【 第8章 下 】
「さて、帰りはどうすればいいのかな?」
悠季が尭宗の部屋から出てリフトに向かうと、リフトの入り口には圭が立っていた。
「悠季さん、君の部屋までお送りします」
悠季は戸惑ってしまった。
どうして忙しい彼が自分の面倒を見ようとしてくれるのだろう、僕にあまりいい感情を持っていないようにしか思えないのに、 と。
「ありがとうございます。でも僕でしたら、教えていただければ自分一人で部屋まで戻れますから大丈夫です」
「いえ、今まではあなたの扱いがきまっていませんでしたので、とりあえず仮に一般客室に入っていただきましたが、桐ノ院の客分という事になりましたので部屋を変えました。どうぞ僕と一緒に来ていただけませんか」
「僕はあの部屋で充分だったのですが・・・・・」
「あそこは来客用ということで、あまりに雑然としています。サラマンドラのことをあまり知らない者達の注目を引いて、無用な騒ぎは起こしたくありませんし、バイオリンを弾かれるのでしたらもっと音響が良い部屋がありますので、そちらに移っていただいた方が、練習にもよいと思いますが」
「・・・・・ありがとうございます」
二人はまたリフトに乗り込むと、さほど時間も掛からず到着した。どうやら桐ノ院家のプライベートフロアとあまり遠くない部屋が用意してあったようだった。
圭は部屋の前へ行くと、アイヴァスを呼び出した。
《はい、船長》
「この部屋への移動登録を行いたい。この福山悠季さんをこの部屋の持ち主として承認せよ」
《了解いたしました。ただ今よりこの部屋の主として、福山悠季様をお迎えいたします》
ドアが開き、圭は悠季をエスコートして中に入った。部屋の中は前の部屋と比べ物にならないくらいに広くて、豪華なしつらえがしてあった。
そういう贅沢に慣れていない悠季にとってはむしろわずらわしいものであって、心ひそかにため息をついていたのだが。
しかし、音響がいいというのは確からしく、ここでレッスンを、と言われた部屋の中で手を叩いてみると程よい音がする。部屋の隅には小さめなピアノまで置いてあった。
そうやって音楽環境の良さに悠季が満足すると、圭は一般的な壁収納方式のソファーではなく、広い部屋に固定して置いてある居間のソファーに座るように悠季にすすめてから、彼に深く謝罪した。
「実は先ほど飯田君からこちらの手違いを聞きまして驚いたのですが、大変申し訳ないことをしました。悠季さんは宇宙船に乗るのは初めてだったそうですね。二日間も不自由な生活をおさせしましてすみませんでした。お詫びに僕がこの船の中をご案内いたしますので、どうぞ何でもおっしゃってください」
「あの、船長の仕事はお忙しいのでしょう?僕なら飯田さんに聞いたり自分で調べたり出来ますので、あまり構わないでいただきたいのですが」
「僕がご案内するのでは、嫌なのでしょうか」
「いえ、そんなことはありませんが・・・・・」
「それでは、僕の空いた時間を使って案内をしますので、遠慮なくどうぞ」
「はあ・・・・・」
「それではまずこの部屋の設備について説明しようと思いますが、よろしいでしょうか」
悠季はうなずくと圭についていき、部屋の中の説明を聞いた。
「基本的にアイヴァスに言えば何でも出してくれます。特殊なものであれば確認が必要ですが。服はこちらに。僕が適当に数枚用意しておいたのですが、好みが違うようでしたらアイヴァスに言っていただければ、用意できます。
食事はこのフードユニットに表示してある食品なら全てここに運ばれてきます。調味料の好みや量などは最初に設定しておけば次からはあなたの好みの味付けにしてくれますので。
また他の人たちとの食事がしたい場合は、公共フロアにレストランや喫茶店もありますから、今度そちらをご案内します。」
居間はレッスン室と一続きになっていて、一室にすることも区切ることも出来る。
隣には寝室と風呂場と小さなキッチンがついていた。キッチンには、簡単な飲み物をサーブしたり、軽食を温めるためのレンジくらいしか置いてはいなかったが。
圭は部屋にある様々な設備を要領よく説明していき、最後に分からないことがあれば、気軽にアイヴァスを呼び出して聞く事を薦めた。
「アイヴァスは、部屋にいる者を快適にするのが仕事です。少しでも不満があれば、言ってください」
「あの、この船の中では、個人的に料理とかは出来ないのでしょうか?」
「料理、ですか。悠季さんがされるのですか?」
一瞬間を空けて、桐ノ院が聞き返した。
「あー、実は僕の趣味なのです。恒河沙にいた頃は祖父にもよく作っていました。出来れば簡単な調理器具が欲しいのですが、この部屋に持ち込むことは出来ないでしょうか?」
「分かりました。それでは用意させましょう。ただし船の中では炎を出すことは出来ませんので電磁調理器ですが、よろしいですか?」
「はい、恒河沙でもそれを使っていました。ありがとうございます」
悠季は嬉しそうに言った。
彼はフードユニットから出てくる食事では味気なく思え、レストランで食事をしたりすることは贅沢に思えたのでこのように頼んだのだが、実は船の中ではむしろ自分で料理する事の方が贅沢なのだとは、まったく気がついていなかった。
「悠季君、少しは船に慣れたかい?」
「はあ、この船は本当に大きいですね。先日二度ほど船長に案内して頂いて回ったのですが、もう混乱してしまいまして、何がなんだか分からなくなってしまいました」
ここは、船の中にある公共フロアの一角の喫茶店『モーツアルト』。公園のすぐそばにある店だった。
美味しいコーヒーを飲ませてくれる所があるよと、先ほど飯田が悠季を誘い出して連れてきていた。
「まあしばらくはそうだろうな。しかしあの忙しい殿下が君を案内して回ったって?」
「そうですけど、やはりお断りするべきだったのでしょうか、仕事が多くて大変な方なのでしょう?」
悠季が心配そうに言った。
「断ったりしたら、殿下は泣くぜ」
悠季は目をみはった。
「泣く、ですか?あの船長が?」
「おいおい、悠季君、殿下が君に気があるのはすぐに分かる事じゃないかい」
「気がある、ですか?あの方が僕に興味があるらしいというのは分かりますが・・・・・。でもそれはただ新しく来た人間ということで、物珍しさに気を惹かれたというだけだと思いますけど。恋愛の対象としてではなくて、目新しいものへの好奇心というか・・・・・」
その時、ふと悠季の脳裏に浮かんだのは、小早川匡の言っていたこと。
『・・・・・君をあの【暁皇】の船長に贈れば彼はきっと喜ぶことだろう。彼は私と同じように綺麗な男の子が好きだそうだからね・・・・・』
船長は小早川匡と同じように僕のからだが欲しいのだろうか?
しかし、飯田は顔をこわばらせている悠季には気づかずにこう言った。
「・・・・・やれやれ。君にそう思われているんじゃ奴も気の毒に。しかし悠季君、あんまりやつをもてあそぶような真似はしてやりなさんな。結構思い込むと突っ走るやつだからな」
悠季はその言葉に困ってあいまいにうなずいた。
悠季には恋愛は気が重い。
ただでさえこの船ではどうも居候の気分が抜けず、周囲に気兼ねしながら過ごしている。
その上船長から恋愛のアプローチなどされたりしたら、――いや、されるはずもないが――断る事が出来にくい立場なのだから、勘弁して欲しかった。
悠季は密かに、これからは船長の案内をうまく断ろうと考えていた。自分をあんなハンサムな船長が恋愛対象に思ったりするなどとは夢にも思えず、からだ目当てなら真っ平だったからだ。
この先はただの船の乗客として、緑簾まで連れて行ってもらえばそれでいいのだから、どうかあまり興味を持たれませんように・・・・・そう心の中で、願っていた。
物珍しさから今は自分に構っているのだろうが、しばらく放っておけば忙しい彼のこと、こんなひょろひょろしたやつの事など忘れて、他に興味を移すだろう。そうすればあとは誰にも注目されることもなく、咎められることもなく、平穏に船での生活を過ごして、緑簾でさっさと船を下りて、祖父の友人のところに行けばいい・・・・・それが一番いい方法に決まっている。
悠季は心の中に浮かんでくる残念だと思う気持ちをひねり潰した。
この船での生活がとても楽しいからと言って、いつまでも乗っていたいという資格はないのだから。まして、博識で親しくなれば面白いかもしれないと少し思えてきた船長と、友人としてなら付き合ってもいいと思う気持ちは更にまずい。
「あら飯田さんこんにちは、お久しぶりですね」
軽やかな女性の声が、飯田に話しかけてきた。
「おや川島君じゃないか、久しぶりだね。このところ君も忙しそうだったからね。君もここのコーヒーがそろそろ飲みたくなってきたのかい?」
「ええ、ここのコーヒーは本当に美味しいですものね」
彼女はちらりと悠季の方に視線を向けて、紹介してくれるように飯田に頼んだ。
「彼は、福山悠季君。今度この船に乗ってきたんだよ。彼はバイオリニストで、それはすばらしい演奏をするんだよ」
「まあ!今度是非聞かせてくださいね。私バイオリンの音って大好きなんです。どうぞよろしく、福山さん。私は川島奈津子と申します。船長の秘書をやっているんですよ」
嬉しそうに言う彼女は、悠季や飯田と同じアジア系の元気な美女で、長くて黒い髪を背中に流し、綺麗な目鼻立ちとよく動く表情が魅力的だった。
とても綺麗な人だな、と悠季は思っていた。
こんな風にはきはきと自分にしゃべりかけてくる女性は恒河沙にはあまりいなかったから、とても新鮮に感じられて好意が持てた。
「こちらこそよろしく、川島さん。僕の事は悠季と呼んでいただけませんか?僕は福山と呼ばれるのに慣れていないので、そう呼ばれるとおじいちゃんのことと勘違いしてしまいそうなのです」
「おじいちゃん・・・・・ですか?」
「福山正夫です。僕は彼の養子なので本来は『息子』なのでしょうが、年が離れているのでずっとおじいちゃんと呼んでいましたから」
「まあ、福山正夫さんの・・・・・。今回の航海で、恒河沙に捜しに行ったらお亡くなりになってらっしゃった方ですね。それはお悔やみ申し上げます。私もあの方の演奏が好きで、また汎同盟の方に戻って演奏を再開されるのを楽しみにしておりました」
「ありがとうございます。おじい、いえ、養父もそういっていただける方がおられたと聞いたなら、さぞ喜んだと思います」
「福・・・いえ、悠季さんは、あの方に見込まれるくらいですから、きっと素敵な演奏をされるのでしょうね」
悠季ははにかんで笑った。
「いえ、僕はまだまだ修行中の身ですから。ですが今度機会がありましたら聞いていただけますか」
「ええ、楽しみにお待ちしておりますわ。悠季さんはどんな音楽家の曲を得意にされているのですか?」
飯田を交えた三人は音楽の様々な曲について楽しく語り合った。しかしその姿を、悠季を捜しに来ていた圭がモーツァルトの外から見ていたのには誰も気がつかなかった。
公共エリアの公園の奥には、いささか手入れが雑になっている一角がある。
木の枝が茂り、ちょっとした隠れ場所のようになっているのだ。そこでは、木々が消音の役目をして、公園の外までは音も漏れていかない。
悠季は圭が現れそうな時間になると、そこに逃げ込むことにしていた。
一度口頭で案内を断ろうとしたのだが、弁舌にたけた圭の口説に押し切られてしまって、船内案内や食事に連れて行かれてしまう自分に気がついたからだ。
ここに来て、ナビという居場所を教えてしまう器械を外してさえいれば、彼に自分の居場所を知られる事はない。
この秘密の場所に『エマ』と名づけたサラマンドラの仔とバイオリンを携えて籠もってしまう。
茂みの中でバイオリンを弾いていると、恒河沙の森で弾いていた楽しかった頃の事が思い出されてくる。そうやって思い切りバイオリンを弾いた後は、モーツァルトに寄ってコーヒーを飲んで自分の部屋へ帰るのがここ数日の日課になっていた。
モーツァルトでは、船で仕事をしている様々な人と知り合いになった。恒河沙で悠季が脱出するのに手助けをしてくれた五十嵐君や、【暁皇】の中で薬剤師をしているという春山さんなど・・・・・。モーツァルトのマスターである石田氏は、悠季が店に来ると心得ていて、悠季の好みのコーヒーを淹れてくれるようになっていた。
彼らは悠季が連れ歩いているサラマンドラを怖がらず、受け入れてくれた。もちろん珍しい生き物であるサラマンドラにも興味を持っていたが、それより福山悠季という人物に興味を持つものが多かった。
この【暁皇】の中では、噂はあっという間に広がっていく。悠季は本人が知らないうちに、一躍有名人になっていた。
桐ノ院家の客分ということで遠慮がされて、あからさまに本人に聞いてくる事はなかったが、彼の生い立ちや恒河沙での生活、この船ではどうするのか、果ては桐ノ院圭氏との仲はどうなのか・・・・・。知りたがる者は多かった。
モーツァルトのマスターの石田氏は、店内で悠季に無遠慮に聞いてこようとするやからには、さりげなく邪魔をして悠季が煩わされるのを防いでいた。悠季に声をかけられるのは、そんなプライベートなことを聞いたりしない品位をもった人物のみ。
おかげで悠季は、船内で密かに自分が桐ノ院圭の口説きを受け入れるかどうかの賭けをされていることも、まったく知らなかった。
悠季自身とすれば圭が自分に求愛していることにさえ気がついていなかったというのに。
それよりも悠季は、このところモーツァルトの中で、着々と計画が進んでいる【暁皇】の乗員でアマチュアオーケストラを作ろうという話の方に興味を惹かれていた。
この船の中には、意外なほどの数で楽器を趣味とする人たちがいて、どうにかしてアマオケを作れないだろうかと前々から話がされていたのだそうだ。
マスターの石田さんが発起人となってあちこちに声を掛けていて、人数もかなり集まってきているそうで、悠季にもぜひ参加してみないかと誘ってくれていた。
今日も公園での練習を終えて、モーツァルトに立ち寄ると、またあの好感が持てる美女にばったりと出会った。
「おや川島さん、またお会いしましたね」
「あら悠季さん、もしかしてどちらかでバイオリンの練習をしてらっしゃったの?」
「ええ、まあ」
「あら残念。お聞きしてみたかったわ。この前ここでちょっと演奏された時は、とても素敵だったのですもの!」
「今日はただの指慣らしの練習だけですよ。お聞かせするようなものじゃあないです」
川島の言葉に、悠季は嬉しそうに答えた。
このところ尭宗が言っていた自分のバイオリンの欠点についていろいろ考え込んでいることが多かったので、楽しげな彼女の言葉は心を和ませてくれる気がした。
「ねえ、一度お願いしてみたいと思ってたのだけど、よければ、その子に私が触らせてもらう事は出来る?」
「ええ、いいですよ」
川島は恐る恐るサラマンドラのからだに触れてみた。
「極上のびろうどみたいな肌触りね」
川島がエマのからだを撫でてると、ぴるるる・・・・・と気持ちよさそうに鳴いた。
「あらこの子、いい声なのねぇ。それによく懐いているわ。サラマンドラがこんなに人懐っこいしぐさをみせるなんて思わなかったわ」
「ええ、藍昌でこの子と別れなければならないのは僕も残念ですけどね」
「この子をお返しになるの?」
「もともと僕のものではありませんでしたし、お預かりしていただけですから。それにこの子も仲間のいる所が1番幸せでしょうからね」
悠季は愛しそうにエマを撫でていた。彼女は何かに気がついたように、ずいっと顔を近寄せてきた。
「あら?悠季さん、もしかしたらあなたのその眼鏡、ただの素通しなの?」
ちょっと失礼。といって川島が悠季の顔から眼鏡を外してしまった。悠季も女性相手では、止めてくださいと怒るわけにもいかず、黙ってされるがままになっていた。
「どうしてこんな伊達眼鏡をかけているの?素顔のお顔の方がいいと思うわ。とてもハンサムさんですもの」
「・・・・・これは僕のお守りなんですよ」
「お守り、ですか?」
「おじいちゃんが僕にくれた、大切なお守りです。それがないと僕は・・・・・困るんです」
悠季の少し青ざめた顔と震えた声を聞いた川島は、申し訳なさそうに悠季に眼鏡を返してきた。
「本当にごめんなさい。私ったら無作法だったわね」
「・・・・・いえ。ではそろそろ僕は帰ります」
と言いおいて、悠季は店を出た。すまなさそうな彼女に気にしなくていいと明るく笑いかけて。
しかし、店を出ると自分が緊張していた事に気がついた。いまだに眼鏡を取られることには、かなりのストレスがあるのだ。
「困ったなぁ。いい加減この眼鏡を外したいのになぁ・・・・・」
悠季はため息をついた。
『食べタイ』がどれほど自分の中で重い足かせになっているか思い知らされた気分になっていた。
リフトで自分の部屋のフロアに戻り、考え事をしながら部屋の前まで行くと入口のドアの所に圭が立っているのに気がついた。
「悠季さん」
「・・・・・あれ?船長。僕に何か御用でしたか?」
「ええ、悠季さんが興味を持ちそうなものがありますので、ご案内しようと思いました。今日は時間がかなり空きましたので。ナビをお持ちではなかったのですね。お捜ししてしまいましたよ」
「すみません。僕はああいうものを持つ習慣がなかったので、つい・・・・・」
「モーツアルトにいらっしゃっていたようですね」
「見かけたんですか?ならば入ってこられればよかったのに。あそこのコーヒーは美味しいですよ」
「ええ、それは僕も知っています。しかし、あなたは川島君と親しげに話しておられましたので、邪魔をしてはいけないと思いまして」
「川島さんと?」
悠季は先ほどの眼鏡の件を思い出して、少し赤くなった。眼鏡を取られて緊張して青くなった顔は、さぞかし子供っぽく情けないものだったろうから。
「いや、あれは・・・・・。実はモーツァルトでアマオケを作らないかという話が出ていたので、そっちの・・・・・」
「悠季、君は川島君が好きなのですか?」
圭は、悠季の話を途中でさえぎって尋ねてきた。
なぜ彼は僕を悠季と呼び捨てにするのだろう?今までそんな呼び方をした事はなかったのに。ぼんやりとそう考えていた。
「こちらへ来てください」
いぶかしげに彼の顔を見上げた悠季の腕を掴むと、突然、桐ノ院は手を引っ張って歩き出した。