【 第3章 上 】
ぼくが一番古く記憶しているのは、森の中のある大きな木が大好きだったということだ。
その木はなんという種類の木だったのかも覚えていないが、太くてごつごつとした木の樹皮に顔を押し付けると、こぽこぽと木の中を水が通る音がするのがたまらなく気に入っていた。
いつもぼくは時間があると、誰かにそこにつれていってもらい、いつもそうやって木の鼓動を聞いていた気がする。
ぼくの中に残る、幸福な記憶。そして、そのあとは混乱、混沌・・・・・。
気がついたときには、ぼくはそこを管理する大人たちが【ハウス】という名で呼ぶ家に暮らしていた。
そこには何人もの子供たちが住んでいて、大きい子達は十五、六才、小さい子になるとぼくと同じかもっと下の四、五才の子供たちがいた。
そこはとても清潔で、世話してくれる大人たちも親切だったし、何の不自由もなくのびのびと暮らせていたが、外部の人間と接触するのは、つまり外に出かけていく事はほとんど止められていた。
不思議な事に、そこに住むぼくたちは誰も本名を名乗る事を許されなかった。
ぼく自身は過去の記憶が曖昧になっていて、彼ら大人が呼ぶ雪で構わなかったが、ぼくよりもっと大きな子供たちはずいぶん反発していたと思う。
髪の毛がきれいな銀色で、背の高い少女は[シルヴァー]と呼ばれていた。『私の名はジュリアンナなの。お母さんがつけてくれた大切な名前なの!』そういって、長い事言い張っていたが、結局いつの間にか[シルヴァー]と呼ばれて返事をするようになっていた。
『僕はテッドだ![ノアール]なんて名前で呼ばれたくない!』と逃げ出そうとする子もいたが、何度も連れ戻されて、外で病気をもらったとかで長く入院していたが、退院したら素直に[ノアール]と呼ばれるようになっていた。
たいていはその子の特徴を そのまま名前にしたような他愛ないものだったが、中には[スピカ]という星の名前で呼ばれるミュータントの青い髪の子もいれば、[柳樹]と呼ばれた背のひょろひょろと高いアジア韓国系の子もいた。
――そこは本当に孤児院だったのだろうか?ぼくには分からない。――
ぼくがそこに入った時とすぐそのあとの記憶はあまりにもおぼろげだ。
いつも怯えていてからだの調子も良くなく、大人のことをそして同年輩の子供でさえ、ヒトであれば避けるようにして過ごしていたように思う。
時折紛れ込んでくる小鳥や猫にわずかな慰めを得ていて、それらの生き物が来ないときには、庭に植えてある大きな木のそばで一日の大半を過ごし、大人たちに連れ戻される、ということを繰り返していた。
そうして【ハウス】の中でクリスマスや正月を三回迎えた後、ぼくはまさゆきくんに出会った。
ぼくはいつものように大人たちの目を盗んで、庭にある大きな木のうろへもぐりこもうとしていたのだが、そこにはすでに先客が来ていて木のうろを占領していた。
その子はぼくより少し年上らしく見え、健康そうな小麦色の肌と僕と同じ黒い髪の毛を持っていた。
きっと同じ黒い瞳なのだろうと思ったが、男の子は泣きつかれて眠ってしまったらしく、木のうろの底に丸まってくーくーと寝息を立てていた。ぼくは仕方なく木の前に座り込んで、その子が起きてくるのを待っていた。
夕方になり、茜色の光があたりを染め始めている頃、僕は肩を揺すられて目を覚ました。いつの間にか僕まで眠ってしまっていたらしい。
「ねえ、君は誰?どうしてここにいるの?」
男の子の瞳は考えていたとおりに黒くて大きく、不思議そうに小首を傾げて僕を見ていた。
「そこの木のお腹の中はぼくのお気に入りなんだ。でも起こしちゃいけないと思って待っていたんだよ」
男の子はびっくりしたように目を見開いてから笑い出した。
「ごめんね!僕、ちっとも知らなかったよ!」
彼は立ち上がると手を差し出して、ぼくを起こしてくれた。彼の手はとても暖かく、【ハウス】の中にいる誰よりも気持ちのいい感触をしていた。
「交代するかい?」
「ううん、もうぼくも連れ戻されちゃう時間だから、いい。暗くなる前に中に入らないと怒られるから」
「ああ・・・・・、そうだね・・・・・」
男の子は実に嫌そうな顔をした。
「ねえ、君はここに来たばかりだよね。名前は何ていうの?ぼくはね、[雪]って言うんだよ」
「それって親に付けてもらった名前かい?」
「ううん、たぶん違うと思う」
「だったら、そっちの名前を言えよ!訳の分からない名前なんか必要ないだろう!」
いきなり怒鳴られて、ぼくは怯えた。いったい何に彼が怒っているのか分からなかったし、彼の声には深い悲しみがこもっているようにも思えたからだ。
「ああごめん。これって僕の八つ当たりだよね」
しょんぼりとなった彼は、ぼくに素直に謝り、そしてぽつんと言った。
「僕はここでは[雲雀]呼ばれることになるらしいよ。でも本当はまさゆきって呼んでもらいたいんだけど」
ぼくにはどうして他の子が前の名前と違う名前を呼ばれることを嫌がるのか分からなかった。名前は名前でしかなく、自分が変わることは無いと思うのに。
「僕の名前はね、大好きなおじいちゃんがつけてくれたんだ。僕はおじいちゃんが大好きで、きっと大きくなったらおじいちゃんみたいな音楽家になろうと思っていたんだ。僕の名前はその夢に繋がっているみたいで大好きだった。でも、もうここではその名前は使っちゃいけないって言われたんだ」
おじいちゃんに会いたい・・・・・。と彼はぽつんと言った。泣き出しそうに顔が歪む。
「会えないの?」
「うん、僕のお父さんとお母さんが宇宙船の事故で死んでここに連れてこられたんだけど、おじいちゃんもこの前病気で死んだって聞かされた。僕を知っている人が誰もいなくなっちゃう・・・・・。僕の名前まで無くなったら僕までなくなるみたいで、いやなんだ」
ぼくにはここに来る前の記憶がほとんど残っていない。
それはぼくが属していた世界と切り離されてしまったということで、根無し草のような不安定な立場にいるということだ。アイデンティティがないということは、たまらなく人を不安にさせるものなのに、ぼくはそんな不安を無意識にしか感じていなかったから、いつも怯えて他の人を避けていたのだろうか?
もっとも幼かったぼくにそんな理詰めの分析が出来たわけではなく、まさゆきくんの怯えを我が事のように感じることが出来たということだけだったけど。
「ぼく、名前を覚えていないんだ。小さい頃にここに来たらしくって、ぼくが覚えているのは自分の事をユーちゃんと呼んでいたことだけなんだ。」
記憶の奥底で、かすかにこすられてくる音の並び。ユー・・・・・ユーちゃん、ユキ、・・・・・ユーキ・・・・・。
「ぼくは、ユーキっていう名前なのかな?今思い出したみたいだ・・・・・」
「ユーキか。君ニッポン人なんだろ?だったら、『ゆうき』って発音するはずだよ」
「『ゆうき?』」
「うん、いい名前だね。ここにいる大人たちは僕たちを違う名前で呼ぼうとするけど、二人の間ではお互いにこの名前を覚えておこうよ」
ぼくはこくんとうなずいた。
両手を握ってきたまさゆきくんの手は、僕を仲間にしたがっていて、心には不安と緊張があることを伝えてきた。
「うん、そうだね。ぼくたちは同じニッポンジンで仲間だものね!」
じゃあ、仲間ということで、と続けてポケットをごそごそと探り出したぼくは、得意げに奥からまあるい飴を取り出した。
「はい!仲間のしるしだよ」
「ありがと」
まさゆきくんは飴のフィルムをはがすと、口に飴を放り込んだ。
「・・・・・美味しい!」
びっくりしたようにぼくの顔を見た。
「聖誕祭の今日だけで売られている飴なんだ。さっき近くの出店で買ってもらったんだよ。ぼく、これが大好きなんだ」
「聖誕祭?」
「うん、えーと、何とかっていう神様が生まれたとかいうんだけど・・・・・わかんないや」
ぼくは何の祭りかも知らずに出かけて行って、はしゃいで楽しかった事を思い出して笑ってしまった。
「この飴気に入った?」
「うん!気に入った。ありがと」
ぼくも嬉しくなって笑っていると、遠くから大人たちが呼ぶ声が聞こえてきた。
「そろそろ中に入る時間みたいだね。怒られないうちに入ろうか?」
「うん、行こう!」
ぼくらは手をつなぎながら建物へと駆け出していった。
こうして、ぼくたちが出会ったのだけれど、この出会いはぼくにとってはとても大きな出会いだった。
今まで人を避けて怯えていたぼくが、まさゆきくんの背中越しに隠れながらではあってもごく普通に他の人と普通に話せるようになり、笑う機会も増えてきた。
食欲も出てきて痩せていたからだにも少しずつ肉がついたし、沢山動き回っても疲れることがあまりなくなっていった。
まさゆきくんは小麦色の健康そうな肌とよく動く黒い瞳を持った快活な少年だった。
人懐っこいまさゆきくんは【ハウス】の中の誰からも愛され、多少のいたずらも多めに見てもらえるほど大人たちのお気に入りになっていた。
それにひきかえ、ぼくはうんざりするほどなまっ白い肌と、大きくて茶色がかっていてころげ落ちそうな瞳を持っていて、いくら食べても大きくならず、細くってまるで女の子みたいで嫌だった。
それでいてぼくは、いつもははにかみやで大人しいのに、こうとなったら絶対にいう事をきかないがんこな子供だった。
いつでもまさゆきくんのあとをついて歩いていたぼくのことを、まわりは守ってもらっている弟のように見ていたのだと思う。
でもぼくとまさゆきくんだけはそうではないことを知っていた。
まさゆきくんは、いつもは明るくて活発で小さいことにはこだわらないように振舞っていたけれど、本当は意地っ張りで強がりで、とても繊細な心を持っていた子だった。
昼間は活発でいろいろな事に興味を持って動き回っていたけど、時折夜になると両親やおじいちゃんのことを思い出して泣いていた。
ぼくはいつでもそれに気がつくことが出来て、彼の部屋へ行くと黙って彼を抱きしめてぽんぽんと背中を叩いて落ち着かせた。
まさゆきくんの温かなからだと安心感に満ちたため息は、ぼくまで慰められる気がしていた。そうやってぼくらはお互いを支えあっていたのだ。
幸福な二年間を過ごした。
たとえそれがほんの束の間の、氷の下にはすぐ海があるような不安な月日だとしても、ぼくらにとっては閉じられた卵の中の小さな幸福に満ちた日々だった。
ぼくらの世話をする大人たちがひそひそと、『・・・・・今は選挙があるから・・・・・』とか『マスコミが煩い。しばらくは息を潜めて、このまま様子を見ていれば・・・・・』『内戦が・・・・・』『ここの経営は・・・・・』とか陰で言い合っているのを聞いたことがあっても、ぼくらに関係することとは思っても見なかった。
ぼくとまさゆきくんはいつもいっしょで、同じ机で勉強し、こっそりといっしょにニッポン語でしゃべったり歌ったりしていた。
【ハウス】の大人たちはぼくらに銀河標準語をしゃべることを命じていて、ニッポン語をしゃべる事は禁止していたのだが。
まさゆきくんは誕生日の分からないぼくのために、二人が出会った日を僕の誕生日にしてくれてバースデーソングを歌ってくれたりした。
『神様と同じ誕生日だよ』と言って笑いながら。
こっそり音楽室に忍び込んで、硝子ケースに飾ってあったバイオリンを持ち出して、ぼくに聞かせてくれたこともある。
まさゆきくんはおじいちゃんに手ほどきを受けていたそうで、子供の手にはまだかなり大きいバイオリンを上手に弾いてみせてくれた。
「まあくん、ぼくも弾いてみたい!弾いてみたいよ!」
ぼくはぽろぽろ泣き出しながらまさゆきくんに言った。
はじめの一音だけでからだが震えるような感じがして、なんだか昔よく知っていた懐かしいものにまた出会えたような気がしていた。
「いいよ。教えてあげる」
まさゆきくんはぼくにバイオリンの持ち方や弓の構え方から教えてくれた。
ぼくが初めて弾いたときには、まさゆきくんの音と違ってキーキーというひどい音しかしなくてかなりがっかりした。
「誰だって初めはそんな音しかしないもんだよ。練習すればきっといい音になるよ。それにゆうきが弾いている音は、とってもいい感じの音だから、きっと上手になるよ。ゆうき、きっと大丈夫さ」
まさゆきくんはそう言って励ましてくれた。もちろん音楽室のバイオリンに子供が触れてはいけないことを知らされていたから、楽しいバイオリンの練習はこっそりと時々にだったが。
――しかし、そんな幸福な日々はある日突然破られた――
その晩ぼくは自分の部屋でぐっすりと眠っていた。でも、突然殴られたような衝撃と共に目が覚め、ベッドから飛び起きた。
「何?なんなの、この変な感じ?」
どきどきと心臓が鼓動し、手が冷たくなってじんわりと冷や汗が流れてくる。
―― いや!いや!いや! ―――
―――やめて!やめて!やめて!やめて!―――
―――― 痛い!痛い!痛い!―――
――――― 助けて!助けて!助けて!――
早く!早く!
手遅れになる!手遅れになる!
急げ!急げ!急げ!!
ぼくはベッドから飛び出すとまさゆきくんの部屋へと駆け出した。
「まあくん!」
飛び込んだ部屋にまさゆきくんの姿は無かった。
「・・・・・どうしていないの・・・・・?」
どきどきする不安感と危機感はさらに増してくる。
「これって・・・・・」
ぼくが少し前まで時折感じていたものだった。
不安で怯えていて、誰にも触られたくないような嫌悪感・・・・・。それはあの時にも増してぼくを責めさいなんで来る。
「こっちから・・・・・かな?」
ぼくは自分の感覚に従って走り出した。まさゆきくんの身に何かがあったとしか思えない焦燥感・・・・・。それがどうして自分に起こるのか分からなかったが、背中を押されるようにしてぼくは走った。
走っていった先は、大人たちに入ってはいけないと厳しく禁止されていた客用の建物だった。
以前には時折に、夜どこからともなく大勢の客がやってきて、そこに泊まっては朝方に帰ることがあったけど、最近は見かけていなかったのだが。
でも、今夜はそこに照明がついている。
ぼくはこっそりと建物に入り込むと、まさゆきくんの姿を探して回った。必ずここで彼の姿があると確信めいた自信があったのだ。
早ク!早ク!早ク!早ク!
急ガナイト間ニアワナクナル!
マサユキクンガ・・・・・!!!
・・・・・ふいに、ひどい焦燥感は消えてしまった。まるで何事も無かったかのように・・・・・。
ただ心臓のどきどきだけがさっきまでの感覚の残骸だった。
いったい何があったというのだろうか?ぼくは部屋戻ろうか、このままここでまさゆきくんを探し続けようか迷ってしまった。
「なんだって!死んだって・・・・・、そんな・・・・・」
すぐ近くの廊下の角の先から大人の声がしてびくっとなった。こちらへ来る気配にあわてて物陰に隠れてやり過ごそうとした。
「またあのじいさん・・・・・!なにをやらかしてそうなったんだ?せっかくここがまた再開できたっていうのに・・・・・これじゃいい加減こっちは大損害だぞ!相手は?[雲雀]だって?!」
ぼくはその声を聞くと、飛び上がって走り出した。
「おい、こら![雪]じゃないか!?なんでお前がここにいるんだ?」
呼び止める声を背後に聞きながら、ぼくは明かりがついている部屋へと飛び込んだ。
「・・・・・まあ・・・・・くん?・・・・・ま・・・・・さゆ・・・・・き・・・・・くん・・・・・?」
その部屋のベッドの上に投げ出されていたのは、裸で、白くて細くてつるりとしたきれいな人形・・・・・。
でもその人形はまさゆきくんの顔をしていて・・・・・。びっくりしたような顔をしてこちらを見つめていて、瞬きをしなくって・・・・・。
「まあくん!!」
ぼくののどから叫びがほとばしっていた。
でもぼくの耳にはまるで遠くから聞こえてくるように聞こえていて。自分の鼓動ががんがんと耳に響く。
「こんな、こんなはずじゃなかったんだ・・・・・初めてで痛がっていたからちょっと薬を使ってお互いに楽しもうと思っただけだったのになぁ・・・・・こいつ死んじまったよ初めての相手だって言うから気持ちよくしてやってかわいがってやろうと思っていたのにわしはただそう思っていただけなのに死んじまったよこいつなんであっさりと・・・・・」
ぶつぶつと呟きながらまさゆきくんの隣に座り込んでいたのは、まさゆきくんと同じように裸で、でっぷりと太り、腹の皮が垂れ下がっているような男だった。
おなじようにぶくぶくと太った手をのばして、まさゆきくんを撫で回していた。ソーセージのような指にはきらきら光る石のついた指輪がはまっている。
「まあくんに触るな!」
ぼくは悲鳴を上げていた。こんなヤツにまさゆきくんを汚されてたまるものか!
おやっと男が僕の方を見て、にやっと笑った。
「そうか、こいつのかわりに来たんだね?いい子だ、こっちへおいで。・・・・・美味シソウナ子ダネ」
ぼくはぞっとなった。僕の中で何かが反応している?
「こっちへ来るんだ!オ前ヲ食ベテミタイカラ」
強く言われて足が動き出す。
ぼくは真っ青になった。自分の意思で動こうとしているわけじゃないのに・・・・・?
ぼくは必死で自分の足を止めようとした。扉につかまろうとし、ソファーの背に手を掛けて・・・・・。何か言わなきゃ何か言って止めなくちゃ・・・・・!
「・・・・・そ、そうやって何人もの子供を殺してきたの?あなたはここで子供に薬を使って酷い事をして、殺してきたんだね!」
男はぎくっとして顔をこわばらせた。
「な、なんだと・・・・・?」
「[ルビー]もそうだよね。[胡蝶]もそうだ。みんなあなたが殺したんだ!ぼくも殺す?まあくんと同じように?!」
「やめろぉ〜っ!!」
男は太ったからだに似合わないすばやさで僕に飛び掛って来て、ぼくの首に手を掛けて絞め殺そうとした。
僕は人形のように振り回されながら、思いっきり笑って見せた。
「こ、殺せばいい。僕らはみんなであなたを見て・・・・・る・・・・・か・・・・・」
意識が遠ざかる。目の前が暗くなってきて耳鳴りがして真っ暗な闇に落ちていこうとしていた・・・・・。
ふいにぼくの意識は、まるでスイッチが入ったかのように、戻ってきていた。気がつくとまだあの部屋の中で、ソファーの上に寝かされている。
「ケホッ、ケホケホケホッ・・・・・」
開いた気管支は思い切り咳をはじめて止まらなくなり、首を絞められていたときよりも苦しかった。
「困りますね、ミスター。これ以上うちの商品を傷つけてもらっては・・・・・。ただでさえあなたにはこれまで何度も迷惑を掛けられている。これ以上なさるおつもりならこちらにも考えがございますよ」
誰かが小さい声でぶつぶつといっている。
ぼくの意識が戻ったのに、太った男(まあくんを殺した男だ!)とぼくが気を失っている間に来ていた痩せた猫背の男は、そこにいるぼくにはまるで関心がないようだった。
扉の側には数人の男が黙って指示を待って立っていた。死んでいるまさゆきくんをそのままそこに放り出しておいて。
「しかしだね。なんでこいつはここに飛び込んで来たんだ?
てっきりあの子の代わりをするために来たかと思ったんだがね。
それにどうして、もう二年も前のことなのに今頃になってわしのやってしまったことを教えたりするんだ?あのことを言われたりしなければ、わしも逆上したりせずにいたんだがね!」
「は?いいえ。子供たちには何も教えてはおりませんよ。
あなたがどんな性癖の持ち主であるかとか、大人しくしなければどんなことになるか・・・・・などとはね。だからこそ暗示の言葉が必要なのでございますよ。
あの言葉を言えば誰にでも素直に従って夜のお相手をする、強い口調でしゃべれば相手の言うことに逆らうことが出来ない・・・・・それはミスターもご存知のはず」
「しかしこいつは[ルビー]と[胡蝶]のことをしゃべったぞ。誰かが教えなければ知っているはずがないだろう」
「何ですって?」
二人が同時に僕の方を向き直り、ぼくは怯えた小ウサギのように身を縮めた。
「この子は[雪]と言って、前からここでこういう問題があると怯えていたのですが・・・・・そうか・・・・・それでは、感応者だったというわけですか・・・・・。気がつきませんでしたね」
「感応者だって?!」
太った方の男はひどく嫌そうな顔をした。口を手で覆って追い払うしぐさをする。はめている指輪が光って見えた。
「イブル・アイ(邪眼)というわけだな」
「ミスターの信仰する宗教では、感応者は邪悪なものとして石で打って殺すそうですね」
「そうだ。誰が殺したのかもそいつに分からないように袋をかぶせて、大勢で石を投げて殺して地獄へ追い返す。殺したのが誰か分かれば、そいつに祟るのでね」
いかにも穢れたものを見るような目でこちらを見ると、ぼくを指差して叫んだ。
「こいつを遠くにやってくれ!ここに置かれては困る!殺すな!殺してはならん!ここで殺されてはわしの後味が悪い。
ああ、その・・・祟られるなどとはもちろん信じてはいないがな。他人の心を覗き込むような邪悪なやつは、わしの目の届かない遠くで、誰か他の者のせいで野垂れ死にすればいいんだ!
遠くの、そうだ、恒河沙にある奴隷市場にでも送って奴隷にしてやればいい!」
「承知いたしました。それではそのとおりに致しましょう。ここでは招待された方の言うことが絶対でございますから。」
猫背の男が扉の側の男たちに手を振ると、彼らはまだ倒れていたままのまさゆきくんを運び出し、ぼくを部屋から連れ出しにかかった。
「嫌だ!まあくん!まあくん!まさゆきくんをどこへ連れて行くの?!」
「お前は自分の心配をしていろ!」
ぼくを引っ張って行く男はそう言うと、ぼくの首にヒヤリとするものを押し当ててきた。シュッという音がしたとたん、かくんとからだの力が抜けていった。
「な・・・・・注射・・・・・?」
ぼくの意識はぱたんと途切れてしまい、
――あとは・・・・・溶暗――。
気がついたときにはどこかの船の倉庫の中だった。
「・・・・・ここは、どこなの?」
ぼくの右の太ももには、登録番号がYUK1・・・・・と彫り付けられていて、ずきずきと痛んだ。
「船の中だよ。奴隷船というわけだ。お前も売られていくんだな」
隣にうずくまっていた男がボソッと言った。
「え?奴隷って・・・・・?」
「ここに居られちゃ都合の悪いやつは、連邦に売り払われるっていうのが決まりになっているのさ。お前も俺もな!」
「そんな・・・・・まあくん、ぼく・・・・・売られちゃったみたいだよ・・・・・」
ぽつんと呟いてみた。ぽろぽろと涙が溢れてくる。
まさゆきくんが死んだことに心が追いついていなくて、涙が出なかったぼくは、いまやっとかわいそうなまさゆきくんのことを思い、これからどうなるか分からない自分の未来を思うことが出来るようになっていて、盛大に泣きじゃくることになった。
ぼくにはまさゆきくんと同じ暗示がかかっている。それは今度まさゆきくんと同じ状況になった時には、同じ死に方が待っているかもしれないということだった。
「まあくん。ぼくはどうなるんだろう・・・・・?」
まさゆきくんを失った悲しみとともに、自分のこの先への不安と絶望がぼくを押し包んで、飲み込んでいった・・・・・。