【11】

 






悠季は二階の寝室にあるクローゼットに行き、忘れていたカフスの片割れをしまおうと引き出しを開けた。そして・・・・・、

手が止まった。

そこには既に1対のカフスが置かれていた。

――では、手に持っているこのカフスはいったい何なのか?――

「有!ちょっと聞きたいんだけど!」

 あわてて階段を駆け下りていくと、息子の目の前にカフスを突き出した。

「有、これはいったい何なんだ?」

「父さんのものでしょう?」

 有は朝食に使った食器を片付けながら、平然とした様子で答えた。

「違う!父さんの分は二階にそろっていたよ。これはどこにあったんだ!?」

「そのカフスでしたら、あそこにありましたよ」

 有が指差したのは音楽室だった。

「どこにあったって?」

 有は音楽室の中に入るとソファーセットの奥の作り付けの棚の引き出しを開けた。

 これはもともと伊沢邸にあった引き出しだった。ここに引っ越してきた時、圭はこの部屋を全面的に改造していたのだが、この壁際の棚にはまったく手をつけていなかった。

「ここに入っていました」

「床に転がっていたのではなかったのかい?」

「僕は、見つけた、と言ったんです」

 そこは普段あまり開けない引き出しで、奥のほうに見慣れない小さな箱が入っていた。箱は長い年月にさらされていたらしく、いかにも古びて見えた。

「どうしてこんなところにこれが・・・・・?」

 謎は更に深まった。

「大掃除をするときにはここもきちんと整理していたけど、こんなものは一度も見かけたことはなかったのに・・・・・」

 引き出しの中に、この小箱が入っていたという記憶がない。だがよく見ると引き出しの奥の板はやや薄くなっており、うまく両側の板にホゾをつけてあって、あの小箱がはめ込むことが出来るようになっていた。

 腕のよい職人が工夫したらしい昔風の手の込んだ貴重品入れだったのだ。今はホゾから取り外していたので分かったが、はめ込んであれば完璧に隠されていた。

 だから今まで悠季が掃除をしていても気がつかなかったのだ。

 そうすると、それを発見した有は・・・・・?

「・・・・・よく見つけたものだね。普通こんなところにあるものには気がつかないだろう?」

「まあ、そうかもしれませんね。ですが、それがどうしてこの中にあったのかという理由の方に気がついて欲しいのですが」

「どういう意味だい?」

「言ったとおりですよ」

 有はそう言うとさっさと音楽室を出て行ってしまった。

 悠季は何か気づいていない重大なことが目の前に起こってくるような予感がした。一瞬背筋にひやりと冷たいものが走るのを感じて、思わず自分の肩を抱きしめていた。

 

 

 悠季は福山元教授のところへと挨拶に出かけていった。福山は既に大学を退官しているが、その教育法を慕うものは多く、自宅でのレッスンを受けようとするものが数知れない。悠季のように世界的に活躍している弟子がいるということも福山の人気を増しているのかもしれなかった。

 年はとってはいてもいささかも性格が丸くなったとはいえず、いまだに緊張させられる先生への挨拶をすませると、悠季はそのまま録音スタジオに出向いた。

 最終録音は順調に進み、打ち合わせもなごやかに終ってCDの発売日もどうやら3ヵ月後に決まりそうだった。宅島氏とプロデューサーが悠季を打ち上げに誘ってきたが、それは断った。せっかく久しぶりに出会った息子と食事をするつもりだからと言って。

「久しぶりの家族との水入らずってわけですね。そりゃ邪魔するわけにはいかないなぁ。じゃあ今度はCDが発売になって売り上げが絶好調!というときにまたお誘いしますから。そのときはぜひお付合いしてくださいよ」

「あはは。そうなるといいですね」

「きっとそうなりますって!」

 宅島たちは上機嫌で悠季を送り出してくれた。

スタジオを出ると悠季は電話して都心に有を誘い出した。場所は何回か来たことがあるイタリア料理店だった。こじんまりとしていて、家庭料理風の気取らないが美味しい料理を出してくれるので気に入りの店だった。

 有は食事を共にして話をするのにとてもいい相手だった。悠季がCDを完成させたことをとても喜び、発売されるのをとても楽しみにしていると言って悠季を嬉しがらせた。

彼は好奇心がとても旺盛で、話題も豊富。そのくせ自分から話すというより悠季にいろいろと話をさせて自分は聞き役に廻るといったさりげない気の使いようをする。

「どうやら留学先では誰かに社交マナーを学んでいたのかな?もうすっかり大人の紳士だね」

「父さん!からかわないで下さい。これくらいどうってことないでしょう?」

 むくれて見せると年相応の表情になる。

「そうかもしれないが、それでも親としてはとても感慨が深いものがあるよ。息子が一人前になってきたのかと思うとね」

「・・・・・・・・・・親だなどと・・・・・」

 有は片手を額にあてて、ため息をついた。

「ん?何か言った?」

「いえ、なんでもないです」

 目をそらすと、そのまま有は不機嫌そうに黙り込んでしまった。

 

 

 それからの数日間。悠季はマネージャーを勤めてくれる宅島氏と次のコンサートに向けた打ち合わせやCDの細かい打ち合わせを行い、大学に出かけて講師を務めたりと昼間は伊沢邸を留守にすることが多かった。

 有の方は昼間どこかに出かけたりもしていたようだが、たいていは伊沢邸で留守番をしていた。どうやら学校から出されたという宿題の他に、自分で何かの作曲を手がけているらしくてピアノに向かい、五線紙になにやら書き込んでいた。しかし、悠季がそれを見ようとすると隠してみせない。

「途中でもいいから見せてくれないかい?」

「完成したらちゃんとお聞かせしますよ」

 そう言っていつも五線紙類を片付けてしまって見せようとはしなかった。

 そんなふうに久々の親子水入らずを過ごしていったが、相談があると言っていたはずの有の来年以降の進路のことについては話そうとはしなかった。何か話したいことがあるのではないのか?と悠季がさりげなく水を向けれも何かと話をはぐらかせて答えようとはしなかった。

 

 

 有の休暇が後2日という日のことだった。

 何気ない会話のうちに、有がこの間録音した悠季のCDを聴いてみたいという話になった。悠季が珍しく今回のバッハは自分でも自慢できるいい出来だと言ったので。

「そりゃ、デモならもらってきてるけど」

 そう言いながら試録音版をオーディオにセットした。

 

 バッハ。バイオリン無伴奏 ソナタとパルティータ。

 

 有は真剣な表情でCDに聞き入り、一つの音も逃すまいと集中していた。そして、全曲が終るとふうっとため息をついて何やら考え込んでいた。

「どうだった?僕としては今の段階ではもう思い残すことがないほど全力を打ち込んだつもりなんだけど。感想を聞かせてくれないかな」

「・・・・・ええ。そうですね。とてもいいです。いいですが・・・・・」

 何かを言いかけて口ごもった。

「何かな?」

 チリリリリリン!

 突然に電話が鳴りだした。

「もしもし。ああ、宅島くん」

悠季が出てみると、宅島からのものだった。彼はかなり困りきっている様子で、向こうの焦燥が電話からでも手に取るように感じられた。

《もうしわけない!親子で仲良く過ごしているところにこんな依頼をするのは本当に申し訳ないんだが、実は明後日のN市でのコンサートのソリストを受けちゃもらえないだろうか?

 予定していたソリストが急病で、その上
代役をするはずのやつまで倒れちゃったそうなんだ。コンサートは中止できないんだよ。それで守村さんに頼めないかと思って。
 実は・・・・・そう、SMEから依頼でね。曲はこの間やったばかりの曲だから、君に出来ると思って。

 本当に突然に頼んでしまってすまないんだが、助けると思って頼まれてもらえないだろうか?》

 どうやら急なことでどうしても代役が見つからず、宅島もSMEから至上命令が下されたらしかった。

「・・・・・そうだね。その曲ならばやったばかりだし、そのホールだったら演奏したことがあるのでなじみがあるよね。あそこもいいホールだし。・・・・・分かった。以前SMEに僕の方で無理を言ったこともあるからね。引き受けるよ」

《ありがたい!それじゃ明日の電車のチケットとくわしいスケジュールの説明はこれからそちらに行ってするから。本当にありがとう!》

「ええ、よろしくお願いします」

 悠季は振り返って、話の内容を聞いていたらしい有に向き直った

「聞いていたかい?それで、悪いけど有を一人で泊めておくわけにはいかないから、ここに滞在するのは今日までということになるね」

 有はひょいと肩をすくめた。外国慣れしたそのしぐさは、不思議な既視感を感じさせた。

「分かりました。・・・・・では、桐院家あちらに戻る前に、僕の作った曲を聞いてもらえませんか?」

「ああ、君がこの間から書いていた曲だね。どんな曲なのか、楽しみだなぁ」

「では、音楽室へどうぞ」

 悠季が嬉しそうにうなずいてソファーへと座ると、有もゆっくりとした動作でピアノの前に座った。

 自分から言い出したのにもかかわらず、ためらいがちな様子を見せながら。

彼はうつむいて何かを考え込んでいたが、何かがふっきれたのか毅然と顔を上げて演奏し始めた。

それは、繊細なフレーズが続く曲だった。

「・・・・・・・・・・あっ!!」

 悠季は蒼白になってソファーから立ち上がった。