【 3 】
翌朝の悠季は普段とまったく変わらなかった。
思い返すと、昨夜のあれはすべて僕の夢ではなかったのかとさえ思えてくる。
しかし迷いは僕の胸ポケットに偶然入っていたまだ葉がみずみずしい小枝を発見したことで消えた。
藪を通り抜けたときに入り込んでいたのだろう。
やはり、あれは夢ではなかったのだ。
最初に頭に浮かんだのは、僕自身が何かにたぶらかされて悠季の姿を借りた何かに振り回されてしまったのではないかという疑惑だったが、すぐにその考えは捨てた。
悠季のあのバイオリンの音色を聞いてしまえばそうではないと分かる。
引き込まれるような迫力ある演奏。彼の音のはずなのに、普段の彼とは違った、まるで神がかっているような凄みのある音。
危険なことになりそうな予感がする。彼の音色は日を追うごとに息を呑むような美しさと緊迫感を孕んでいるのだから。
さりげなく練習を切り上げるように言っても聞き入れられず、無理にやめさせようとすれば不機嫌になって背を向けた。思い切ってバイオリンに手を出そうとしたのだが、ひどく怒り出して音楽室に閉じこもってしまった。
悠季はいったい何に魅入られているのだろうか。
これが夢遊病のように夜中に出かけただけならまだましだったかもしれない。少なくとも手も足も出ないような事態ではいないといえるかもしれない。医者へ連れて行けば、とりあえず対処が可能だ。予後の不安はまた別のこととして。
神話や民間伝承の中で語られるのは、超自然的な存在から何かを与えられた場合、その代償となるのは《死》。あるいは《神隠し》。悪魔だけでなく、神であっても無償で恩恵を与えるということはほとんどなく、たいていの場合与えられた以上に高くつくものなのだ。
食事だけはとらせなければと、なんとか連れ出して二人で食事をとりながら昨夜のことを聞くと、やはり悠季は何も覚えていなかった。
「そんなはずないない。夜中に僕が出かけていたなんてあるはずないじゃないか。どうかしてるよ。これ以上邪魔しないでくれないかな」
僕の懸念を振り払い、再びバイオリンを手に練習へと戻っていった。
この件に関して僕は自分の手に負えないことを実感した。
手をこまねいたままでただ様子を見ているだけではいけない。やはりここは専門家の意見を聞くべきではないか。
僕は少し考えて席を立ち、電話機へと手を伸ばした。
そうこうするうちに、また夜が来る。
昨夜のように服を着たまま音楽室で待っていると、やはり同様に悠季が動き出した。
今夜こそ見失ったりしないようにしなければ。
玄関を出ると昨夜のような速さで悠季は進む。
にわか仕立てで教えられた手印を切ると悠季の歩みは普通のものになり追いかけるられる速度になったが、気を引き締めて後を追う。
彼は昨夜と同じようにあの不思議な神社へと入って行き、社の前に置かれていたバイオリンをさも当然のように手に取ると、調弦をして弾きだした。曲は良く聞くクラシックの小曲なのに、その音色の凄みは更に増していて今までに聞いたことがないもので鳥肌さえ立ってくる。
相談した者は明日までは大丈夫のはずだと言った。しかしこのままに手をこまねいていてもいいものなのか、ひどく不安になっていく。
昨夜のように声をかけようか迷っているうち、ふいに悠季がバイオリンを下ろした。
《どうしたの?もっと聞かせて》
気がつくと、いつの間にか社の前の階には少年がが座っていた。ごく普通にTシャツにズボンをはいている。顔立ちは整っている、だろうか?
ああ、あまりよくは見えないが。
しかしただの子供であるはずがない。その周囲は白くかすんでいておぼろげであり、目をそらせば消えているようにも見え、わずかに宙に浮いているようにさえ見える。
それなのに、なぜ悠季は不審に思わないでいられるのだろう?
「本当にすごいね、このバイオリン。僕が弾いているんじゃないみたいに聞こえる。僕には過ぎたものだよ」
《悠季だからこそ出せる音なの。そのバイオリンはあなたの力を引き出しているだけ。日を追うごとにすばらしくなっていくの。そしてもうじきそれは完璧な音を出せるようになるの》
悠季はその少年のことを知っているのか、ごく普通に会話をしている。
「こんなバイオリンを弾いていたら、他のバイオリンを弾けなくなりそうな気がして怖いよ」
《そうすればいいでしょう?そのバイオリンもとても喜んでいる。いつまでもここにいて大好きなバイオリンを弾いていればいいでしょう?》
「それは無理だよ。僕には依頼されたコンサートもあるし、何より圭のオーケストラでコンマスを勤めるっていう大事な仕事もあるしね。とても魅力的な申し出だとは思うけど、このままここにいることは出来ないよ」
《でも、悠季はバイオリンが一番大切なものでしょう?一番いいバイオリンが弾けるのなら、どんなことでもすると、昔あなたは言った。ならばここにいればいい。ここなら一番いい音が出せるのだから。ねえ、ここにいてよ!》
悠季は困ったように首を振った。
「僕がこんなにすばらしいバイオリンを奏でられるのは嬉しいけど、でもこの音じゃだめなんだよ。少なくとも僕の目指している音はこれじゃない」
悠季の言葉を聴いた少年は、憤慨したように立ち上がった。
《これじゃだめって言うの?高みを目指しているあなたが理想とする音のはずなのに》
「そうだね。きみに出会った学生の頃はなによりすばらしい音を出すことだけが望みだった。その頃ならこの音を聞いてどれほど嬉しかったか分からないと思う。
でもそれは一途だけど子供っぽくて狭い願いだったんだ。今の僕はこの音は欲しくない。なぜならたった一人ですばらしいけれど孤立した音楽を弾けても、それはそれだけでしかないからなんだ。この音色は美しい。でも美しすぎるんだ」
悠季は手にしたバイオリンを丁寧にぬぐうと、丁寧にケースへと収めた。
「僕は多くの人と音を重ねてよりすばらしい音楽を作り上げることを知ってしまったんだ。音楽っていうのは文字通り音を楽しむってことだけど、それはひとりで楽しむだけのものじゃない。多くの人に聞いてもらうのが嬉しいんだ。
それに圭のオーケストラの一員となって、パートの中で音を揃え、響き合わせて一つの音を作り上げる喜びはかけがえのないものなんだ。この音は飛び出している。バランスが悪く浮き上がってオーケストラの中では異物になってしまうんだよ。
僕がソリストとして演奏するだけならこれでもいいかもしれない。でもそれじゃだめなんだ。たった一人の孤独なバイオリニストにはならない。 なりたくないんだ。僕は圭の作ったオーケストラが大切だ。それにコンマスとして必要とされているのがとても嬉しいんだ」
《それは、そのひとを・・・・・愛しているからってこと?》
「あは。・・・・・うん、そうだね。圭を愛している。彼のそばにいることが僕の望みだ。だからここに残ることは出来ないよ」
《だったら、悠季。あなたにはどうしてもここにいてもらう。そのようにする!》
「な、何?」
不意に少年のからだから風にも似た威圧感が噴き出す。
《あなたはここにいてわたしのためにバイオリンを奏でるの。いつまでも、永遠に。そうすればあなたのバイオリンは誰よりもすばらしい音を響かせるから。それがわたしへのなによりの供物となるから》
強烈な圧迫感がその場を支配する。
悠季っ!?
僕は飛び出していって悠季のもとへと駆け寄ろうとした。
だが。
動けない!?
からだを動かすことが出来ない。声を出すことも出来ない。
必死で悠季に呼びかけようとするのだがくちびるを動かすことさえ出来ず、ただ見ていることしか出来ないのだ。焦燥と混乱だけがじりじりと身のうちを焼いていく。必死でもがいている間にも悠季と少年とのやりとりは続いていく。
《昔、あなたはわれの社に来てバイオリンを弾いてくれた。だからこれからもわれのためだけに弾いていて欲しいの》
「だめだよ!もし君が僕をここに閉じ込めれば、絶望して僕の中の音楽は死ぬよ。きみが望んでいるような音はもう出てこない。それでも無理強いするの?」
風が吹き荒れる中、平然とした姿のままきっぱりとした口調で悠季が言う。まるで少年の威圧を感じてはいないかのようだった。
少年、いやヒトではない何かは、悠季の言葉に頭をかしげていたが、無表情が崩れて悲しげな表情になったかと思うと、ふいに手に触れそうなほどの圧迫感は消えうせた。
《本気、なのね?われがあげようとする加護より、あなたはこの俗世の濁ったざわめきの方が好ましいと》
「うん、ごめんね」
優しげな声が謝った。
《だったら・・・・・返してもらう》
声が冷ややかさを帯び、先ほどとはまた違う酷薄な響きがあった。
「・・・・・えっ!?」
《昔あなたはわれに願った。どんなことをしてもバイオリンが弾けるようになりたいと。だから与えた。望んだとおりになるように幸運と加護とを。
そのときにわれは言った。あなたが望んでいたバイオリニストになれたなら、われのところに来てほしいと。あなたは約束してくれたはず。
でもあなたがわれのところに来てくれないという。われとの約束を破るのなら、与えた加護を返してもらう》
「・・・・・そんなこと、僕は言った・・・・・のかな?」
ひゅっとのどが鳴る。ゆらりと悠季のからだがかしいだ。
《あなたは冗談のつものだったのかもしれないけれど、われの前で口に出した言葉は誓言となる》
「それじゃ・・・・・ずっときみから幸運と加護をもらっていたということなのかな?もしかして、僕がプロになれたことやロン・ティボーに優勝したことも・・・・・きみのおかげだったということなの?」
ふるえかすれた声は自分の才能を信じられなかった頃の自信のない声だった。悠季の問いに少年は何も答えない。
嘘だ!!
僕は叫ぼうとした。だがからだはぴくりとも動かない!なんということだ。
悠季は少年の顔をじっとみつめていたが、やがて深いため息をついてうつむいた。
「・・・・・はは。そうか、僕のような凡才がプロのバイオリニストになることが出来て、そのうえ天才ばかりが揃っているロン・ティボーで最優秀賞を獲ることができたなんて出来すぎだって思ってたんだ。そうか、君が力をくれていたから一流のプロのバイオリニストになれたってわけだったんだね。知らなかったよ。僕にそんなすごい才能なんて・・・・・なかった・・・・・のか」
悠季の声が震え、顔をおさえているのが見えた。
悠季!!
だが彼に僕の声はどうしても届かない。
彼が無言のうちに慟哭しているのがわかった。しかし、それは長くはなかった。
「あは、・・・・・だったら、しかたないね」
次に悠季から出てきた声は思いがけないほどきっぱりと明るいものだった。
「うん、僕自身に才能がなかったというのなら、きみに貰ったものだというのなら、潔く返上してプロのバイオリニストは廃業するよ。そうだね、宅島君の手伝いでもして、またフジミに復帰させてもらえば・・・・・アマチュアとしてならバイオリンを弾ける・・・・・かな」
無理に笑う声はほがらかだが、その裏に潜んだ絶望は深く彼を切り裂き、涙と深い痛みを胸の中に隠しているのがわかる。
なんという残酷な言葉を!バイオリンをこよなく愛する彼にとってはどれほどの悲劇か。
それでも借り物の才能で自分をごまかすようなことをしようとはしない。悠季はいさぎよく誇り高いのだから。
ぎりぎりと腹が煮える。彼を追い詰めたあの存在がひどく腹立たしい。
あれは彼を苦しめるだけの虚言を弄しているのだ。
僕には分かる。
彼のバイオリンの才能は誰かに与えられたものなどでは断じてない。バイオリンを愛する心を魂に刻み込まれ、血のにじむような絶え間ない努力の末に才能は磨かれて今の演奏は出来上がったものだ!
彼を抱きしめて、アレの言うことは嘘なのだと、きみのバイオリンの才は本物なのだと言ってあげたい!
しかし僕のからだはまったく動かないままだった。
《あ〜あ、もう!》
ふいに、少年はあきれたというように叫んだ。
それまでの張り詰めた重い空気は・・・・・すっかり消え去っている。いったい何が起こったのか?
《なんでそう悠季はあきらめが早いのかな!なんでもすぐにあっさり信じちゃうんだから》
はあ、とため息をついて肩を落とす。
《われの言うことを疑ってくれればいいのに。そうじゃなければやっぱり加護が欲しいからって、言ったことを取り消すか迷ってくれればこっちも溜飲が下がったというものなのに。
そんなにあっさりとあきらめて放棄してしまおうとするなんて、ああ、なんてつまらない!本当に欲がないんだからなぁ!》
じたばたと座っていた足を動かした。
「え?な、何?」
《・・・・・ああ、やめたやめた!しかたないなぁ。潔くあきらめるよ》
急に態度が変わった少年に、悠季は戸惑うばかり。
《悠季、バイオリニストをあきらめるなんてことはしなくてもいいよ。あなたが持っている才能は本当にあなたのものだから》
ひらひらと手を振って、自分の言葉を否定してみせた。
「え・・・・・ええっ!?」
悠季はいったい何を言い出したのかと、ぽかんとした顔をしている。
《われが与えていた加護はほんのこの数日のこと。でも気に入ってもらえなかったよね。おかしいと思ったみたいだから。
われが押し付けていたものをあなたは排除しようとしていたものね。無意識だったかもしれないけど。
悠季、プロになったのもコンクールに優勝したのもすべてあなた自身の実力で、誰から与えられたものではないから安心して。間違いなくあなた自身が今のあなたを作り上げてきたものだから。
昔われに語ってくれた言葉は誓言にはならなかった。そうしようと思っていたのに、あなたは次の日に来てくれなかったから加護をあげられなかったの。
せっかく社に来てわれと話してくれた純朴な男の子が、今もわたしのことを覚えていて、久しぶりにまたやってきてくれたことを嬉しく思ったのに、われの思うようにしてくれないし、言うことを聞いてくれないからちょっとだけ意地悪を言ってみただけ。
ごめんね》
ちょっと肩をすくめてみせた。
《悠季はひとりぼっちの寂しい男の子ではなくなってしまったんだね。今はたくさんの人に愛される素敵なバイオリニストなんだね。われは必要ないということなんだね》
「うん。そうだね。そうなりたいと思ってる。何人もの人のおかげでそうなることができた」
悠季の言葉に不思議な少年は小さくため息をこぼした。小さな肩はひどく頼りなげに見えた。
「だから、今度はちゃんと約束するよ。きみとここにいることは出来ないけど、またきみのところへ来て弾いてあげるから」
《・・・・・そう。また聞きたいな。できるなら。
でもとりあえずそのバイオリンは返してもらわなくては、ね。今のあなたには必要のないものらしいから》
小さな手を差し伸べた。
「うん、少しの間だけど、弾かせてくれてありがとう。とても嬉しかった」
悠季がバイオリンを差し出すと、空中に浮きあがっていき、すうっと空気に消えていった。
《それじゃ、お別れだ。あなたに祝福を。これからの活躍を願っているから》
そういうと、少年は闇の中で背中を向けて歩き出そうとしたが、ふいにとまった。
《あ、言うのを忘れてた。帰りのことだけど、迎えが来ているみたいだからわたしが送らなくてもいいよね》
じゃあね。
そう言って歩き出した少年の姿は次第に朧に消えていき、くすくすと楽しげな笑い声が最後に残る。
「えっ!?どういうことなんだい?」
悠季の戸惑った声が尋ねても応える声はもうない。人ではないモノの気配は完全に消えてしまっていた。