【 第2章 上 】
森の中を歩いていたヤブオオカミは、ふと耳をそばだてた。
風に乗って綺麗な『音』が流れてくる。彼はゆるやかに尻尾を振って喜んだ。森に時々入り込んでくるニンゲンがまたあの心地よい音を出しているらしい。きっとこの分では他の動物――いつもならヤブオオカミの獲物となるものたち――も、たくさん集まってきているだろう。
しかし、今は空腹を覚えていないヤブオオカミは寛大な気分でその動物たちの仲間に加わるべく、音の聴こえる方へと歩き出した。
音はニンゲンどもが荒らした森のはずれの方から聞こえてきている。しかしその途中にはユキモドキが沢山の群生を作っていた。今の季節はちょうど春でこの花は森のいたるところで白い花の盛りを迎えていた。
ヤブオオカミはフンと鼻を鳴らした。ユキモドキは細かい花びらで出来ていて、少し触っただけではらはらと花びらが落ちてしまう。その上この花の中を横切ろうとすると、そこを通った跡がはっきりと付いてしまうし、体中に花びらがまといついてしまう。目立つ事この上ない事態になってしまうのを優秀な狩人であるヤブオオカミは嫌い、ユキモドキを避けて音の元へと急いだ。
近づくにつれ音は大きくなり、なんともいえない心地よさがからだを包む。
大木のそばのちょっとした空き地になっている場所で音を出しているニンゲンの姿が見える頃には、やはり思っていたとおりに沢山の動物たちがそのニンゲンの周囲に集まっていることを知った。
ヤブオオカミは生態系の頂点にいる権威者としての貫禄を見せ、彼の姿を見て後ずさりして場所をあけた動物たちの間を抜けて一番聞きやすい場所に陣取った。
「やあ、ロボ。君も来たのかい?」
そのニンゲンは、弾いていた小曲を弾き終わるとヤブオオカミのそばに来て頭を撫で、耳の下辺りを掻いてくれた。ニンゲンに触られたことのない彼は、最初その無防備な態度に度肝を抜かれていたが、このニンゲンの手は出してくる音と同様に心地よく、今ではそうやってくれるのを楽しみに待つようになっていた。ぱたりぱたりと尻尾が地面を打って歓迎を示して見せる。
「じゃあ次は、何を弾こうかな?」
ニンゲンは顔に掛かった妙なものをいじると、また心地よい音を出し始めた。そうやってしばらく気持ちよく聞いているうちに、遠くから他のものが近づく音が混じってきた。森の生き物ならばこのような荒々しい無遠慮な音は立てない。
どうやら音を出しているニンゲンに近づいて来るものがいるらしい。
しぶしぶながら動物たちは森の中へと散っていった。他のニンゲンどもに会うつもりはなかったからだ。ヤブオオカミもおもむろにからだを起こすと、ゆっくりと木々の間を歩み去っていった。
「おーい、どこにいるのー」
「ああ、ここにいるよ!」
ユキモドキの花びらを一杯からだにくっつけて、少年が広場へと駆け込んできた。しかし、ちょうど立ち去ろうとしているヤブオオカミと目が合ってしまい、ひっと立ちすくんでからだが硬直した。
ヤブオオカミは完全にこのニンゲンを無視して王者の貫禄で去っていき、ようやく少年はほっと胸をなでおろした。
「マミー、い、今のヤブオオカミだよね。すっごくでかい」
「ああ、ロボのこと?うん大きいよね。彼はこの森の王様だから」
「ロボって・・・名前付けてるのか?!マミー平気なのか?食われるかもしれないのに・・・・・」
くすくすと楽しそうに悠季は笑った。
「だいじょうぶさ。彼は森のなかでは僕の演奏会の常連の観客だから」
「観客だってぇ?」
ソラは仰天して大声を上げた。
「うん、僕が森でバイオリンを弾いているといつもそばに来て聞いているよ」
「やっぱり、マミーはすごいんだね!」
ソラが感動してそういうと、悠季は照れ隠しに眼鏡を押し上げるとソラをうながした。
「ここに来たって言う事は何か用事があったんだろ?」
「あー、じいちゃんが呼んでるんだ。そろそろお仕事に出かける時間だからって」
「もうそんな時間だったかい?まずいなぁ、またおじいちゃんに怒られそうだ」
悠季は急いでバイオリンをケースにしまうと、ソラのからだからユキモドキの花びらをはたき落としてやった。
「またユキモドキの中を突っ切ってきたんだろ?いっぱい花びらがくっついてるよ」
「でも、帰りはそこを通って帰れるから!」
悠季は笑い出した。
「確かにそうだね。じゃ、帰ろうか」
二人は森から、住処である小音楽堂へと歩き出した。ソラの言ったとおりユキモドキの群生ははっきりと左右に分かれていて、いつもよりかなり近道で帰ることが出来た。
「おじいちゃん、遅れてごめん!」
「いや、まだ少し時間はある。早く着替えてきなさい」
にっこりと笑うとおじいちゃん=養父の福山は悠季を住処の中へと招きいれた。悠季は大急ぎで自分の部屋へと行き、がたごととせわしげな音を立てながら、着替え始めた。
悠季の声が遠くからくぐもって聞こえてくる。
「おじいちゃん、今日の仕事は家具職人の親方の娘さんの結婚式だったよね」
「そうだ。だからあまり派手な服にはするなよ」
「んー。わかった」
やがて柔らかな緑色で仕立てられた、恒河沙の民族衣装に着替えて悠季がやってきた。
「これでどう?」
「ふむ、いいだろう。じゃあそろそろ行くとするか」
「うん!じゃあソラくん、留守番を頼むよ。夕食はなべの中に用意してあるからね」
「あうっ。待ってる。帰ってきたら、マミーのバイオリンをまた聞かせてくれるか?」
「うーん。あまり遅くにならなければね」
「わかった。待ってる」
悠季はにっこりと笑うと、ソラくんの頭をクシャリと撫でて、福山の後を追って家から出かけていった。その笑い顔を 福山がじっと見ていたのに気がついて不思議そうに聞いた。
「なに?おじいちゃん、僕の顔に何か付いてる?」
「いや、大きくなったと思っただけだよ」
福山はそう答えて見せたが、実は彼が自分のところに来た当初のことを思い出していたのだった。
あの、幼くて痩せておびえていて今にも死にそうな少年が、今は背も伸びて健康そうな青年に見事に成長していた・・・・・。
――― 福山は回想する ―――
「え?・・・・・ここは・・・・・?僕・・・・・」
「気がついたかね?水を飲むかね?」
私は寝ていた少年を抱き起こして口元にグラスを押し付けると、ユーキはこくこくと美味しそうに水を飲み干した。
「五日も熱を出して、目を覚まさなかったからな。さぞ喉がかわいていただろうね。点滴で栄養は入れてはあったが、それだけじゃあからだが辛かろう。後で何か腹に入れるものをもってきてやるからな」
私が椅子から立ち上がって部屋を出て行こうとすると、服の隅をきゅっと握り締めてきた。
「何かね?」
「あ、あの。僕を売り払うんじゃないんですか?前にも、あの・・・・・事のせいで腹を立てた旦那さんから、たたき出されて売られたんです」
「出て行きたいのかね?」
ユーキはあわてて頭を横に振り、その勢いのせいでまた目眩を起こしてぱたんと枕に頭が戻ってしまった。
「わしは気にせんよ。二度とはごめんこうむる出来事だったがね。しかしそのせいでお前をどうこうする気はないから。まあゆっくりと、お互いに仲良く住んでいくルールを考えていこうじゃないかね」
「ありがとうございます・・・・・」
ほっとした様子で微笑むと、ユーキはまた眠り込んでしまった。今までの昏睡のような眠りではなく、安堵感に満ちた安らかな眠りだった。
しかし私は内心ではユーキが起きるまでの数日間、何回ついたか分からないため息をまた一つこぼした。これから2人で暮らす生活を思い、少々荷が重いと感じていたからだ。
あの夜の事件でユーキが昏倒してからすっかり眠れなくなった私は、彼の看護をしてくれる医療器械の「セーシュー」にまかせ、ユーキの譲渡の際に付けられていた書類を(なんとも古めかしいことに羊皮紙!・・・・・まあ、偽物だろうが)調べてみた。
そこにはユーキがどうやって恒河沙まで運ばれてきたか、仲買人たちの動きが記されていた。
それによると、少年はこの三年の間に四回も転売されている。おそらくユーキがやらかした騒動を嫌がった持ち主が売り払ったものだろう。世の中で幼い少年を愛玩しようとする変態はそう多くはいないからだ。
自由惑星連邦(単に連邦と呼ばれることが多い)の中でもこの恒河沙はその趣味を容認し、ごく一般的な恋愛形態にしている数少ない惑星である。ユーキが運ばれてきたのは、そのせいだったに違いない。連邦の中では一般の奴隷制度は容認してはいるが、宗教上、幼い少年との性愛についてはタブー視しているという惑星が多いからだ。
人類が宇宙に進出してもうかなりの年数が流れている。
多くの星々に散らばり、異性人とのファーストコンタクトを経験し、様々な文化や伝統を作り上げてきた。その中で人類のモラルは古き地球の開拓時代の厳格なカトリック的なものを適用する惑星が多かった。
結婚や恋愛は、成人した男女間のものであり、同性愛や年少者を相手とするものや獣姦の類など・・・・・およそ退廃に犯された性愛と思われるものを排除していったのだ。
最近では、同性間の結婚はかなりの範囲で容認されてきている。
なにしろ宇宙で最適な異性と会える可能性が少ない場所はザラにあり、好みの相手を厳しい範囲で選んでいられないところが多かったのだ。
しかしそれでも、恋愛は成人(この範囲は惑星によってかなりの幅があったが)あるいは個人同士が合意のもとに行われると言う暗黙のルールが確立しており、幼い少年を(あるいは少女を)性愛の対象にすることには眉をひそめるものが多い。まして、幼いものを性欲の対象として売買する事はかなりの惑星政府が禁止している。
ここ、恒河沙は汎宇宙惑星同盟(略して汎同盟あるいは同盟と呼ばれている)にかなり前から目を付けられている・・・・・。
昔の地球の国際連合に相当する機関である汎同盟は、宇宙に広がっている数多くの、惑星政府どうしや相互協力契約を結んでいる惑星政府グループどうしのもめごとや、新しく発見された居住可能な惑星に対する移住に対する扱いなどをどこにも属さない公平さで扱う機関であるが、その部署の中に奴隷制や人身売買の廃止を推し進めようとする部署がある。
一度地球で廃止されていたこれらの悪行が今また行われるようになった事を、苦々しく思っている人々がこれを作ったのだ。
惑星の自治権を盾にした連邦は奴隷制廃止への圧力を撥ね退けており、現在連邦に所属している惑星同士の間での取引のみをしていること宣言しているため、汎同盟に付け入るスキを与えていない。
ユーキは連邦のどこかで男娼として育てられ、何かの理由で売り払われ、しかし性のタブーを持つ惑星でさっきのような反応をしてまた売り払われて転々とし、最後にここへと行き着いた・・・・・。
彼はここにつく前の『旦那さん』たち(前の買い主)に自分が挨拶のように当然なことと思っていた行為が否定され、いけないことだと言葉とからだで思い知らされており、倫理観と肉体の求める快楽と自分が持つ常識との間で混乱をきたして、先ほどのような事件を起こしたのだ・・・・・と私は考えていた。
だから私はこれからの計画をいろいろたてていた。そう、私はゆっくりと彼の覚えこんでいる常識から汎同盟がもっとも多く採用している倫理観を受け入れるように徐々に教えていけばいいのだと思っていたのだ。それには私もかなりの忍耐を必要とするだろうとか、貞操の危機に注意しなければいけないだろうとか思っていた。これから少年が成人するまでの時間を使って、根気良く行うのが引き取った私の務めだろうと。
しかし事態は私の考えていたものとはまったく違うものだった。私はなぜ彼がここに来た時に逃げ出そうとしたかを思い出さなければいけなかったのだ。そして、私の強い口調に必ず従うということにも。
翌朝にようやく目を覚ました少年は、水と私が用意した粥を口にした。しかしまだあの夜の後遺症が残っているのかあまり食欲をみせず、そのまま、またうとうとと眠りに就いていた。
緊張から解かれた人間はまずからだと心のケアのために良く眠る。
彼もそうなのだろうと思い、私は再び看護をセーシューに任せ、何かあったら知らせるようにプログラムしてから町へと出かけていった。
出かけたのは今日も奴隷の競売が行われるからだ。私がここ恒河沙に来たのは、奴隷の競売で、ある人間を探し出す為だった。
惑星恒河沙には、首都の「垓都」にしか宇宙港はない。ここの奴隷市場は連邦の中でも一番大きいから、ここを探していれば銀河系で取引されている人間の大半の顔ぶれが分かると言われている。
連邦内の別の惑星での取引状況も客へのサービスとして検索できるからだ。そして私が探しているのはまだ幼い少年だったから、ここへ出てこなければ、『たとえ奴隷となっていてもいいから』という私の願いも空しく、この世にはいない事になる。
今から五年ほど前のこと。私の愛する娘夫婦と孫は、辺境の惑星へと単身赴任していく目的で不定期航路宇宙船に乗って、今まで私と住んでいた惑星を旅立った。しかし、もうすぐ目的地というところで宇宙船ごとそのまま消えてしまったのだ。
その当時大きく騒がれた事件だったが、その後その船が宇宙海賊に襲撃され、大破した事が分かったのだ。船の残骸が発見され、その中から娘と婿の遺体は発見された。
だが、孫は見つからなかった。発見された遺体より行方不明の人間が多かったことから、海賊は船に積み込まれていた高価な品物のほかに奴隷として取引できそうな人間も連れ去っていたらしいことがわかった。
辺境の奥深く、汎同盟に所属していない開拓中の宇宙地域では、未だに人間は貴重な労働力としての価値を持ち、拉致してきた人間さえ不法に取引されていたのだ。
汎宇宙惑星同盟所属の宇宙軍は、この海賊を探索し短期間で壊滅させる事に成功したが、連れ去られた人間のうちの三分の一は、すでにいずこかへ連れ去られて発見できなかった。
その当時から連邦では、『海賊がさらってきた人間をも奴隷として売買しているのではないか?』と密かにささやかれていた。私は政府の調査だけでは飽き足らず、自分でもあちこちを探し回ったあげくに、一縷の望みを託して、孫を探しにここへやってきた。