【 第4章 







 結婚式は盛況で、誰もが今日の花嫁の美しさを称え、天気が良かった事に安堵し、昔ながらの結婚式につきもののジョークや警句を口にし・・・・・いかにも幸福な一日を満喫していた。

 福山と悠季は他の楽師たちと共に、式の間の演奏とそれに続く披露パーティーのダンスの演奏を頼まれていた。

 若者たちはお互いの手を取り合って次々にダンスの輪に参加し、年配の夫婦も若者たちとは少し違うおとなしいステップでダンスに参加している。ダンスパーティーは二時間を越え、楽師の休憩のためにしばらく休憩となった。

「はい、おじいちゃん。飲み物を持って来たよ」

「ああ、すまんね」

「今夜は盛り上がっているね。これだとあと二時間くらいは弾き続けることになるかなぁ」

「そこまではいかないだろう。まだまだ外は物騒だ。招待客が家に帰るのに安全な時間のうちにお開きになるだろうよ」

 福山は、悠季が持って来た軽めのワインに口をつけながらそう言った。

二人が座っているのは演奏者たちの控え室から外廊に出たところにあるベンチだった。春の風が様々な夜の匂いを運んでくる。時折、ユキモドキの花びらも、ひらりひらりと舞い込んでくる。

「おう!ここにいたのか!」

 突然、野太い声が響いた。

「探したぞ!」

 どかどかと遠慮無しの足音を立てて近づいてきたのは、先刻話題に上がっていた八坂だった。

「お前を探していたんだ」

 八坂は悠季の腕を掴むと、ぐいっと引きずり上げた。そのまま有無を言わさず外へと連れ出そうとした。

「ちょっ、ちょっと待ってください!どうして僕があなたと行かなくちゃいけないんです?放して下さい!」

 悠季は強引な引っ張りに暴れて手を振り解こうとした。しかし、体格で負けている八坂にかなうはずもなく、ずるずるとテラスから玄関の方へ連れ出されていった。

「待ってください、八坂さん!悠季をどうしようって言うんです?」

 あわてて福山も八坂の腕にすがりついた。

「うるさい!じじいは引っ込んでいろ!」

 八坂は邪魔をする福山の手を無造作に振りほどいた。しかしその場所はテラスの階段のすぐそばだった。

「うわぁ〜っ!」

 足が弱っていた福山は、ふらついて手すりを掴みそこねてしまい、そのまま階段から転がり落ちていった。

「おじいちゃん!」

 悠季の悲鳴が響いた。あわてて八坂の手を無理やりに振り解いて、福山のもとへ駆け寄った。

「だ、だいじょうぶだ・・・・・」

 うめきながら、福山はからだを起こして見せた。頭や腕には異常はない。しかし、足が・・・・・。

「どうやら足を痛めてしまったらしいが・・・・・」

「おじいちゃん、すぐ医者へ行かなくちゃ!」

 悠季が青い顔でおろおろと言った。まず人を呼んで、この近くのお医者様と言えば・・・・・。ぶつぶつとつぶやきながら部屋の中へ助け手を求めに入ろうとした。

「おい、じじいは無事だったんだろ?だったらさっさと俺様と来るんだ!」

「どうしてぼくがあなたと行かなくちゃいけないんですか?それに、あなたはおじいちゃんに怪我をさせて謝りもしないし、手当てをしようともしない!そういう人の言う事を僕が素直に聞くと思っているんですか?」

 悠季の優しげな容貌からは思いもつかないような、厳しい口調と態度に八坂はたじろいだ。しかしそれも一瞬で、すぐに立ち直ると居丈高に言い放った。

「お前は今夜お屋敷で行われている小早川の匡様のパーティーに招待されている。すぐに俺といっしょに来るんだ!」

「僕は聞いていません!」

「小早川様のパーティーのご招待だぞ?!無視すればどうなるかはお前も知ってるだろうが」

 八坂は意味ありげな目つきで、福山の方へ顎をしゃくって見せた。

「じじい・・・・・おっと、じいさんがどうなるかはお前の返事次第ということだな」

 すうっと悠季の顔色が変わっていった。

 確かに小早川の権力は大きい。その上今この場で八坂を振り払って帰る事が出来るだろうか?

「悠季、こいつの言う事など聞かんでいい」

「・・・・・おじいちゃん」

「おい、じいさん。お前が汎同盟の人間だって事は知っているんだぜ。なんで恒河沙にいつまでもいるんだい?お前のような奴はお上もそろそろ目障りになっているはずだぞ。ここで目こぼししてもらうコネが必要なんじゃないのかい?」

「我々の事は放っておいてもらおうか」

 福山は八坂を無視すると、悠季の肩を借りて立ち上がろうとした。が、顔をしかめてまた座り込んでしまった。

「おじいちゃん、僕は、小早川様のお屋敷に行ってくるよ」

「悠季?」

「大丈夫。ちょっと演奏したらすぐに帰ってくるから。心配しないで」

 それより、と悠季は八坂の方に向き直った。

「おじいちゃんをちゃんと家まで送り届けてください。お願いします」

 悠季の真剣な表情に、八坂が一瞬見とれた。それから嬉しそうに にたにたと笑いながら気軽に請け負った。

「いいぜ。それじゃ車を呼んでやる。ちょっと待ってな」

 八坂は会館の誰かを捕まえようと、彼らから離れて探しに行った。

「悠季、お前が小早川のところに行ったらただでは済まない。きっと後悔するようなことになるよ」

「でも、あの八坂が一度目を付けて来たんだよ?このまま簡単に見逃してくれるとは思えないよ。いっそ小早川のところへ一回行ってみせれば、気が済んで後はもう放っておいてくれるだろうから」

 大丈夫だよ。

と 悠季は自分に言い聞かせるようにして言った。

確かにあの八坂が今ここで諦めてくれるとは思えなかったが。

「・・・・・こういうときに生島君がいてくれたらよかったんだが・・・・・」

 福山はため息混じりに繰言を言った。


「おい、車が来たぞ」

 八坂が戻ってきて二人の会話を途切れさせた。

八坂は乱暴に福山のからだを担ぎ上げて、車に運び込んでいく。

「おじいちゃんを乱暴に扱わないで!」

「これが精一杯だ!」

 八坂が怒鳴った。あわてて悠季もバイオリンを持ってついていく。

 三人を乗せた車は動き出し、福山の住処へ近づいていった。やがて車は公園の中に乗り入れ、入れるところまで入って止まった。

「この先は車では行かれませんから、ちょっと待っていて下さい」

「ふん、なんともひどいところに住んでいるもんだな。おい、お前一人で逃げる気じゃないだろうな?」

「僕がおじいちゃんを置いていくはずがないじゃないですか!家にいるものを呼んで手伝わせるだけです」

 待っていてください、と言って歩き出した。

 悠季は八坂を家のそばには連れて行きたくなかった。家を知られるのが嫌だっただけではなく、自分たちの住処が低所得者のものと違っているのを八坂に知られたくなかったからだ。

 あれを見られれば、彼がどんなに鈍い男でも金が無く貧しくて低所得者の生活をしているとは考えないだろうから。

 悠季は急いでソラくんを連れてくると、福山を住処へと運び込んだ。ベッドへ入れるとセーシューを動かして、診断を開始した。

「打撲と内出血。骨にひび・・・・・。なんてことをするやつだ!」

「マミー。俺、どうすればいい?」

「ソラくん。申し訳ないけどおじいちゃんの看護を任せてもいいかな?手当てはセーシューがしてくれるけど。僕はこれから出かけなければならなくなっちゃったから」

「・・・・・分かった。俺おじいちゃんの面倒を見てるよ」

「悠季。行くと後悔することになるぞ!行くのはやめなさい!」

「そろそろ八坂がじれてここに乗り込んで来るかもしれない。おじいちゃん、僕はもう行くよ!」

 僕は大丈夫だよ。

 悠季は、自分に言い聞かせるように言うと、福山の手をちょっと握ってから、彼の制止をふりきってバイオリンケースを手に、八坂が待つ車へと戻っていった。





 小早川の屋敷はあちらこちらにあるが、今回のパーティーは郊外の別邸で行われているらしかった。

 車は二人を乗せてさほどの時間を掛けないで森のそばにある別邸に止まった。

「匡様にお目に掛ける者を連れて参りました」

 八坂は屋敷の応対に出てきた召使にもへつらうほどに下手に出て案内を願った。

 数年前であれば案内など放っておいて、さっさと匡氏の近くに行っていただろうが、今は寵愛の降下と共にこんなところにも気を使わなくてはならない。

 召使は尊大な態度で八坂に接していて、仕方ないと言うようにパーティー会場へと案内していった。パーティーは盛況で、匡は上座で誰なのかきらびやかな服を着た人物と談笑していた。

「匡様、この間お話してあった楽師でございます。それは綺麗なバイオリンを奏でますので」

 匡氏はさほど興味もないような態度で、二人の方へ向き直った。しかし、悠季の顔を見ると興味を惹かれたようで、近くに来るように手招きをした。

「お前の名前は?」

「悠季。福山悠季と申します」

「福山だって?・・・・・どこかで聞いたことがあるような気がするのだが」

「辻楽師の『頑固の福山』の身内でございますよ。あの男の演奏は市井では結構有名でございますから。とは言っても、彼と血は繋がっておりません。十年前に奴隷市場で匡様がお情けで金を恵んでやったおかげで、競り落とした子供でございますよ。確か一厘二厘と競り上げていって、六厘ほどで奴が手に入れたはずですが」

「そういえば、そんなこともあったような気がするな。楽師が奴隷を欲しがったというので珍しくて覚えていたよ。そうか、あの時の子供がねぇ・・・・・」

「どうやら、福山はこういうふうに育つのを見越してせっせと育てていたようで。少ない投資でなんとも高値を呼びそうな商品に育て上げたものですなあ。きっとこれからこいつで稼ごうとしていたのでしょうよ。これほどの上玉ならばいくらでも客はつきますからね。まあ、こいつもあんなじいさん相手じゃさぞ満足してなかったでしょうし」

 八坂はいやらしく笑ってみせた。

「こいつが娼夫として売り出される前に、ぜひとも匡様にお目に掛けたいと思いまして」

 悠季の頬が赤く染まった。あけすけな言葉とあまりに下劣な八坂の言い草に腹が立って仕方が無かった。

「止めろ!おじいちゃんは僕をそんなつもりで育てたわけじゃない!」

「黙れ!俺がしゃべっている間は口をはさむな!」

 八坂は拳を振り上げたが、自分がいる場所を思い出してあわてて手を引っ込めた。

「八坂。ご苦労だったね。もう下がっていいよ」

「ですが・・・・・」

 八坂は不満そうに続けようとしたが、ここで匡氏の眉がひそめられるのを見て、ご機嫌を損ねる心配に気がつき、しぶしぶ退散していった。

「悠季・・・・・だったね」

 匡氏は目を細めて悠季を眺め回していたが、彼の持っているバイオリンケースを指差した。

「何でもいい、君のバイオリンを 一、二曲聞かせてもらおうか。あの福山の孫というなら、まあましな演奏を聞かせてくれるだろうね。」

「承知致しました。」

 落ち着け。落ち着くんだ。おじいちゃんの評判を落とすようなまねをするんじゃないぞ。

 悠季は心の中で自分に叱咤した。

 急いでバイオリンをスタンバイさせると、一つ深呼吸をして気を静めると弾き始めた。


曲は【G線上のアリア】


 悠季の得意な曲だった。

 バイオリンは福山に買ってもらった中古の楽器だったが、とてもよい音で鳴ってくれて、パーティーに来ていた客たちも話すのを次第に止めて耳をすませていき、いつしか部屋の中には悠季の弾くバイオリンの音だけが響くようになっていった。

 悠季はアリアを弾き終わると弓を下ろさず、そのままバッハの無伴奏一番を弾き始めた。彼が弾いている間は誰もしゃべらず、ただただ聞きほれていて、いつもはにぎやかなパーティーの会場が真摯な演奏の舞台となっていた。

 やがて曲が終わると、なんともいえない余韻の後に盛大な拍手が鳴り響いた。いつもはおざなりの拍手をする招待客たちが、心からの感動を素直に表情に表していた。

「ふむ。大変結構だったよ、悠季。それでは、今度から私の屋敷で弾いてもらうことにしようかな」

「あの、大変ありがたい申し出には感謝しております。しかし、まことに申し訳ありませんが、ぼ、いえ、私は祖父といっしょに市井で演奏を続けたいと思っております。お断りするのはとても残念なのですが、このまま下がらせていただけませんでしょうか?」

「ほう?それはまた欲がないね・・・・・。そうか、よろしい。それでは下がりなさい。執事が演奏の報酬を与えるから、別室で少し待つように」

「ありがとうございます!」

 悠季はほっとして、パーティー会場を退出した。召使に屋敷の中の一室に案内されて飲み物と食べ物を用意されるとどっと疲れが出るのを感じていた。

「おじいちゃんは心配していたけど、たいしたことなかったじゃないか。お客様も僕の演奏を喜んで下さったし、匡様も物分りの良い方だったし。これならもうすぐ帰れそうだ」

 のどの渇きを覚えた悠季、はテーブルに置いてあったワインを取り上げて飲んだ。ワインはさっぱりとした白で、飲み口も心地よく、グラスに入っていた分を飲み干してしまった。

「おっと、僕はあまりお酒に強くないんだから呑み過ぎないようにしないと」

 それ以上は口をつけないようにして執事が来るのを待っていたが、パーティーが忙しいのか、なかなか現れない。

「こうなると、パーティーが終わってからってことになるのかな」

 気が緩んだのか、手足がワインの酔いにほんのりと暖かくなり眠気が襲ってくる。起きていないと・・・・・と、気を張っていたのだが、いつの間にか悠季の頭はソファーの背もたれに沈んでいった。










「あれ?ここ・・・・・」

「気がついたかね?よく眠っていたからここに運ばせたよ」

 目が覚めると自分はあの控え室にいるわけではなく、ここは寝室で、ベッドの上に寝かされていて、そして、裸で・・・・・。

「ええっ!な、なんで僕が裸?!」

 あわてて飛び起きようとしたが、足がもつれてベッドの下に転がり落ちた。

「な、何・・・・・?」

「ああ、まだ薬が効いているようだね。手足がしびれているのだろう?死体のように眠って動かないからだを抱いても仕方ないから、今まで待っていたんだよ。そろそろ感覚だけは戻っていて感じやすくなっているのだろう?さあて、私をたっぷりと楽しませてもらおうか」

 匡は、悠季に近づくと、ひょいとからだを抱き上げて、ベッドに投げ落とした。

「う・・・・・っ!」

「暴れる猫を手なずけるのは好きだが、その猫に引っかかれるのはごめんなのでね。もうしばらくの間、手足の方は動かさないでいてもらうよ」

 匡はそういうと、ベッドの上に乗りあがってきた。

「ああ、白くて綺麗な肌だね。それに肌理も細かい。きっと君は北の方の生まれなのだろうね・・・・。それに、この刺青・・・・。なかなかに扇情的でいいよ。ただし、奴隷の番号だというのはいかにも無粋だ。今度ここに、こう・・・・やって付け加えてもっと綺麗な模様にしないとね」

 悠季の右の太腿には奴隷としての登録番号と、奴隷から解放されたときの失効線が彫り込まれていた。その数字と線とが微妙に絡み合って、なんとも美しい幾何学的な模様を描いていたのだが、匡はその模様をたどるように悠季の肌の上をなぞっていった。

「やっ、やめろっ!僕に何をするんだ!」

「何って、決まっているだろう?君と福山がいつもやっていることだよ」

「お、おじいちゃんはそんなことはしないっ!」

「ほう、そうかね?すると私が君のお初を頂くことになるのかな?それは楽しみだよ、せいぜい買った価値があるといいのだがねぇ」

「ぼ、僕は、自分を売った覚えなんかないっ!」

「私にとっては同じことだよ」

 悠季は必死で抵抗しようとしたが、手足は重くしびれていて自分の思うようにならない。匡がキスしてこようとするのを、首を振ってよけるのが精一杯だった。からだの上を這い回っていく匡の手にぞっと震えがきた。

「うっ、くそっ!ぼ、僕はバイオリニストだ!演奏以外で金をもらうつもりはないんだ!僕は娼夫じゃないっ!」

「バイオリニスト・・・・・ねえ。こんなバイオリンを弾いているやつが?」

匡はベッドサイドテーブルに置いてあった悠季のバイオリンを取り上げた。

「銘はない。あちこち傷だらけで、中古のみすぼらしいバイオリンだ。君の腕だったらもっと名のある・・・・・ストラドとかアマーティとかがふさわしい。私がもっとすばらしいバイオリンを君にあげようね」

 匡はにこやかに笑うと、そのバイオリンをそのままテーブルの角に叩きつけた。


「ああっ!」


 そのとき響いた音はまるでバイオリンの断末魔の悲鳴のように聞こえた。


 バイオリンは真っ二つになって飛び散って無残な姿をさらし、木の破片があちこちに転々と転がっていた。

「ぼ・・・・・くの・・・・・バイオリン・・・・・が・・・・・」

 悠季のかすれた声が小さくささやく。もう悲鳴も上げられずに呆然となっていた。

「だからね、おとなしく私の言うとおりにしていればいいんだよ」

 匡の唇が悠季のそれに被さってくるのに、もうわずかな抵抗さえも出来なかった。悠季の目は無残なバイオリンの姿だけを見つめていて、自分の身に今何が起こっているのかにも、気がつかなくなっていた。

「ああ、君は抱き心地がいいねぇ・・・・・。
 今夜一晩の味見だけではなくて、このまま私のそばにずっと置いておきたいが、残念だよ。今私の立場は微妙でね、このままだと兄たちに利権を全て奪われそうなのだよ。だから君にはぜひ極上のプレゼントになってもらわないとね・・・・・。

 君をあの【暁皇】の船長に贈れば彼はきっと喜ぶことだろう。彼は私と同じように綺麗な男の子が好きだそうだからね。 そうして私への協力を受け入れてもらうつもりなのさ」

 匡は悠季の足を広げて、悠季の性器を弄り回し、それから足の奥の秘部にジェリーを塗りこめると、足を担ぎ上げて・・・・・。

「旦那様!旦那様!大変でございます!起きてくださいまし!」

 ひそめられてはいるが、緊急を示すようなあわただしいノックが響いた。

「なんだ!もう少し後に出来ないのか?!私は今忙しいのだぞ!」

「お兄様がいらっしゃっておられます!ただ今客室でお待ちいただいておりますが、至急に旦那様を出せとおっしゃられておりまして・・・・・」

「な、なんだと?・・・・・もしかして、私が【暁皇】と連絡をとろうとしていたのが、もうばれたのか?」

 うろたえた匡はベッドから起き上がると、急いで服を調えて部屋を出て行った。歩きながら召使たちにいろいろ命令していく声が遠ざかっていく。

 悠季がようやくのろのろとベッドから起き上がったのは、それからもう少したってからだった。

「ぼ、僕のバイオリンは壊されたけれど、このままやつに自分の身まで好きにさせてたまるか!くそっ!さっきはショックでからだが動かなかったけれど、絶対にここから逃げ出してやる!」

 悠季は怒りを、まだ動きの悪いからだを動かす力に換えて、必死でベッドから動き出した。

ベッドサイドに置かれてあった眼鏡を取り上げて掛けて室内を見回すと、幸いに着てきた服は寝室に置いてある椅子の上にたたんであった。

 ということは、これまでも悠季のように薬を盛られてからベッドへ運び込まれて、召使の手で服を脱がされた者がいた、ということなのかもしれなかった。

彼は震える手で服を着ると、よろめく足を踏みしめて歩き出す。こつん、と足先に当たるものがあった。

「魂柱・・・・・」

先ほど壊された悠季のバイオリンの部品だった。悠季は拾い上げると、ぎゅっと握り締めてからポケットに入れた。他のバイオリンの残骸には目を向けないようにして、扉を開けて外の様子を覗いてみた。

 廊下には人の気配は無い。

 どうやら不意の客の接待に召使たちが狩り出されて、このプライベートな空間には誰もいないようだった。

 匡は悠季が逃げ出さないように召使に命じておくのも忘れるほど動転していたようで、どうやら今夜の珍客は彼にとって思いがけない苦手な人物らしかった。



 悠季はそろそろと気配を探りながら廊下を歩き、外へ出る道を探していた。しかしこの屋敷はあまりにも広すぎる。一階に下りる階段は分かったが、その先の出入り口の場所が分からない。

「おい、お前」

 背後から呼び止められて、ぎくっとして立ち止まった。おそるおそる振り返ってみる。

「どこへいくつもりだ?」

 一人の男がそこに立って悠季を睨みつけていた。

 顔を憎々しげに歪ませてはいても、充分な美貌を持つ青年だった。ややだらしなく民族衣装を着崩して着ているのがなまめかしかったが、その雰囲気はすさんでいて、どこか病的なものを持っていた。

「今まで僕の匡と寝ていたんだろう?それで、今度はどこに行こうとしているんだ?」

「ぼ、僕は誰とも寝てなんかいない!僕は、ここから出て行くんだ!」

「へぇ?そりゃぁ、変わっているね。ここにいれば匡にかわいがってもらえるっていうのにね・。今までの僕のように・・・・・」

「君は、もしかして・・・・・?」

「僕の名前なんかどうだっていいんだ!それよりお前がここから逃げ出したいのなら、あの扉を抜ければフランス窓からベランダへ出られる。そのまま庭を抜けて外に行けばいい」

「ありがとう!」

 悠季が言われたとおりに扉を開けて急いで出て行くのを見送ってから、宕谷はにやりと笑ってこう言ってのけた。

「ただし、その庭の先は森に繋がっている。春になってヤブオオカミが沢山うろつきだしているそうだよ・・・・・。食べられちゃわなきゃいいけどね。あいつらはいつも腹を空かせているからねぇ」

 宕谷はいかにも楽しそうに笑いながら、自分の部屋へと引き上げていった。

 匡にも知られず、うまく自分の手も汚さずに、自分のいるべき場所を乗っ取ろうとする邪魔者を追い出せたと思いながら。

 宕谷にとっては、匡の寵愛が何よりも大事なことで、そのためには他人の命など知った事ではなかったから。