メヴェンナのみっつの月
午後も半ばを過ぎたころ、悠季は木の葉を編んだ籠に果物を入れてやってきた。
「圭、どちらがいい?…魔法を解くのと、お昼にするのと…?」
「昼食です」
悠季から食物を受け取る気はなかったが無難なほうをとるべきだろう。
「ローモスのむき方はこうだよ、へたの端に棒を押し込んで、ひきはがすようにするんだ。こっちのタンニ苺は…」
悠季は果物を圭に持たせると、自分も同じ果物を目の前でむいてみせる。
ローモスの実はねっとりしたゼリーのようで味はさっぱりとしていた。タンニ苺は圭の口には甘すぎるぐらいだった。
食べ物……陽光……ものうい虫の羽音……そんなものが一体となって、圭のまぶたは重くなっていった。
「眠いんだね。ゆうべは二、三時間しか寝てないんだろ?寝たらどうだい?」
「そうします」
圭はそのまま背を倒すと立ち木にもたれて眠った。
ふと目覚めると悠季がすぐそばに横たわって、片肘をついて、こちらをみつめていた。
そよ風がかれの髪をやさしくなぶっている。
息をするたびに身に纏った薄い葉のつづれ織りがかすかに持ち上がって、葉ずれの音を立てた。
そのちらちら光る薄物の衣装から伸びた美しい手足。やわらかそうな皓い肌。そして顔は―――森の奥のビロードのような地面から萌え出た新鮮な花の芯をのぞきこんでいるような感じだった。
まさにかれは森の妖精だ―――だが、この世に魔法などありはしない。
たしかにかれは次から次へと嘘をつく。だが、悪意はまったく感じられない。
かれは、口にする、この上なく常軌を逸した言葉すべてを自ら信じ込んでしまっているのかもしれない。他人をだます気はないのではないか?
「本当の話、きみはいったい何者なのです?」
圭はとげとげしい口調で訊ねた。
「魔法を解けばわかるよ」
「どうやって解くのですか?」
圭はばかばかしいと思いつつ尋ねていた。
「…恋人のキスで…」
悠季は少し困ったよな顔を頬を染めながら、かすれるような声で答えた。
圭は誘われるままに、悠季のほうへ身をのりだし、唇に顔を寄せていった。
誘っておきながら、悠季は身をこわばらせている。不審におもいながらも圭の腕は悠季の体を捕らえていた。陽光を吸って暖かな悠季の肌が圭の腕の中にあった。
唇を何度もふれあわせ、やがて舌を入れるとびくっとおびえた様な反応があったが、止めることなどできない。そのまま、悠季の甘やかな果物の味がする口を存分に味わった。
かすかな波のようなめまいが圭の全身を走りぬけた。まるであたりを包む時間と空間が溶けていくような感じだった。
こんなくちづけははじめてだ。
『魔法が解けかけているではないか』
圭の心のそこで何かが訊ねた。
すると、まごうことなき理性がその言葉をすっぱりと両断した。
『自分はかれと同じように狂いかけている』
圭は悠季を見た。論理の正しさが立証され、かれが結局、変身しなかったということに勝利感を抱いてはいたが、その勝利感の中には失望に似た痛みがあった。
「すると」
と圭はきびしい声でいった―――あるいは、これは落ち着いた表情を保つための演技だったのかもしれない。
「結局、魔法は解けなかったようですね」
悠季は震えていた。
しかし、異常な努力を払って―――それは奇妙に圭の心を揺さぶった―――自分を静め、平静な声でいった。
「キスは魔法を解くプロセスに過ぎない。でも、そのキスは僕の洞窟にある水晶の滝の下でなければならないんだ」
「なぜ、最初からそういわなかったのです?」
「僕は洞窟に来てって何度も頼んだじゃないか。それなのに、きみはそのたびに怖がって拒みつづけた」
「それなら、なぜきみは、魔法を解く手段にならないと知りながら、いまここでくちづけしたのですか」
悠季は真っ赤になりながら答えた。
「ひ、ひょっとしたら、きみがキスが好きになって、洞窟に来てくれるかもしれないと思ったからだよっ。すこしはきみの警戒心を和らげてくれるだろうし。い、いまのキスはそんなに不愉快だった?」
まただ、その反応はとても初々しい気がする。
「不愉快などとんでもない、美味でしたが…。しかし、何ら有益な目的には結びつかない」
「じゃあ、一緒に来て、ちゃんとやってみてよ―――滝の下でね」
「こんなことは、ばかげています」
「ばかみたいに見えることが、それがきみが恐れていることなのかい?……今すぐ一緒にきてよ、圭。僕のほんとの姿を見て欲しいんだ」
この、いかにも落胆したような、疲れ果てた声には抵抗できないな…圭は思った。もう一度つっぱねる気には到底なれない。
「いいでしょう」
と圭はいった。
「いきましょう」
もしこれ罠なら、それもいいだろう。
圭はトリコーダーを手にとり、洞窟の入り口へ向かって歩き出した。
洞窟の中は涼しく、悠季がいったようにつる草が天井からさがり、苔が壁や床を覆っている。
トリコーダーによれば昆虫類より大きな生命体はいないようだ。
一方に小さな滝があった。このささやかな流れを『水晶の滝』と呼ぶなんて、悠季はなんて豊かな想像力の持ち主なのだろう。
「何の変哲もない小さな滝ですが…」
圭は率直に批評した。
「この滝の持つ魔力を働かせてみようか?」
そういうなり、悠季はすばやい身のこなしで圭の唇に二本の指を当てて沈黙を強制し、圭の手を引くと滝とは逆のつる草に覆われた壁に歩み寄った。
つるをかき分けると岩壁に狭い裂け目が現れ、悠季はついてくるように身ぶりするとその中にすべりこんだ。
緑の燐光を放つ苔に照らされた急勾配で下へむかう道があった。悠季は圭がついてくるのを確かめながらその道を降りてゆく。
小道は曲がりくねり、時には這うようにしなければならないほど狭く低くなりながらも続いていた。
かすかな音が聞こえ、がやがて轟音になり、大きな空間に出た。
そして大洞窟の奥には切り立った崖があり、そこをなだれ落ちる『水晶の滝』があった。
岩にあったって砕ける水が細かい水滴となって天井からもれ出た光でさまざまにきらめき、まるでその名のとおり水晶のようだった。
滝つぼからはとうとうと霧が立ち込め、清水が流れ出し早瀬となって、岩と岩の間を通って、さらに地下へ流れ込んでいるようだ。
滝の背後の岩面にくぼみがあった。そこから、また別の洞窟へと続いている。かれがつれていこうとするのはその岩だならしい。
一緒に輝く水のカーテンをくぐりぬけた。水は冷たいが、さわやかで快い。
悠季は圭を振り返り、何か話し出そうとした。
だが、夏の雨に打たれた花のように水滴をきらめかせながら、真剣なまなざしを向ける悠季の顔を見たとたんに圭の中で何かが切れた。
もうこれ以上、かれの嘘を聞きたくなかった。
圭は悠季を唐突に抱き寄せた。
腕の中の悠季は華奢で今にも壊れてしまいそうだが、びっくりするようなしなやかさと強靭さを備えている。
まっすぐに目を見て顔を寄せると、驚いて大きくみひらかれていた瞳が閉じられる。しかし、唇は緊張のためかきゅっと引き締められている。ほほえましい気分になって、そのまま圭はうごかなかった。悠季が不振に思ってそっと目を開いたとき、唇をうばった。驚いて、緩めた隙に舌をさしいれ、口腔を愛撫する。逃げ惑う舌を追い詰めて、すくいあげ、絡めた。やがて、おずおずと反応が返ってくる。
気をよくした圭はパンデラをつづった衣装は脱がし方がわからず、引きちぎるように剥がした。
絹のような肌を愛撫すると、びくびくと震えた。抵抗しようとするが、力はこもっていない。
きつく舌を吸い上げると、うめき声とともに腰がくだけたのか、抱きしめた腕が重くなった。そのまま、抱きかかえるようにして横たえた。