【 2 】









夜中にドアの音がしたのに気がついて目が覚めた。視線を動かせばまた隣に悠季がいない。

昨夜のようにトイレなのかと思っていたのだが、いつまでたっても戻ってこない。
僕は少し不安になって、バスローブを羽織って階下へと降りていった。
いるのではないかと予想していた音楽室に姿はなく、他の部屋にも悠季の姿はなかった。
思いついて玄関へと行き、靴を確認してみれば彼が普段はいている靴がない。
いったいどこへ行ったというのだろうか?
こみ上げてくる不安を感じながら、捜しに行くべきかそれともこのままここで待った方がよいのか迷いながら、キッチンの椅子に腰を下ろし・・・・・。







「圭、朝だよ。朝食の用意が出来ているから」

「・・・・・えっ!?」

声に驚いて目を開けてみると、そこは僕たちの寝室のベッド。いったい僕はいつの間にここへ戻っていたというのだろう?

「どうかしたの?」

「いいえ・・・・・なんでもありません」

それではあれは夢だったのだろうか。悠季がいないときのことを思い出して不安になったから見た夢だった、とでも?
いぶかしく思いながらも、あまりにも不合理なことなので、笑い捨てることも出来ない。

頭の中であれこれと昨夜の件に対して合理的な理屈を構築しようと思案しながらベッドから出てシャワーを浴び、時計をちらりと見て急いで着替えて階下へと降りた。
せっかく悠季が作ってくれた朝食を冷えてまずくするのは申し訳ない。食卓にはアジの干物に味噌汁と薄甘い出し巻き卵という和食が用意されていた。二人ならんで食事をし、この後のスケジュールを確認する。

「今日はちょっと銀座まで行こうと思ってるんだ。欲しい楽譜があるんだけど、この近くにはないんだよな。問い合わせたらあるというんで買ってこようと思ってる。それから睦子さんのところに寄ってちょっと挨拶してこようと思ってるんだ」

睦子さんとは彼の後援会長である画廊の女主人、木村睦子女史のことだから、秋からのサロンコンサートの打ち合わせも兼ねているのだろう。

「帰りは遅くはならないと思うから、夕食の用意をしようか?君の方は、今日はフジミがある日だよね?」

「ええ、早めに夕食を摂ってから出かけます。無理をして急いで帰ってこられなくても大丈夫ですよ。今日は日中休みなので、僕が食事の準備をしておきますから」

「いいの?最近きみにばっかり作らせちゃってるんだけど」

「いい気分転換になっていますから、気にしないでいてください」

「・・・・・ならいいけど」

あわただしい朝の時間、僕たちは出かける前の挨拶のキスをかわしてから悠季を送り出した。
家の中をかたづけ、次に演奏する予定の曲を勉強し、午後には散歩がてらに商店街まで買い物に出かけ、帰宅すれば夕食の用意をする。ごく普通の一日だ。
朝言っていたように早めに悠季が帰宅して二人で夕食を済ませる。僕はフジミの練習に出かけ、悠季は購入してきた楽譜の練習に取り掛かることになった。

「ただいま帰りました」

僕がフジミの練習から帰ってくると、音楽室の方から悠季の奏でるバイオリンの音色が聞こえてきた。どうやら防音扉を開けたまま練習しているらしい。僕の帰りを待っていてくれているということか。

が、

背筋にぞくりと戦慄が走った。あまりにも鬼気迫る演奏だったもので。

いったい悠季に何があったというのだろうか。こんな緊迫感と迫力を演奏にこめているとは。

彼は自分が取り組んでいる曲について、ふいにインスピレーションを受けて寝食を忘れて練習に没頭することがある。研ぎ澄まされた集中力がバイオリンに関すること以外の情報をシャットアウトする。
今までにも何回もあった事だ。しかし現在は根をつめて熱中しなければならないような予定はなかったはずだ。

不安はつのるが、いったい何が起きているのかがわからない。

ふっとバイオリンの音が止まった。

「ああ、帰ってたんだね。おかえり」

「ええ、ただいま帰りました」

すたすたと近づいてきて、挨拶のキスをしてくる。

バイオリンから離れればいつもの悠季だった。あの張り詰めた気配は消え去り、背伸びをしながら寝るための準備をしている彼の姿にはくったくがない。

二人でベッドに入りいつものように眠る。

ぱたり

遠くで扉が閉じた音がしてまた目が覚めた。急いで手を伸ばしてみればまた隣にいるはずの悠季の姿がない。

やはりあれは玄関の音に聞こえる。錯覚や聞き違えではないようだ。

ふと思いついて窓から外を覗き込んだ。すると、庭から外へと歩いていく人の姿が見えた。街路灯のあかりに照らされていたのは見覚えのあるもの。

「悠季!?」

急いで後を追うつもりだったが、今の僕はいつもの就寝姿。つまり裸のままだった。あわてて用意してあった服を身につけ、玄関を出て悠季らしい人影を追った。

深夜のことで、誰もいないことが幸いだった。大男が血相を変えて走っていくのだから。だが、そんな自分の姿に気を使っている暇はない。遠く前を行く人影を追うだけで必死だったが、前を行く姿にまるで追いつくことができない。走っている様子もないのに、僕の全速力でも追いつけないのだ。

それでもなんとか追っていったのだが、四つ角まで行ったところで彼を見失ってしまった。
彼はどちらに行った?
あちこちを走り回ったがどこにも彼の姿はなかった。どうするべきか迷っていたのだが、警察に連絡するにしてもとにかく一度帰らなければ。
ひとまず家へと戻ってみたのだが・・・・・。

「靴が、ある?」

すれちがいになったものなのか、悠季はすでに帰ってきていた?
急いで寝室へといってみると、そこには普段とまったく変わらない様子で眠っている彼の姿があった。

「・・・・・悠季?」

小さく声をかけてみたが、返事はない。空寝ではないことは寝息の深さで分かる。

もしかして、悠季は夢遊病にでもかかってしまったのだろうか。
それとも精神的な何か?
言い知れない不安がじりじりと胸を焦がしていく。




「昨夜はどこかに出かけませんでしたか?」

翌朝、朝食の席で僕は悠季にさりげなく尋ねてみた。

「僕が?夜中に?なんで?」

きょとんとした様子で首をかしげてみせる。

彼に嘘をついている気配はなかった。もともと悠季は嘘が苦手で、ささいなことでも表情やしぐさに表れるほど感情が豊かだ。もし僕の言葉に嘘をついているのなら態度や気配にぎこちなさが出てきたことだろう。今の彼はまっすぐに僕を見ていて瞳に揺らぎはない。

「トイレに行かれたりとかは、しませんでしたか?」

「いいや、朝までぐっすりだったよ。でも、なんでそんなことを聞くの?」

「・・・・・夜中にベッドに居られなかったようだと」

僕は言葉を濁した。

「気のせいじゃない?それとも寝ぼけたとか?」

悠季の口調はごく普通のものだった。

おかしい。

こう何日も同じような異変が続くのであれば、何かあるとしか考えられない。

もし彼の身に何か起きていたら。
思いつくかぎりの最悪の結果がいくつも頭をよぎり、その想像が確定してしまうのではないかという不安が口を重くし、これ以上のことを問い詰めるとこをはばからせる。

「その、きみが外に出て行くのを見た気がしましたので」

「ええ〜?そんなことあるはずないじゃないか。きみの気のせい、気のせい」

けらけらと楽しそうに笑う。あっけらかんと、楽しい冗談を聞いたかのように聞き流し、ひらひらと手を振って音楽室へと入ってしまった。
あまりにも浮ついた反応は更に不安をかきたてる。普段の彼ならば僕の言った言葉をもっと真剣に受け止めてくれるはずだ。

それに、悠季の体調のことも気になっている。食欲はさほど落ちてはいないのだが、見た限りでは数日前より痩せてきているように思う。それなのに彼の目がいつもの生き生きとした穏やかさとは違う。目の下には薄い影があるのに、強い精気に満ちていてどこか尋常ではない熱気を帯びているのだ。

気のせいだ。

きっと僕の勘違いに違いない。疲れが根拠の無い不安を増幅しているだけだ。

必死に自分へと言い聞かせてはみたものの、納得できるはずもない。




夜になり、いつものように二人でベッドに横になり眠りにつこうとしたのだが、やはり気になっていてすっかり目が冴えてしまった。
隣で何も気にする様子なくすやすやと眠る悠季の様子をうかがっていたが、彼には何も変わった様子はない。

僕はどうしたものかと迷っていたが、意を決した末に思い切って起き上がり、服に着替えて昨夜のように階下に向かった。
もし昨夜のように悠季が出かけるのだとしたら、すぐに後を追って振り切られないようにしようと思ったのだ。馬鹿げたことだとは思うが、どうしても気になってしまい自分を納得させるためだけに悠季を見張る。

時計はすでに午前二時を回っていたが何事も起こらない。時間が過ぎるにつれて自分の心配があまりに妄想じみている気がしてきて、ベッドに戻ったほうがいいのではないかと迷いが出てきた頃、二階からかすかな物音が聞こえてきた。

すうっとすべるような足取りで悠季が降りてきて、廊下から玄関へと向かう。

「悠季、待ってください!いったいどこへ行くつもりですか?」

急いで声をかけたのだが、悠季に僕の声が聞こえていないのかそれとも無視することに決めたのか、こちらを向こうともしなかった。

手を肩にかけようとしたところでするりと身をかわされて、そのまま玄関を出て行ってしまった。このままでは見失ってしまう。僕も急いで靴を履き後を追う。わずかな時間だったのに、玄関扉を開けて周囲を見回したのだが姿はどこにも見えない。

走り出してみたが・・・・・見失ってしまったのだろうか?

曲がり角まで走っていったところで、ちらっと目の隅に動いた影に気がついたのは本当に僥倖だった。
急いで後を追えば、やはりそれは悠季だった。だが彼は普通に歩いている様子なのにまるで追いつけない。昨夜と同様に。
声をかけてもまるで聞こえていないようで、振り向くこともなくどんどん先へと進む。

僕は必死で彼の後を追っていった。夜中に血相を変えて走っていく姿を誰かに見られたら何事かと思われるかもしれないという常識的なことがちらりと思考の隅をかすめた。
しかしそんな心配はまるで必要ないということすぐ気がついた。

僕たちが進む道には誰の姿もなかったのだ。

これはおかしいと思い始めたのはそのあたりからだ。
このあたりは住宅街だが、夜遅くでも帰宅途中の人やコンビニへと行く人の姿などが見られるものだ。誰もが寝静まって部屋の明かりが消えた深夜であってもどこかに人の気配がある。
それなのに、今は街路灯の灯りもぼんやりとうす暗くてあたりの住居はおぼろに消え、周囲にまったく人の気配がない。そんなことはありえないことだった。

その上、僕の先を進む悠季の姿が淡く浮き上がって見える。まるで彼の姿だけがほんのり光っているかのような、幻想的な光景が展開する。
しんと静まり返った暗闇の道を僕は急ぐ。自分の足音と荒い息づかいが聞こえるだけ。いったいこれはどういう状況なのか。

ふと、気が逸れた瞬間、僕は悠季の姿を見失った。いや、消えてしまったのだ。

まずい!

冷や汗が流れ、じりじりと身を噛むようなあせりを感じながら周囲を探し回っていると、ふと遠くからかすかにバイオリンの音色が聞こえてきたような気がした。必死で耳をすませて聞き取ろうとする。

「悠季!?」

確かに彼の音だった。しかし彼はバイオリンを持っていかなかったはず。まして、こんな夜中に弾くような非常識なことはしない、はずなのだが。

とにかく音をたよりに急ぐ。
このあたりには珍しい、屋敷林のような場所に出た。藪をかきわけて茂みを突き抜けていくと、ぽかりと突き抜けたようにまったく見知らぬ場所へと出てきてしまった。

木々が茂り、古びているが、鮮やかな赤い鳥居が行く手に立っており、その先には小さめだが都会では珍しいくらいの霊気をまとっている神社の社が建っていた。

「悠季!どこですか?」

見つけた!悠季は正面入り口の階の前に立っていた。

だが鳥居の中へ入ろうとすると、そこにはまるで壁でもあるかのようになっていて中に入ることが出来なかった。肩で押したり手で叩いてみたりするのだが、目には何も見えないのに、確かに僕を入れようとしない。急いでぐるりと周囲を回っていっても入れるところはまったくなかった。

「悠季!いったい何をしているんです!?さあ僕と帰りましょう!」

彼の姿に向かって声を限りに叫んでみたが、まるで向こうには聞こえていないようだった。それどころか、彼のバイオリンの魅力、むしろ魔力というべき力に負けて沈黙し、うっとりと聞きほれてしまいそうだった。



《邪魔ですね。かえってください》



ふいに僕のそばで誰かの声がする。

「なっ・・・・・にを・・・・・?」

ぱんと破裂音のような音がしたかと思うと、僕のからだはあっという間にその場からみるみるうちに遠ざかっていくようだった。
まるでそれは映画の中のシーンのように、実在感がない。
ぐにゃりと視界が動き、またたく間に目の前から神社も悠季の姿も消えてしまう。なんとか必死に戻ろうとするのだが自分ではまったくからだが動かなかった!



「・・・・・は・・・・・っ!!」

水面から浮き上がるようにして意識が戻ってくると、現実のそこは自宅の音楽室だった。

長い時間、必死で悠季を追いかけて走り回っていたはずだ。からだは汗にまみれている。

それなのに、時計を見てみると10分も経っていなかった。

「悠季!?」

急いで玄関へと向かうと、先ほどはなかったと記憶している悠季の靴は元の場所にあった。もちろん玄関扉に鍵は掛かったままで異常はない。
きびすを返し、急いでしかし音を立てないようにして二階へと上がる。
そっと寝室の戸を開き中を覗いてみると、窓からのわずかな灯りを受けて、ベッドにこんもりと盛り上がった人の姿がある。

ゆっくりと近づくと、そこにはやはり悠季が眠っていた。


まるで何事もなかったかのように。