【 第5章 








 垓都がいとの森の奥は、緑が深い。

生き物の気配が溢れ不穏な空気が漂っていて昼間でも人が入ることを拒む。まして夜ならばなおさら人を寄せ付けない。

春になって生き物の活動も活発になるにつれて、夜間に森の奥に入ることなど誰も考えようとはしない。

今夜は風が強く、ユキモドキのはなびらがしきりに舞っていた。どうやら春の名物の、はなびらの吹雪が始まりそうな気配だった。

悠季はまだ思うままにならない足を懸命に動かして、小早川の別邸の庭から奥の塀をやっと乗り越え、森の中へと入っていった。風がざわつくと木の影が踊り、しきりに悠季を怯えさせようとしていたが、ここを越えなければ家に戻れない事が分かっていた彼は、必死で森を進んで行った。

 悠季はユキモドキの群生をかき分け、森の奥へと進む。頭の中にはこのあたりの地形を思い浮かべて、どうすれば森を抜けて自分たちの住むあの音楽堂につけるか道を考える。

「確かこの森は僕らの住んでるところの森と繋がっているはずだ。今夜は月も明るいしから足元も見える。来る時はぐるっと森を迂回して別邸についたけど、一直線で横切れば距離はないはずだし、大丈夫、きっと戻れるさ」

 彼は方向を確認しながら、ユキモドキの中を進んでいった。

「え?何?」

 遠くで大勢の人の声がする。明かりも時々木の隙間からこぼれてくる。どうやら悠季の逃亡に気がついた匡が、追っ手を差し向けてきたらしい。

「まずい。追いつかれてしまいそうだ」

 あわてて足を速め、必死で道を進んで行ったが、まだ痺れの残るからだは言う事を聞いてくれない。つかまるのも時間の問題に思えた。





―― 助ケテ!助ケテ!

        僕ハ逃ゲタイ!

             ドウカ、誰カ!助ケテ!手ヲ貸シテ!!
――






 声なき声で悠季は助けを求める。

しばらくすると、藪の中から獣のうなり声が響いてきた。ぎくっとして悠季が足を止めると、木の葉の間から光る瞳が見えた。

「ヤブオオカミ・・・・・!」

 大きな獣の姿が、ユキモドキの間から現れた。灰色の毛皮に包まれていて、悠然と歩んでくる姿には、この森の王者の風格が漂っている。悠季が演奏している時に現れるロボもそんな風だったが。

「・・・・・もしかして、ロボなの?」

ヤブオオカミは『然り』とでもいうように、ふわりと尻尾を振ると、悠季のすぐ横を通りすぎ、彼が今歩いてきた方向にゆっくりと歩を進めていった。

「おい!ユキモドキに道が開かれているぞ!きっとあいつはここから進んでいったに違いない!」

 追っ手たちの叫び声と足音がこちらの方向に向かってくる。手持ちライトの明かりもチラチラとここまで届くようになってきた。ぎょっとなった悠季は、あわてて木の茂みの間にしゃがみこんだ。

ばさばさとユキモドキを押しのけながら、何人かの人間がぶつぶつとしゃべりあいながらだんだんこちらに近づいてくるのが分かる。

「えい!このユキモドキは何かが通るとすぐ分かるから、探すのには都合がいいが、どうもこの花びらがまといつくのはたまらんなぁ」

「しかし、小僧の足どりが分かったのだからいいじゃないか。この分ならそう遠くには行っていないはずだ。あの薬の効果はまだ続いているはずだからな。しかし、匡様もこの夜中に森を探せとは厄介なことを押し付けるもんだよ。春先は獲物を求めてヤブオオカミだって出てくるっていうのに・・・・・」

「あいつは、大切な取引先への贈り物にするんだとさ、普通の品物じゃ納得してくれないような相手にね。それで必死に探しているってわけ。匡様も立場があやしくなっているそうだからなあ」

「奴隷、だったのかい、そいつ?」

「そうじゃない奴だって、どうしてもとなりゃ、匡様は無理やり奴隷に落とすこともいとわないだろうよ。それに楽師なんて奴隷と五十歩百歩だし、乞食や娼夫とは同類のようなもんじゃないか?金を積みさえすりゃ、足だって開くだろうよ」

「おい、声が大きいぞ!」

 下卑た笑いを響かせていた男たちは、次の瞬間悲鳴を上げる事になった。

「げっ、ヤブオオカミ!なんでこんなやつが、森の入り口近くに出て来るんだ?!」

 見たこともないような、巨大なヤブオオカミが、男たちをユキモドキの茂みの奥から睨んでいた。

「おい、でかいやつだぞ!気をつけろ!」

「武器はどうした?武器は?!なんだって?その銃は、このでかいヤブオオカミを倒せるほどの威力がないだぁ?!」

 突然、ヤブオオカミが吼えてみせた。

 しんと暗い森を背景にしてその声は威嚇に満ちていて、夜の底がびりびりと震えたようだった。

ヤブオオカミの恐ろしい声をきいたとたんに男たちは身を竦め、すっかり腰が引けてしまったようだった。

お互いに横目で他の仲間がいつ逃げ出すかタイミングを窺いながら少しずつ少しずつ、もと来た方向へと下がりはじめる。

一番に他の誰かより早く逃げたとなると主人に怒られるだろうが、誰かの後となれば咎めもないということで・・・・・。

「お、おい。このユキモドキの枝がわかれてたのって、こいつが歩いていたからってことは、ないよな」

「で、でも、このオオカミの毛には一杯にユキモドキがくっついているけど、まさか・・・・・」

「そういえば、ここに来る途中に分かれ道があったぞ。小僧はあそこで違う方向へ行ったのかもしれないが・・・・・」

 となると・・・・・と、皆の心の中では一つの結論が出来あがる。

その結論が出るのを見計らっていたかのようにオオカミがまた吼えてみせた。とたんに男たちは飛び上がるようにして、一斉にもと来た道へと走り出した。

「走るな、走るとヤブオオカミを刺激するぞ!」

 リーダーの言葉にもかかわらず、いつのまにか男たちの逃げ足は速まっていく。

そうして、なんとかオオカミが自分たちを追ってこないとわかって落ち着くことが出来たのは、かなり戻った分かれ道のあたりで、息切れがしてどうにも立ち止まらなければいられなくなった時だった。

「きっと小僧はこの分かれ道で違う方向に行ったに決まってる。そうじゃなければヤブオオカミの腹の中に収まるって事になるだろうよ」

 男たちは、お互いの顔を見合わせると、『きっとそうに違いない』と言い合い、主人の命令よりも自分たちの命を大切にすることに決めて、楽で安全な道へと向かっていくことに決めた。











「た、助かったみたいだ・・・・・」

悠季は隠れていた木の陰から出てくると、気が抜けて座り込んでしまった。すうっと冷や汗が背中を走っていくのが感じられた。

 ヤブオオカミは、男たちを追い払ったあと、何事もなかったようにまた悠季の元に戻ってきた。座り込んでいる悠季を見つけると、ぺろりとその手をなめ、ついて来いというように振り返りながら森の奥へとゆっくり歩き出した。

「待って!もしかして僕を送ってくれるの?」

 悠季はロボの後をついて歩いていった。オオカミは自分の使いやすい道を使って、森を抜けていく。

その道は時には野茨の茂みの下だったり、倒木を上ったりしなければならなかったが、悠季はそのとおりにまだおぼつかない足を必死に動かしてヤブオオカミの後をついていった。

 かなりの時間を夢中でついて歩いていたが、やがて突然として景色が開け、悠季にも見覚えのある大木が生えている空き地に出てきた。

「ここは・・・・・?」

 そこは悠季がいつもバイオリンの演奏の練習に使っている広場だった。

「こんなところに出てくるんだ・・・・・」

 悠季が呆然としている間に、ヤブオオカミはまた森の中に消えていってしまった。

「あ、ロボ。ありがとう!」

 あわてて悠季がオオカミに礼を言おうとしたのだが、もうオオカミの姿はなく、気配さえも消えてしまっていた。

「そうだ!おじいちゃんの具合をみなくっちゃ。怪我の具合はどうだろう」

 悠季は歩きなれた道を急ぎ、自分たちの住処へと歩いていった。いつの間にか夜は明けてきており、東の空はほんのりとしたオレンジ色に染まりはじめている。悠季は通いなれた道を音楽堂へと戻る事が出来た。

 音楽堂まで戻ると、そこには何人もの男たちがウロウロしていた。どうやら探し出せなかった悠季を追って、ここへとやってきたらしい。

「まずいよ。おじいちゃん、あいつらに乱暴されているんじゃないのか?それに家の中を探されたらおじいちゃんの素性を勘ぐられてしまうじゃないか」

 やきもきしながら茂みの中から男たちの様子を窺っていたが、男たちの話の様子から、どうやら福山が捕まっているわけではないらしいことは分かった。しかし、家の中を見たために福山と悠季をただの楽師では無さそうだと思っているらしいことも聞いていて分かった。

 男たちはしばらく音楽堂を探していたが、どうやら悠季が戻ってきていないが分かると、また森の中の方を探索してみようと思ったらしく立ち去っていった。

 悠季はしばらく待って、誰もここ残っていないのを確認すると、恐る恐る自分たちが住んでいた音楽堂の地下へと降りていった。

明かりはつかなかった。暗闇の中悠季は壁伝いに部屋の奥へと進んでいくと、足元には破片が散乱しているのが感じられた。ようやくキッチンへとたどり着き、手探りで引き出しからろうそくを取り出し、火を付けた。

「・・・・・ひ、ひどい・・・・・!」

 住処の中には、もうまともな状態のものは何も残っていなかった。

家具は壊され、セーシューもめちゃめちゃになっている。棚に並んでいたライブラリーも全て床に落とされて踏み潰されていた。紙に打ち出してあった楽譜は、ばらばらになって床に散らばり、破れ、足跡が山ほどついていた。

「・・・・・こんな・・・・・!」

 悠季は震える手で福山のチェックと自分が書いた書き込みだらけの楽譜を一枚拾い上げると胸に抱きしめた。ぼろぼろと涙が溢れてくる。このささやかな聖域は無情な侵入者によって跡形もなく破壊されつくしてしまったのだ。

「・・・・・マミー、おうい、もしかしてそこにいるの?いたら返事して!」

 小さな声が音楽堂の上から聞こえてきた。

「ソラくん?!」

 悠季は飛び上がるようにして階段を上り、ソラのいるところへと急いでいった。

「マミー、無事だったんだね?!よかった!」

「ソラくん!おじいちゃんは?おじいちゃんは無事なの?」

「・・・・・え、えーと、とにかくこっちへ来て」

「おじいちゃんのバイオリンを持ってこないと・・・・・」

「こっちに持って来てるよ。いいからついてきて」

 ソラは口を濁すと、悠季を連れて街のほうへと歩き出した