【 第5章 下 】
まだ早朝の薄霧の中、人が少ないのを利用してうまく裏道を歩いていき、ソラが案内してくれたのは、娼館が立ち並ぶ一角だった。急いでその奥へと進んでいくと、一軒の居酒屋の裏口に入った。
店の名前は『はしばみの小やぶ亭』。
「ここは、アンナおばあちゃんの居酒屋じゃないか。ここにおじいちゃんがかくまわれているの?」
「・・・・・マミーこっちだよ」
悠季が引っ張っていかれた先は、地下室だった。
使っていない椅子やら酒瓶やらが並んでいる奥へと進むと、隅にはガラクタをどかして部屋のようになっているところがあり、奥には簡易ベッドが設置してあった。部屋の中央に立って悠季を迎えてくれたのは、生島だった。
「高嶺!マミー見つかったよ!」
「おう、ハニーか!お前も無事だったか!あの匡っていけすかない野郎に犯られちまったかと思って心配してたんだぜ」
「生島さん!帰って来てたんですか?!」
「おうよ!昨夜の遅くにな。ソラに会いたくて出かけようとしていたところで、途中で小早川の手下どもがお前の話をしていてな、ぜひとも捕まえなきゃならんと話していたんだ。
こうなると、住処も家捜しするに決まっているから、あいつらより一足先に音楽堂へ行ってみるとじいさんは寝てるし、ソラ一人で気をもんでいるときた。じいさんから事情を聞いて、ひとまず二人は安全な場所へ動かした方がいいと思って急いでここへ連れてきたんだ」
間一髪だったんだぜ。と生島は言った。
ソラは生島と目配せをすると、また外へ出て行った。
「どうもありがとうございました。お世話になりましたね」
「どうってこたぁねえよ。俺はじいさんに借りがあるからな」
生島はあっさりと言ってのけた。
「お前もよく、あの男から逃げ出せたな。今もあちこちで匡の野郎の手下どもがまだうろうろしていたから、まだ捕まっていないようで無事らしいということは分かったが」
「はい、どうにか。僕は小早川匡という人が、あんなに卑怯な人間だとは知りませんでした!まさか男の僕を手篭めにしようとするなんて・・・・・。どうにか隙があったので、逃げる事が出来たのですが。それより・・・・・」
おじいちゃんは?と悠季は聞いた。
生島は悠季の顔を見ると、真面目な顔になり、黙って自分の横のベッドを指し示した。
「・・・・・え?」
「福山のじいさんだ。今朝方死んだよ」
「・・・・・なんてことを!生島さん悪い冗談は止めてください!」
「冗談じゃない。じいさんは死んだんだ」
生島はベッドの上にかぶせてあった布を取り除けてみせた。そこに横たわった福山は穏やかな死に顔で、口元には悠季が好きだった少し照れたような笑いが残っていたが、青く厳かな死が静かに彼を覆っていた。
「・・・・・ど・・・・・どうして?」
「じいさんをここに連れてきてしばらくしたら、急に具合が悪くなっちまったんだ。もともと心臓が悪かったらしいが、昨日の怪我のせいでどうやら血管の中に血栓が出来ちまったらしい。それが心臓に入って、心臓をとめたそうだよ。薬で何とかしようと、俺が連れてきたヤブ医者は頑張ってくれたんだが、どうにもうまくいかなかった」
「で、でもおじいちゃん、心臓移植さえすれば、大丈夫だって・・・・・!」
「じいさんが前に移植したのは、汎同盟でやったらしいな。ヤブがそう言ってた。しかしそうなると、移植をやり直すのはもう一度汎同盟に戻らないと無理だそうだ。ここでのやり方と汎同盟とのやり方が違っているとかで、じいさんの心臓移植はヤブには無理だったそうだよ」
「・・・・・僕のせい、でしょうか?僕のせいでおじいちゃんは死んだんじゃ・・・・・?」
「ばかなことを言うんじゃねぇ!そんなことがあるはずがないだろうが!そんなことを考えるのはじいさんに失礼ってもんだぜ!」
「で、でももし僕がいなければ、おじいちゃんはもっと早く汎同盟に戻れたし、怪我をしたのだって僕をかばってくれようとしたんだし、それに・・・・・」
ぱしん、と悠季の頬が鳴った。
「黙れ!じいさんは自分の意思でここに残っていたんだ。こうなる危険があることは、十分承知してな。お前にはその決断をどうこう言うことはできねぇんだ。じいさんはな、お前がそんなふうに考える事を一番心配していたんだぞ。死ぬ間際までな!悠季はやさしい子だから、自分の死の責任までしょってしまいかねないとな。じいさんが死んだ後々まで、心配をかけるんじゃねぇ!」
生島は、悠季の手に福山のバイオリンと、薄いカード型のM.Sを押し付けた。
「ここにじいさんが死ぬ間際にお前に残した言葉がある。姿を見られると、また心配をかけることになるだろうからと声のみだそうだ。聞いてみろ」
「は・・・・・い・・・・・」
生島は悠季の肩をぽんぽんと軽く叩くと、地下室から出て行ってくれた。
しんと部屋の中が静まっていく感覚がする。
上の居酒屋では、開店の準備が始まっているはずなのに、悠季の耳にはその音が入ってはこない。
何で涙が出てこないのだろうと、不思議に思えて仕方がなかった。
悠季はそうっと福山の頬に触ってみた。いつもの暖かな感覚とは違い、冷たく悠季の手を拒むかのような感触だった。
「・・・・・おじいちゃん。最後に立ち会うことも出来なかったなんて・・・・・。僕はおじいちゃんの心臓が悪くなっているのを知っていたのに、きっとまだ大丈夫だと信じ込んでた、ううん、信じ込もうとしてた・・・・・!」
悠季は恐る恐る福山が残してくれたM.Sを開いてみた。
シートはポーンという前置きの音を鳴らしてから、福山の残した声を再生してみせた。背景に医療用の機器の音なのか、シューシューという音が混じっている。
《悠季、無事にわしの元に戻ってくれるだろうか。
生島君がこの星に戻ってきていて、お前が逃げ出したらしい事を教えてくれたから、きっと無事だと信じている。
何も出来ない自分のからだが歯がゆくて仕方がない・・・!
悠季、わしが死ぬ前にお前と会って、ちゃんといろいろ告げてやりたかったが、どうやら時間が足りないらしい。とても残念だよ・・・。
悠季、わしが死ぬことを自分のせいにするんじゃないよ。もう以前からそろそろ心臓の具合が悪い事は自分でも知っていたのだからね。それでもわしはお前といっしょに汎同盟に戻る事が重要と考えていたのだから、これはわしの航海の終点がこの星にあったというだけのことなのだ。
悠季、お前に会えて本当によかったと思っておるよ。
わしはこの星で半ば絶望していた。
愛するたった一人の家族・・・、正幸を見失ってこの星に来たわしは、何の喜びもなく希望も失いかけていた。
お前に会えなかったらきっとこの悲しみから立ち直れぬままに、元の星へと帰っていったことだろう。
正幸の最後をお前の口から聞けたことは、悲しみと安堵をもたらしてくれた。しかし、それ以上にお前はわしに希望を与えてくれたのだ。
悠季、お前は正幸の代わりではない。確かにわしの心に空いた隙間を埋めてくれたが、それは家族であった正幸とはまた違う、師匠と弟子という深い絆をお互いに結んでいったのだと思っておる。
お前にバイオリンを教え、わしが持っていた技術と音楽への愛情を全てお前に注ぎ込んだ。後はお前がこれを自分の中で咀嚼し、より深く大きなものにして多くの人へと伝えていって欲しい。
お前には才能がある。
それも神様から頂いた貴重な音楽の才能がな。大事にして、精進するのだぞ。
わしのバイオリンはお前に譲っていく。これはお前にやるのではない。時が来てお前が次の奏者に譲ることになるまでの間預けるという事だ。
わしがそうだったようにお前もこのバイオリンを大切にして、良い音を鳴らすように努力し演奏で人々を感動させていき、そして次の世代に渡していって欲しい。
バイオリンは時間を越えて各時代のバイオリニストたちに受け渡されていく貴重な財産なのだから。
お前の身柄は今やって来ている【暁皇】の元船長に託す事になるだろう。彼はきっとお前をこの星から連れ出し、元の家族の下に連れて行ってくれるに違いない。お前を心配し、探し回っているはずの本当の家族の下へ。
そうなればわしの心の荷も少しは軽くなるというものだ。お前のようないい子をずっとわしの元へ引き寄せて離さなかったという後ろめたさをな。
ソラに彼宛のM.Sを渡しておく。これはわしが前もって撮っておいたものだ。これを【暁皇】の船長か元船長に渡しなさい。きっとお前を悪いようにはしないだろうから。
それから、もし出来るなら、汎同盟に名乗り出て、あの【ハウス】であった出来事と、お前がこの連邦に連れてこられた経緯を汎同盟の【鎖委員会】に伝えて欲しい。
前に言ったことがあったと思うが、彼らはわしの古くからの友人たちで、今も連邦の奴隷制度をなんとかしたいと奮闘している。正幸やお前のようなひどいところへ連れてこられる子供がこれ以上増えないようにしたいと思っている機関なのだ。
ただし、これはお前への頼みではない。
もしお前が自分の意思でそうしたくなったら、して欲しいと思っているだけのことだ。過去のことを思い出すのは、お前にとってもつらいだろう。無理強いはせんよ。お前が苦しむことになるのなら、やらなくてもいいことだからね。
元気でおやり。そして幸せにおなり。それがわしの最後の頼みだよ、悠季。
・・・・・いい子だね、悠季・・・》
ポーンという音がして、福山の声が止まった。
「おじいちゃん・・・・・!」
ひくっと喉が引きつれて、喉の奥に熱い塊がせり上がってくる。口元が震えだして、涙がとめどなくあふれ出してきた。
「おじいちゃん!」
悠季は福山のからだにすがりついて、小さい子供のようにわあわあと泣きじゃくり続けていた。
やがて、悠季を一人にしてくれていた生島が、地下室に降りてきた。
長い間泣き止めなかった悠季もようやく落ち着き、ぼんやりとおじいちゃんのお葬式はどうしようかなどととりとめもなく考えていて、生島が難しい顔をしているのにも気がつかなかった。
「おい、そろそろお前のこれから先をかんがえないといけないぜ」
「これから先、って」
「じいさんに頼まれたのさ。お前を早くこの星から脱出させる事をな。お前は恒河沙にいるのはヤバイ。
匡がお前を欲しがっているというだけの問題じゃなくなっちまってる。
あいつらはお前らの住んでいたところを荒らしていったのだから、お前たちがただの『低所得者』じゃないことを知っちまっているんだ。スパイとして探されるのは当然だろう。捕まっちまったらただじゃ済まない。
連邦は汎同盟の人間を奴隷としてはいない建前になっているから、お前はここに存在するはずのない人間なのだしな。特に今は汎同盟との関係が微妙になっているから、自分たちの弱みを握られるようなことは極力避けようとするだろう」
お前は闇に消されるだろうよ。と、生島は腕を組んで、眉をしかめた。
「こいつは匡の野郎の、意地やお前への執着の問題ではなくなって、小早川全体の存亡にかかわる危機として捉えられることになるだろうよ。
もっとも、あの匡が兄たちに自分の失敗を打ち明ける事が出来るかどうかだがな。これが知られたら、小早川でのあいつの立場は一気に下がるだろうからなぁ」
だから、早く手を打つ事が必要なのだ。と、生島は主張した。
「あの優柔不断の野郎は、まだ兄弟たちに言い出せないでいるだろう。その間はまだ脱出の道も開いているってもんだ。打ち明けたら最後、蟻の這い出る隙間もなくなるぞ」
「で、でも、おじいちゃんの葬式が・・・・・」
「そんなことはどうでもいい!じいさんも自分の墓のことより、お前の無事を一番に思うだろうよ。じいさんの事は後で俺たちが何とかしてやる。それより、お前は自分のことを考えるんだ!」
「・・・・・はい。でも、どうやって・・・・・?」
「そろそろ【暁皇】から船員が降りてくる時刻だからな。さっき、ソラのやつに【暁皇】から出てきた船員の誰かに、じいさんのメッセージを渡すように言って行かせてある。受け取ったそいつが【暁皇】から船長なり誰かお偉いさんを連れてくるだろうよ。じいさんの言い残した話では、【暁皇】の元船長は自分の言うことを必ず聞いてくれるはずだということだからな」
「でも、・・・・・あの、生島さんは【暁皇】 の今の船長という方をご存知なんでしょうか?」
「いや、知らん。知らんが、あの船は長い間宇宙を航海していて、評判がいい船だ。
船乗りたちにとって、そういう評判というのは、結構信用できる情報なんだぜ。あの船が桐ノ院コンツェルンの本拠地という金の力を持っているやつらが乗っているというのは、あまり気に入らんが、まあお前が乗っていくには安心な船だろうよ」
「ですが、実はあの、匡氏のところで聞いた話では、僕を【暁皇】の船長への贈り物にするって言っていたんです」
「ほう?そりゃあ、まあ趣味のいいこって。おっとと、冗談を言っている場合じゃないな。まあ、もしその船長というのが会ってみていけ好かない野郎だったら、俺がこの星から連れ出してやるよ。俺の船でな」
「でも生島さん 、それをしたらもう恒河沙で商売をすることが出来なくなりますよ?!」
「かまわんさ。言ったろう?じいさんには借りがあるんだよ」
「ありがとうございます、生島さん」
昼近くになって、ようやくぱたぱたと元気のいいソラの足音が、地下室に響いてきた。
「おいソラ、もっと静かに出来ないのか?!」
「あ、ごめん高嶺。行ってきたよ!うまくメッセージを渡せたんだ!」
「ほう、どんなやつに渡したんだ?」
「えーっとね、飯田って言う人と五十嵐って言う人がいっしょにいたんだけど、そのうちの飯田って人に渡せた。この人、おじいちゃんのことを知っていたよ」
「直接話したのか?」
「うん、黙ってポケットに入れていこうと思ったんだけど、捕まっちゃって。それでいろいろ聞かれたんだ。どうやらあっちでも、おじいちゃんのことを探すつもりだったらしいんだ」
「おいソラ。黙って人のポケットに手を突っ込んだりしたら、スリと間違われても文句は言えんぞ」
ソラは首をすくめて見せた。
「でも、ちゃんと出来たからいいじゃないか。それでね、船長に連絡を取って、もうすぐここに来てくれるって」
「ソラくん、ありがとう。ご苦労様だったね」
「マミー、元気出せ。俺もとっても悲しいけど、マミーが悲しがっているのを見るのはもっと悲しい。おじいちゃんはいつまでもマミーが泣いていたら悲しむと思うぞ。おじいちゃんはマミーのことをとっても愛していて、とっても大事に思っていたんだからな。ここを出て、ちゃんと無事に安全なところへ行けるか、幸せになれるかってとっても心配してた」
「うん・・・・・、うん、そうだね。いつまでもめそめそ泣いていちゃいけないね。まず僕が安全な場所へ行けるよう努力することが最優先だね。おじいちゃんに最後まで心配をさせないように頑張るよ」
悠季はソラの頭をなでると、ぎゅっと抱きしめた。
しかし、それから数時間たっても、【暁皇】からの人間は現れなかった。
「どうしちゃったんだろうね」
ソラが不安そうに言った。
「もし、夕方になっても現れないようなら放っておくさ。今夜俺の船を出発させるから、お前は心配するな」
生島が頼もしく請合ってみせた。
そこへ、上の居酒屋にいるアンナおばあちゃんに客が低い声で話しかけているのが聞こえてきた。アンナおばあちゃんの声は、ここへの入り口を教えているものらしかった。
「マミー、どうやら来たらしいよ!」
おばあちゃんは、地下室の入り口で引き返したらしく、一人分の足音だけが地下へと降りてくる。
ゴン!
「・・・・・ンむ〜〜!」
その人間は背が高くてドアの框に額をぶつけたらしく、派手な音をさせて中に入ってきた。額が少し赤くなっていたが痛そうな顔も見せずに、地下室の中にいる人々をぐるっと眺め回し、視線は悠季のところで止まって動かなくなった。
「あなたが僕を呼んだのでしょうか?」
「あなたは・・・・・?」
「僕は【暁皇】の船長で、桐ノ院圭、と言います。福山師の古馴染みの友人は僕の祖父ということになりますが」
その背が高くてハンサムな男性は、無表情で尊大な態度のまま悠季にそう告げた。