メヴェンナのみっつの月

「この空地から外へ出る道を見つけたいのです。力を貸してもらえませんか」
「そんな道はないよ。あの魔法使いは、つむじ風を捕まえてきて、それを輪に引き伸ばして、この空地のへりのまわりにめぐらし、それから、上へ引っぱっていって天蓋をつくってしまったんだから」
 ドーム状のつむじ風か―――と圭は考えた。かれは幻想的な表現で例のフィールドを描写しているのだろうか。

「その魔法使いはきみを閉じ込めるために、そのつむじ風をここに置いたのですか?」
「ああ、ちがうよ。僕は僕にかかった魔法が解けるまでここから離れるわけにはいかないんだ。
 ただ、ある朝、目がさめたら、あのつむじ風はあったんだ。あの魔法使いは誰かが僕の魔法を解くかもしれないと思って、これをここに置いたのかもしれないけど」
「おとぎ話はもうたくさんです」
「きみは、もしかしたら、僕の魔法が解けるのがいやなのかい?僕の力がもどって、きみの力を上回るんじゃないかって、恐れているのかい?」
「僕はきみの力を恐れてはいません」
 圭はそっけなくいった。
「きみは僕の言うことを何も信じていないんだね」
 悠季はゆっくりとした口調でいい、ぴんと体をそらし、目を光らせた。
「僕を怒らせないほうがいいよ。魔法をかけられる前の僕は、とても力があるっていったろ?たとえば、稲妻を自由にしたり、暗い星々を炎のように白熱させたり、夜空を泳ぎまわって昼のように明るく光る銀の魚を飼いならしたり……できたんだ」
 悠季は困ったように視線を逸らしながら続けた。
「…今は、あの悪い魔法使いのせいで、洞穴に住んでいるけどね。
 もちろんとても素敵な洞窟だよ。きみもきっと気に入ると思うな。つる草と苔がきれいで、大きな水晶の滝があってその底のほうは霧がかかっていて。
 それに僕のために糸をつむぐ十二匹の翡翠の蜘蛛を飼っているんだ。その糸は細いけど丈夫でパンデラの葉の間に織り込んでから日に当てて乾かすと、永久に型崩れしない」
 ほらね、と自分が纏っているパンデラの葉をつづった衣装をしぐさで示した。
「でも、緑は身になじんだ色じゃない。いままでは身分にふさわしい海の色のものを着ていたんだ」
 それでも、その衣装は悠季に似合っている。そう思いながら、圭は現実的なことを質問した。
「きみはもうどのくらいここにいるのですか、悠季?」
「魔法使いに魔法をかけられてからずっとだよ」
「なるほど、そうでしたね」
 圭はいらいらしていった。
「しかしそれは、どのぐらいの時間です?何日間?」
「そんなことどうでもいいじゃないか。時間は相対的なものだよ。一年かもしれないし、五十年かもしれない。魔法をかけられている間は僕は歳をとらないんだ」
「これまでに他の人間がここへ来たことはありますか?僕のような服装の者が、です」
「僕は誰も見なかったよ。きみのような人は誰も」
「では、それ以外はどうです?誰もいない?」
 圭はくいさがった。
「一度、昆虫たちがやってきたよ」
 圭はがっかりした。ここはヒューマノイド以外は沢山いるはずだ。
「空の色をした昆虫だよ」
 悠季は顔をしかめ考え込んだ。
「太陽がちょっとかげったの空の色……かな?二本足で歩いて、僕に話しかけて…。僕のために糸を紡いでくれる昆虫たちとはちがう。たぶんもっと、高水準の目に属する昆虫なんだろうな」
 圭は心がざわめくのを感じた。

 ”『高水準の目』に属する昆虫”この表現は偶然の産物なのだろうか?
 それとも、かれはみかけより遥かに高い教養の持ち主なのか?
 動物学上の分類法に何らかの知識を持っているのではないか?
 そして、二本足で歩く薄蒼い昆虫。
 なぜ、昆虫なのか?……触角があったのだろうか……アンドリア人には触角がある。……皮膚はうすい青。
 そういうことなのだろうか?

「その昆虫のことを話してください。かれらはなんと言ったのですか」
「馬鹿みたいなことを質問した。誰かが空からやってこなかったか、とか。翼のある大きな箱を見なかったか、とか。―――あとは覚えていないよ」
「きみはなんと答えたのです?」
「”僕は眠っていたから何も見ていない”」
「眠って?」
「そうだよ。ときどき、何もかもいやになると季節が変わるまで眠ったりするんだ。でも、きみがきてくれたから、もう、眠らないよ、そんなふうには」
「その連中はきみを脅りしたのですか?」
「脅せるはずないよ。あの昆虫たちには、僕を困らせることはできないよ。もし僕が死んだら、この林間の空地全体が一緒に死んで、風に吹かれた泡みたいに消えてしまうぞ……って教えてやったからね。これも、あの魔法使いの魔法の一部なんだ。あの昆虫たちだって、風の中の泡みたいに吹き飛ばされて消されたくないだろうし。そうじゃないかい?」
「確かに、あまりありがたくない経験ですね」
「もう時間も遅いし」
 悠季は急に言い出した。
「もう、充分に話しただろ?早く、魔法を解こうよ」
「そう、確かに遅くなりました。僕は寝る事にします」
「きみのために一番やわらかい苔でベットを作るよ」
 悠季は約束した。
「僕の洞窟の中にね」
「僕はシャトルの中で寝ます」
 圭はきっぱりといい、きびすを返すとシャトルへ向かって歩き出した。
「おやすみ、圭」
 甘いテノールが夜の小鳥のさえずりのように空地のなかでこだました。
 圭は後を振り返らなかった。
 かれの言うことはまだ、判然としていない。
 罠である可能性は大きい…圭は自分の心に言い聞かせた。




 翌朝、圭がシャトルのハッチを開けると、すでに太陽はまばゆく輝いていた。林間の空地は静かで、小鳥のさえずりや木々の葉がざわめく音だけがしている。ハッチから見える景色に人影はない。
 やはり、悠季のことは夢だったのではないか、あれは、疲れた精神が見せた幻ではないかと思いながら地面に降り立った。
 しかし、悠季はシャトルの傍の木の下で座って待っていて、圭と目があうと微笑んで声をかけてきた。
「おはよう、圭。洞窟に朝ごはんを用意してあるよ」
「食事はすませました。食料は持ってきてありますので」
 そっけなくいいながら、圭は心が軽くなったような気がした。
 

 圭はトリコーダーを使って作業を始めた。悠季は作業の邪魔はしなかったが圭のすることを興味深そうに見ていた。
 ふと、気がつくとかれはいなくなっていた。圭は奇妙な静寂を感じた。
しかし、そんなことは気にならないと作業に没頭した。それは、ふりに過ぎなかった。
 悠季がどこからか戻ってきて灌木越しにじっと作業をみつめている。
「きみは百万の葉から一枚の葉を捜すのにも、ひとつ残らず調べないと気がすまないのかい?そんなにして、何を探してるんだい?」
 ほっとしたような気持ちから、危うく<エクスカリバー>という言葉を口にしかけた圭は、きわどいところで唇を閉じ、その代わりにいった。
「この場所から抜け出す方法を探しているのです」
「それなら、そんなばかばかしい道具はいらないよ。洞窟へ来てくれればいいんだ。
 魔法が解けたら、ウインクひとつする間にきみをどこでも好きなところへ運んであげられるし、望むなら、白鳥座の背に乗ったり、カシオペアの椅子でくつろぐこともできるよ」
「無作法なことはしたくありませんが、僕はこのばかばかしい道具に頼るほうが好きなのです」
「でも、きみは現に無作法なことをしているじゃないか。午前中ずっと僕を無視して……もう、いいから、こっちへ来て僕と踊ろうよ」


 悠季は圭の両手をつかみ、その体をぐるぐる回そうとした。
 圭はその手をもぎ離して、池に歩み寄り、もう一度トリコーダーを調整した。
「あ、泳ぐのかい?そうだね、一緒に泳ごうよ」
「泳ぐつもりはありません」
「そうかい?でも、僕は泳ぐよ」
 葉ずれの音を耳にして、視線を上げた圭は、悠季が衣服を脱ぎかけているのを見て目を逸らした。
 皓い肌、繊細な鎖骨、華奢な上体のライン……脳裏に焼きつきそうに魅力的なそれら…
「すぐ衣服をつけたまえ」
 圭は語気を荒げていった。
 悠季は何も言わず、池に飛び込んだ。やがて、圭の立っている岸辺の真下の水面が割れ、悠季の顔が現れた。
 水のぬれた髪がつややかに頭にはりつき、めがねをはずした顔はまるで彫像のようにみえる。
 悠季は両腕を上げて呼びかけた。
「泳ぎを教えてあげるよ、圭。それとも、濡れるの嫌いかい?」
 悠季はふざけて圭に水をかけた。
 圭はあきらめてトリコーダーをもって退散した。