【 1 】
ヨーロッパの音楽シーズンは秋から冬にかけてが主流であり、夏ともなればバカンスシーズンとばかりに楽団員たちもオーケストラを離れて遊びに出かけてしまうことが多いようだ。
もちろん、仲の良いものたちが集まって、小規模な演奏団を作ってみたりソロ活動をしたりとそれぞれが活動することもあるが、あくまでもそれは余暇であり、あるいはスキルアップのためであり、本格的な活動とは言えないことが多い。
もちろん野外コンサートなどという夏ならではのイベントもあるが、秋や冬のハイシーズンに比べれば数は少ない。
しかし、日本の音楽事情はいささか違う。
夏休みというものは、音楽家にとって違った意味の稼ぎ時であるのだ。子供たちにクラシックに興味をもたせようと、各地で小規模なコンサートが開かれたり、音楽祭にオーケストラが呼ばれたりする。
僕の場合も同様の事情になってしまっていた。
本来、悠季の夏休みにあわせて休暇をとっていたというのに、マネージャーの宅島がどうしても断りきれない仕事を突然持ち込んできて僕に呑ませたのだ。
テレビの紀行まがいのレポーター。芸能人ではなく、毛色の変わった人間に旅の案内をさせようという企画らしい。明後日の午後には帰れるとはいうものの、本職の音楽の仕事ではないため、気が進まない。
しかし悠季の方にも急な仕事が入ってしまっていたので、悠季と過ごしたいという想いを盾にして断固拒否する言い訳もならず、オーケストラの宣伝にもなるのだという宅島の尻叩きにあい、渋々仕事に向かうことになった。本当であれば、明日帰宅する予定の悠季のためにあれこれと準備しておくつもりで計画していたのだが。
乗らない気分はため息一つで吹き飛ばし、シャワーを浴びてきっちりとスーツに着替えると、玄関に出て額絵の光一郎氏に挨拶する。
さて、出かけますか。
僕が靴を履こうとしていると、ふいに玄関扉が開いた。
「ただいまぁ。・・・・・ええっ!?」
思いがけないことに、入ってきたのは明日帰宅予定のはずの悠季だった。
「お帰りなさい」
「どうしてきみ、玄関で出迎えてるの?」
僕も驚いたが、悠季は更に目を丸くしてびっくりしていた。愛らしい姿を目にすれば、条件反射のように悠季のからだを抱き寄せてしまい、僕の腕や嗅覚、いや全身で留守中に足りなくなっていた悠季を補充する。
「帰宅は明日の予定になると言われませんでしたか?」
「うん、それがさ、思ったよりも早く空港に着けたんで、一つ前の飛行機の便に早く乗れてね。予定よりも早く日本に帰れたんだ」
にっこりとあでやかに微笑み返してくれたのを見れば、先ほどまでの僕の不機嫌はあっという間によくなるというものだ。もちろん、そのままお帰りなさいのキスとそれ以上のものを徴収することにした。
「ちょっと圭っ!もしかしてその格好だと、ちょうど出かけるところだった?」
「大丈夫です。仕事はキャンセルしますので」
「ちょっと、圭!んんーーっ!」
すれ違い仕事が重なっていたせいで、数日ぶりに悠季に会えたのだ。ここでまたすれちがいになるわけにはいかない。僕は挨拶のキスを更に深く官能的なものにするべく、悠季を抱きしめなおしたのだが、ぱしぱしと背中を叩かれて抗議されてしまった。
「こら、だめだって。ちゃんと仕事しておいで」
「ですが、出かけてしまえば帰宅は明後日になってしまいます」
「明後日はフジミの練習はないんだろ?僕が夕食を用意して待ってるから、きちんと仕事をしてきて」
生真面目な悠季は、思ったとおり僕を押しはなしてきっちりと説教する。
「・・・・・はい」
いかにも渋々といったトーンが声に混じる。だが、悠季の言うことは正当だ。
「帰ってきたら久しぶりに二人でゆっくりしようよ、ね?」
色めいた上目遣いで悠季が微笑んで言えば、僕の機嫌はたちまちなおるのだから、現金なものだ。
ええ、二人だけの時間を楽しみに、それまでに野暮な雑事は消化しておきましょう。
「この間、ちょっと面白いことがあったんだ。きっと君も興味があると思うから」
「帰ってきてからの楽しみにしておきます」
僕は悠季との夕食(もちろん、それだけではないが)を楽しみに、いそいそと出かけていった。
「ただいま帰りました」
我が家の玄関を開けたとき、ふと、かすかな違和感を感じた。
それはほんのささいなトゲのようなもので、気のせいだと思ってしまえばそれまでのことなのだが。
いぶかしく思いながら、いつものように光一郎氏の絵を見上げると、普段と気配が違う気がした。悠季と違いその手の霊感など感じない僕なのだが、なにやら額の中の彼の表情が不安げに見えたのだ。
だが、それも一瞬のこと。
「お帰りなさい」
ぱたぱたと奥から足音が聞こえ、悠季が迎えに出てきてくれれば、あっという間に疑問に思ったことなど思考から消えてしまっていた。
ただ、彼の姿を見て、気になったこともある。
「悠季、顔色がよくないようですが大丈夫ですか?」
「え?そんなことないと思うけど」
ぺちぺちの自分の顔をたたいてみせた。
出迎えに出てきてくれた彼の顔色がわずかに青ざめて見えたのだが・・・・・照明のせいだったのだろうか。
シャワーを浴びて食卓に着けば、すでに夕食を整えて待っていてくれていた。田舎料理だと彼が言う、僕の好きな家庭的な和食の数々だ。
「やあ、うまそうですね」
「味付けはどうかな?ちょっと濃くない?」
「いえ、美味しいですよ」
「ならよかった」
肉じゃがやサワラの西京焼きなどを堪能しつつ、出かけるときに悠季が言っていたことを思い出した。
「そういえば悠季、出掛けに言っていた『面白いこと』とはいったい何です?」
「えっ?・・・・・なんだっけ。そんなこと、言った?」
悠季が首をかしげていた。記憶力のよい悠季にしては珍しいことだ。
「うーん、なにを言おうとしてたんだろう?」
「たいした話題ではなかったから、他にまぎれてしまったのでしょう」
「うーん、そうかな?楽しみにしてたのなら、ごめんね」
すまなそうに謝罪してきたが、あくまでも話題として振ったまでのこと。気にはしていない。
「いえ。きみに出迎えてもらっただけで満足ですよ」
照れたように笑って、上目遣いにちらりとこちらを見る悠季のまなざしは、今夜への期待に満ちて十分に色香を含んでいる。
「明日のご予定は?」
「急ぎでしなくちゃいけない用事はないよ」
ほんのりと目元が赤い。ということは、タガをはずしてもよいということでしょうかね?
僕は手を差し伸べて悠季の手を取り、そのまま二階へと上がっていった。
僕たちは久しぶりに愛し合ったのだが、悠季が思っていた以上に疲れを溜めていたのか、三回目の途中で眠り込んでしまったのが残念だった。もう少し堪能したかったのだが。
彼の甘くかすれた「ねえ、もう入れて」という嘆願の声が聞きたくて、ついつい何度も気をそらせていたのがまずかったのか。悠季の色っぽい声についつい加減を忘れてしまっていた。
そういえば帰ってきたとき疲れているように見えていたというのにそれを失念していたのがまずかった。
とは言え、愛する人とのぬくもりは心地よいもので、満足のうちに抱き合って眠りについた。
僕の眠りは深いほうであり、夜中に目覚めることなどほとんどない。それなのに珍しいことに夜中にぽっかりと目が覚めてしまった。
無意識なまま隣に手を伸べると悠季がいるはずの場所にはぬくもりはなく、シーツがひんやりとしている。
「悠季?」
トイレだろうか?
僕は思い切って探しに行こうか迷っていた。だが、たまたま夜中に隣にいないからといって探しに行くのではあまりにも子供っぽい。悠季に笑われるのがオチというものだ。
しばらく目をつぶったまま待っていると、やがてぱたりとドアが閉じる小さな音とともに悠季が戻ってくるのがわかった。
ふぅと小さく一つため息をついてベッドにもぐりこんで来たのを寝たふりをしたまま様子を伺っていると、ごそごそと僕に寄り添ってきてそのまま眠ってしまった。
少し肩が冷えているように思えたから、やはり長く外にいたようだ。だがそんな思考はすぐに消え、彼の気配とぬくもりに安堵し、僕もまた眠りに落ちていった。
翌日の朝、悠季はどこかやつれているような様子だった。
昨夜、無理はさせていなかった。少なくともそれほど無理なことを要求したつもりはないはずだが、これまでの疲れがたまっていたのかもしれない。目の下にかすかにクマがにじんでいる様子がけだるげでなんとも悩ましく・・・・・そそられてしまう。
あー、これ以上彼に無茶を仕掛けるつもりはないのだが。
「疲れがたまっていたのですね。申し訳ありません」
「そんなことないさ。ただもう少し・・・・・その、いじめないで欲しいかな。まあ僕だって、その、喜んでたんだから悪くはなかったんだけど」
ぽっと耳元が赤く染まってくるのが愛らしい。
「ではおわびに今日の食事は僕が用意しましょう。きみは休んでいてください」
「あはは、うん、よろしくね」
悠季はにっこりと笑うと、僕のくちびるの端にキスをしかけてきた。もちろん、そのまま手放すはずはなく、僕は彼とのキスを存分に堪能させてもらった。
休んでいて欲しいといっても、基本的に勤勉な悠季のことだからそのままずっとおとなしくしているはずもなく、シャワーを浴びて食事を済ませると、そのままバイオリンを片手に音楽室へと向かってしまった。練習したい曲があって、先を続けたいのだそうだ。
気に入らない箇所があると言っていたが、音楽室からもれ聞こえてくるバイオリンの音は先日聞いたものより更に研ぎ澄まされて美しい。それでも悠季は更に上を目指して精進しているのだろう。
とは言っても体力と集中力は比例するものだ。練習は早い時間に切り上げ、僕が作った夕食を食べて風呂に入り、早めに就寝した。
いつもの僕たちの平穏な生活。
だがその平穏がわずかな異変によって次第に侵食されていっていることに、このときの僕はまったく気がついていなかったのだった。