【 4 】









不意に道路を走り去っていく車の音が聞こえてくる。

遠くでは鳥の鳴き声。自転車のチェーンの音、そろそろ動き始めた人々の日々の営みの音。周囲にはあらゆる音が戻ってきていた。

それを聞いて、あらためて今まで音がまったくしていなかったことに気がつく。不思議な気配も綺麗さっぱり消えうせてしまった。
だが、そんな分析なと゛すぐに意識の隅に追いやった。

からだが動くのだ!

元通り動かせるようになっているのに気がつくと、すぐさまとび出した。悠季が戸惑ってあたりを見回しているところへと。

「悠季!!」

ぎゅっと抱きしめると、冷えたからだが僕の腕の中に納まった。

悠季だ・・・・・!

「えっ?圭?どうして?いったい何がどうなってたの?」

「無事でよかった!」

とまどう彼を抱きしめて、今更ながらに彼を失いかけていたのだと思うと震えがくる。
僕には何もできなかった。
もし悠季自身の言葉であの不思議な存在をしりぞけていなければ、そのままどこかへと連れ去られていたのだと確信できたのだから。

「えーと、あの。・・・・・ねえ、圭。ちょっと落ち着こう?それでさ、あの、とりあえず家に入らない?」

見回してみれば、うっすらと夜が明けかかった光の中に立っていた。

そして、ここがどこなのかといえば、僕たちはなんと自宅の裏庭に 立っていたのだった。

・・・・・・・・・・!

ふいに僕の上着から振動音がする。入れていたということも記憶になかったのだが、携帯電話がポケットに入っていてそこから音がしていたのだ。

入っていたのは僕へのメール。そしてある意味予想していた相手からだった。

「どうやら今回きみを助けてくれた者がまもなくここに来るようです」




数分後、僕たちをたずねて一人の男が我が家にやってきた。

「賀茂と申しますぅ。いやぁーなんとか間に合ってよろしかった。満願日が昨夜だと知って思いっきり冷や汗が出ました」

少し京なまりが混じる喋りで笑っている彼は、ダメージジーンズにぴっちりしたTシャツ、金髪にピアスという街中によくいる青年の姿であり、たとえ尋ねられても本当の職業を言い当てられる者はいないだろう。

かろうじてそれらしいものと言えば、首から掛けているネックレスには梵字が刻まれ、手首には数珠のようなブレスレットをしているのだが、それもファッションだと言われれば通用するものだ。

「あの、本当に、その陰陽師さんなんですよね?」

お茶を出しながら、悠季は怪訝そうな表情で彼をうかがっている。

「ええそうなんですよ。たいていの方は僕のかっこうを見てうさんくさく見えるみたいでしてね。依頼者のところへ行くと間違えてきたのかと文句を言われることもあるんですよ」

嬉しそうにこたえる姿は、確かにロックミュージシャンのようにしか見えない。

「とは言っても、いまどき平安衣装の狩衣や大口で行っても神主と間違えられるのがオチですからね。僕もこっちの服の方が好きですし」

あはあはあははは・・・・・。

と楽しげに笑っていた。

「知らなくて申し訳なかったんですが、陰陽師って今もある仕事もなんですね」

「ええ、皆さんよくおっしゃいますよ」

陰陽術とは、科学万能の現代ではではただの儀式や形式的な気休めのように思われているが、世に起こる超常現象の中の錯覚や思い違いといった原因を消去したあとのわずかな真実、本当の意味の不可思議な出来事に対処するためのノウハウであり、現在でもひそかに必要とされて生き残っている。

桐院家は平安時代から続く旧家で、権謀術数を得意として現代まで存続している。表側の政治や経済の技ともいえる交渉術の他に裏では祈祷や呪詛といった、現代ではいささか迷信めいて思われていることについても知悉しており、それは陰陽術も含まれる。

お祖父様からひそかな桐院家の裏事情について多少の教えを受けていた僕は、今回の事件が医学や科学では解明されないだろうと推測したのだ。

悠季は自分の置かれている状況を自覚していなかったのだろうと思う。微妙な綱渡りのまま、アレによって夢として受け入れさせられていたのだ。だからこそ朝になると忘れてしまっていて、僕の懸念も笑い飛ばしていた。逆にもし夢ではないと気がついてしまえば、一気に向こう側へ引きずり込まれかねなかったかもしれない。さらに七日間という日付が問題だった。満願日ということになれば、向こう側が一挙に有利になってしまう。

耳なし法一の民話というのは、多少の真実を含んでいるのだから。

「実は祖父に電話して昨夜までのいきさつを話したのです。それで京都に今も住んでいる親戚から話を通して、加茂氏に来て貰えることになったのですよ」

実は賀茂家が陰陽師の本流で、桐院家も庇護していたこと。安倍晴明も加茂家に師事していたことなどという薀蓄など、今は悠季に話す必要はないだろう。

「どうやら守村さんが何かに魅入られているようだとお聞きしました」

「僕が?」

悠季はちょっと考え込んでいたが、ふと思い出したように顔を上げた。

「そういえば、きみに面白い話があるから帰ってきたら話すと言っていたよね。でも忘れてた。
あれって、昔僕が大学に通っていた頃によくバイオリンを弾いていた神社があって、そこであの少年に出会って話をしていたんだ。大学にようやく慣れてきて行かなくなっていたんだけど。
コンサートの帰りに、たまたまあの神社の近くを通ったものだから、なつかしくなって寄ってみたんだ。そこであの子に久しぶりにまた出会えたってことを言いたかったんだ。・・・・・なんでそのことを忘れていたんだろう?
でも考えてみたら、もう何年も前の話なんだからあの時の少年だったらもう大きくなっているはずだ。それなのにおかしいって思わなかったのは、変だよね」

「記憶が封じられていたのでしょうね。そして、あなたを引き込んで連れて行こうとした。ですがそうならなかったのは、あなたを救った助け手がいたようですね。どうやらこの家の守護霊のようですが」

おそらく光一郎氏が悠季の危機を知ってはたらきかけていたおかげだろう。僕が悠季の異変を知ることができたのもそのためだと思われた。

「とにかくご無事でよかったです。あれはかなりの力を持っていましたから」

賀茂はまじめな顔で言った。

「あれ、とは?」

「通称では『お宮様』と呼ばれていたようです。古くは忌の神、つまり祟り神になるわけですが、災いを与えられないようにと祭られていたのですね。
しかし江戸時代のように人々が生まれた土地を離れることなく祭られていなければ神社は立ち行かない。無人の社は朽ち、祟り神の存在は風化していくのですよ。
現代はご利益優先ですからね。人気を持ち力を持っているとされる神々は、人間に得をもたらすありい神様たちばかりです。縁結びとか金運とか、実に現世利益オンリーだ。祟り神などという危険な神様はまったく必要ないってわけです」

しかし、と加茂氏は続けた。

「現代でも祟り神である『お宮様』の社が残っていたのはそれほど強大な力を持った神だったからなのでしょう。今は見る影もありませんが、それでも人一人を神隠しに連れ去るだけのちからは残っていたのではないでしょうか」

「でも、なんで僕だったんでしょうか?」

「あなたはあれと共鳴していたのかもしれませんね」

「僕に?」

「あなたの孤独に」

「・・・・・そういえば僕が大学に入ったとき、入学してからしばらくはほとんど誰とも話ができなかったんです。地方出身者でなまりがあることや音楽高校の専門コースを出ていないことへのコンプレックスがあったし、人見知りのせいもあって。あの誰もいない神社が心地よくて通っていたことがあるんです。
もしかしてそのときの孤独に共鳴していたってことなのでしょうか?」

「おそらくそうでしょう。そして、再びあなたを見つけたアレはあなたをどうしても欲しくなって、自分の側に引きずり込もうとする気になったのだと思います。怖い神です」

「でも、あの子はそんな怖い感じはしませんでしたよ?それに僕が断ったらすぐにあきらめてくれましたし」

「それは、あなたのことを気に入っていて嫌われたくなかったからでしょう。本来であれば恐ろしいところやおぞましい本性を見せていたはずです。しなかったというのは珍しいことなのですよ」

今回、その神と再会して引き込まれそうになっていたのを陰で押しとどめようとしていたのが陰陽師である賀茂の力だったのだが、それだけでは神の手から救い出すのは不可能だったろう。
光一郎氏からのメッセージがなければ悠季の身に非常事態が起きているとことに気づいて対処するのがもっと遅くなり、手遅れになっていたかもしれなかった。
そして一番重要だったことは悠季自身の意思で一緒に行くことを拒絶したことだ。彼の本能が異質なものをはね退けたのだろうか。
どうやらかろうじてこの世に引き止めることに成功したようだ。

「僕を欲しいって、なんでだったんでしょう?」

普通の男ですよ?と不思議そうな表情で悠季が聞いた。

「神様に音楽は必需品ですよ。神楽と言うでしょう?あなたの音楽は神に力を与えていたのかもしれませんよ」

「えぇー、神様に力を与えるなんて、僕にそんなちからはありませんよ」

悠季は苦笑したが、加茂はにこにこと笑っているだけだった。

「いずれにせよ、かかわりは消えました。あきらめてくれたようですから、もう異界へ引き込まれることはないでしょう。すべて決着です」

無事を確認したのでこれで失礼しますと言って、賀茂はそのまま帰っていった。



「悠季」

賀茂が出て行き玄関扉が閉まると僕は手を差し出した。彼は素直にからだを寄せてくれた。僕の期待していたとおりに。
引き寄せてしっかりと抱きしめればぎゅっと彼も抱き返してくれた。

「よかった。きみを取り戻すことができました」

「ごめんね、心配かけて。きみが僕のためを思ってあれこれ警告してくれていたのに、僕は無視してしまっていたよね」

「それはきみのせいではありませんよ。ですがようやくきみは僕の手の中に戻ってきてくれた。きみがいなくなってしまったらと思うとぞっ とする」

あらためて危うかったあのときのことを思い出してふるえがきた。

「きみは僕のものです。誰にも渡しませんよ。愛しています」

「僕も、圭」

恐怖から開放された喜びと安堵感は、たやすくセックスへのプレリュードへと移行する。

僕たちはどちらからともなく熱くて長いキスをかわし、互いのからだをまさぐり確かにここにいることを確かめ合った。最初は音楽室で抱き合い、それから二階へと移ってまた抱きしめあった。

「ああ、圭っ!愛してるよっ!!ああんっ!もっと、・・・・・ねえ、もっと!」

彼の甘えねだる声は素敵だ。それにも増して潤んだ瞳とかすれた声で素直に僕とのセックスを欲しがる声はひどく僕の欲望を直撃した。

数日間の恐怖と焦燥感はセックスをより甘美なものにするためのスパイスと化した。喪いかけたかもしれないという恐れが情熱に拍車をかけて暴走してしまったが、悠季は許容してくれて、僕が望んでいた以上にたっぷりと応えてくれた。
その挙句、ついには気絶するように眠り込んでしまった。もちろん、ここ数日の大変な体験のせいも大きかったせいもあるのだろうが。

心地よい疲れで僕も眠りに誘い込まれて、悠季を抱き寄せて何日ぶりかの安らかな眠りについた。

ああ、なんと幸せなことか。



目が覚めてカーテンの外に目をやれば、すでに日が暮れかけていた。

はっとなって隣に手を伸ばせば、あたたかなぬくもりがそばにある。

僕はうつ伏せでぐっすりと眠る悠季の肩口にそっとキスを落とす。先ほどの狂乱のしるしのキスマークがあちこちに飾られていて、僕の恋人なのだと誇らしくもあり、ついそそられてしまう光景でもある。
寝息は今も深く、見れば目の下には翳りが深い。

ああ、しまった。食事もとらせずに愛し合って消耗させてしまった。彼が目を覚ましたら栄養のよいものを用意しておかなければ。

とにかく動き出さなくては、餓えてしまう。
起き上がってシャワーを浴び、コットンシャツとチノパンに着替えて静かに階段を下りていくと、僕の携帯に着信を示すランプが点灯していた。メールを開いてみれば思っていたとおりの内容だった。

《ご要望のとおりに、例の場所は処理いたしました》

僕は結果に満足して携帯を閉じ、食事の支度へをはじめていった。









「圭!大変だよ」

数日後、帰宅した悠季が大慌てで僕のもとへとやってきた。

「どうかしましたか?」

「あの社が取り壊されてた!鳥居も壊されて無くなっていたし、あたりの木も倒されていて、建築予定が書かれた看板が立っているんだよ!」

「ほう?」

「いったいどうしちゃったんだろう。あの子はどうなっちゃったのかな?」

人のいい悠季は自分があれだけ危うい目にあったというのに、またあれの心配をしている。
悠季に向かって言うつもりはなかったが、実はすでにあのいまいましい社に足を運んでいて、どうなったのか見に行っている。

心配してではない。もう僕たちをわずらわせるものになっていないことを確認しに、だ。

あの夜に見たときはもっと鬱蒼とした森には木が茂り、鳥居は鮮やかな赤で、小さな社殿には威厳さえ感じられていた。しかし昼の光のもとで見れば意外なほどに小さい。あの夜は森に見えていたのはささやかな生け垣にすぎず、鳥居はあちこち塗料が剥げており、社殿は古びて傷みもひどかった。

この社を保管していた地主は、加茂氏から撤去の話を持ちかけられて当初はたたりを恐れたのかひどく渋っていたようだが、責任を持って後々まで問題無いように保障されると告げると、すぐに取り壊しに賛同してくれたらしい。
あの場所にマンションを建てたいと思っていたけれど、社が邪魔であきらめていたという経緯だったようだ。

社に祭られていた神札が加茂氏によって取り去られるとただのからっぽの器でしかなくなっている。塩と米で清められて正式なやり方でお祓いをし廃社としたのでたたりなどは起きることもない。

そうなれば、もう誰もここを壊すことにためらいを感じることはなかったのだろう。
すぐさま工事は動き出して、すべての部材がさっさと解体され、鳥居も押し倒され赤い塗料が塗られたただの材木と化して運び出された。周囲の木々も切られて、明るく綺麗で空虚な土地となっていた。

これでようやく僕も気が晴れるというものだった。悠季を僕のもとから連れ去ろうとするものなど断じて許すわけには行かない。たとえそれが神であったとしても。

もっとも、僕のしたことを優しい悠季に告げることはない。自分がどれほど危険だったかわかっていてもあの存在を許していて、心を痛めるのだから。

「地主にとっては、たたりつきのいわくある社など迷惑なやっかいものなだけだったのかもしれませんね。あの地が必要となれば、やむをえないことですよ」

だから、ありきたりな理由を述べて悠季を説得する。

「そうか。そうかもしれないね。だけどなぁ・・・・・。
「きみにとっては、あの社は忌まわしいものにしか思えないかもしれないけど、僕にとってはあの神社で過ごしていたのは、一人きりで寂しくてでも実家に帰りたいのを我慢しと親族に反対されながら意地をかけて東京に出てきたんだからという必死さでキリキリしていた時期だったからね。
新潟を少しだけ思い出させる森と神社はとても癒される存在だったんだよ。
そのうち、ようやく友達も出来て、鬼師匠とのレッスンにも食らいつけるようになってきて、社に足を向けることはなくなっていったんだけどね」

悠季にとっては、懐かしくも切ない思い出の地ということなのだろう。学生時代の思い出とつながっているというのなら、同情するのもしかたないのかもしれない。だが、あれほど悠季に執着していたものが、また手出ししてこないとは限らない。賀茂はもう大丈夫だといっていたが、僕としては危険なものが存在するだけで目障りだ。
排除されたというのは大いに喜ばしい。

僕にとっては譲れないものがあり、ささやかな感傷で失うなどあってはならない。

まあ、いい。あの社のことなど悠季の口からもう聞きたくない。

「ところで悠季、今日の打ち合わせはどうなりましたか?」

「え?ああ、うん。秋からのコンサートのスケジュールを決めてきたんだ。
そう言えば、なんだかネットに僕の演奏が上がっているらしくてね、評判になっているからって申し込みがかなりあったらしいんだよ。それで予定よりも多くなりそうなんだ。オーケストラとの兼ね合いがあるから少し保留にしているけど」

「ほう、きみの魅力を知る者が増えているということでしょうか」

コンサートで彼の演奏を録画した者がいるのだろうか。それとも会場で収録したものをネットに上げたというのだろうか。いずれにしても主催者側に注意しておかなければならない。
もっとも、こんなふうに悠季の演奏を聞きたいというファンを増やすことになっているのなら、やみくもに取り締まるのではなく、許可についてよく考えないといけないのかもしれないが。

とは言え忙しすぎれば根をつめる彼のことだ。無理をして体調を崩す可能性もある。宅島とくわしく相談をしなければ。

元通りの僕たちの生活が戻ってきていた。

もうあんないまいましい闖入者はこりごりというものだ。

「でさ、圭。曲のことだけど」

悠季が相談を仕掛けてきたので、僕はそれ以上の考察を止めた。

数日前の怪奇談のことなど既に過去のことなのだ。



不快な記憶は綺麗さっぱりと消去することにした。