつもあったからでしたね。結婚することになった小夜子への罪悪感。子供として生まれた僕への愛情。そしてフジミへの愛着やバイオリニストとしての野心が君をこの世に繋ぎとめていた。

だがこのところ、そのしがらみが一つずつ解けているでしょう?小夜子は新たな結婚を決めて幸福な結婚生活を手に入れることが出来たらしいし、フジミは次々に新しいメンバーが入ってきて悠季がいなくてもこのまま発展しつつ続いていくだろうことは明らかだ。息子である僕も成長してもう手を握って守らなくてはならない幼い子供ではないことに気がついた。

その上、バイオリニストとして以前から念願だったバッハの無伴奏全曲のCDも完成した。先ほど聴いたかぎりでは白眉というべき素晴らしい出来でしたね。バッハの真髄を弾きこなしていると思いました。

そして、あのCDの出来を君は、思い残すことはない出来だ と言った」

 悠季は圭からの厳しい視線に目を伏せた。

「日本に来る直前、小夜子からの電話で聞いた君はとても危なく思えたのですよ。このまま僕が生まれ変わって存在していることを知らせなければ、君は意識しているとしていないとにかかわらず、あの世との境に足をかけてしまうのではないかと思えました。僕の後を追って、です」

「そんなことはしない!」

「言い切れますか?」

 ぐっと悠季は言葉に詰まった。小夜子や石田にも言っていないことがあるのを思い出したのだ。無意識のうちに手が胸を押さえ、目を閉じぎゅっとシャツを握り締めた。

「話を聞いて僕は耐えられなくなってきたのです。ですから、僕はもう黙っていることをやめることにしました。僕は君が欲しい!もう一度あの頃のように君と愛し合って一緒に暮らして生きて行きたい!たとえそれが神にそむくことであり、インモラルだと人に石を投げられようと、君を放そうとは思わない」

 そのきっぱりと言い切る毅さ。

「悠季、僕の肉体がまだ幼い子供で思春期に入る前なら、君の庇護の下で、温かな肉親としての触れ合いだけで満足できました。しかし、去年あたりから僕の身長が急激に伸びて次々に思春期独特の変化が僕の肉体に訪れてくると共に自分で自分をコントロールすることが難しくなってきた。凶暴なほどの肉体の飢えを感じ始めているのです。

 去年突然留学を決めて海外へと行ったのは、僕は君を無理やりにでも襲ってしまいそうな自分が怖くなって・・・・・留学という形で逃げたんですよ」

 疲れたように嗤う彼。震えて硬直したまま動けなくなった悠季はゆっくりと手を伸ばし抱き包んでくる有、いや、圭のからだを突き放すことは出来なかった。

「ぼくはもう逃げません。ですが、君に僕と同じ考えを持てとは言えないことはよく分かっています。君はゲイである自分を認めるのもつらかった人だ。男同士で愛し合うよりもつらい決断を強いることになる。たとえ魂は恋人同士のままであっても、肉体は『父』と『息子』になってしまうのですから。ですから、よく考えて
君が決めてください」

 圭は抱いていた腕を解き、悠季の冷たい手を取ってその掌の上にあのカフスボタンの片方を乗せた。

「これこそが僕の憑り代です。これがあったからこそ僕はこの世に舞い戻ることが出来た。だから、これを壊せば桐ノ院圭という存在はここから消滅します。

消えれば桐ノ院圭として振舞った記憶は全て消えうせ、桐院有という君の息子としての僕の記憶しか残らないし、君を煩わせることもなくなります。桐ノ院圭が生まれ変わっていたという事実は全て消去されるのです。

ですが、もし僕をまた受け入れてくれるのでしたら、これを大切に保管して置いて下さい。その決断を君にゆだねます。どちらを選んでも僕は黙って従いましょう」

「・・・・・なんでこの前僕に渡したんだ?あの時には僕は何も知らなかった。捨てるか壊すかしたかもしれなかったのに・・・・・?」

「あの満月の夜のせいですよ。僕は悠季に謝罪しなくてはならない。君が苦しむということは分かっていたのに。君が知れば必ず苦しむことは重々承知していたのに」

 苦しそうに圭は言った。

「・・・・・それなのに、あの夜、僕は君を抱いた」

 悠季はその言葉を聞いて、びくんと身をすくめた。

「その罪は僕が一人一生背負っていくつもりでした。一生告白するつもりはなく、君に本当は僕が誰か知らせず父と息子というごく普通な関係のままでいるつもりでした。

僕はあの一晩の記憶を唯一つの心のよすがにするつもりだったのです」

 圭は肩をすくめて、ひどい男です。とつぶやいた。

「しかし、それでは僕の罪が消えることはありません。僕は自分の非道さを断罪するつもりで、『魂の緒』というべき憑り代を君に渡したのです。君が僕のたましいを捨てるか壊せば『桐ノ院圭』という幽霊はこの世から完全に消滅します。それが僕の罪に対する君の判決となりますからね。それはそれで僕の懊悩が消える良い道に思えました。

しかし、君がこれをずっと大切にもっていてくれるのなら、僕をいまだに忘れず追憶の中で大切にしてもらえることが分かります。その時僕は許されるのだと信じました。

何も知らない君にその選択をゆだねるつもりになったのです。どちらでも運命の決断に任せようと思ったのです。たとえ、僕の真実を悠季が知らずに行ったとしても、それは僕の望んだ断罪になるのですから」

 ゆっくりと圭は腕を広げ、まるで翼を広げるかのように悠季を包み込んだ。

「どうかまた『圭』を選んでください。昔と同じように愛し合い、連理の枝のように今度こそ二人とも年寄りになるまで仲むつまじく暮らしていけることを心から願っていますよ。悠季」

 
そう言うと、圭はそっとついばむようなキスを一つして、そのまま伊沢邸を出て行った。

 後に残された悠季は、死者の国の王妃ペルセポネーから与えられたような冷たいキスに身を震わせて立ちすくんだ。

 彼からのキスは、苦くて甘い味がした。

 きっとこれは『罪』の甘さなのだろうと、悠季は思った。

【12】