【 第18章 上 】
屋敷に戻ってきたエミリオ先生には、いきなりとんでもない状況に遭遇する事になった。
悠季にスパゲティをぶつけられた吉野は大騒ぎの末、かんかんに怒り狂ったあげく、戻って来たばかりのエミリオ先生に向かって猛烈な抗議を開始したのだった。
その顔は破裂寸前のように腫れ上がっていて、その上あちこちにぶつけた赤やら青や黒の派手な痣に彩られてなんとも見るに耐えないものになっていて、目からはまだぼろぼろと涙が止まらない上に鼻水も出っぱなしという、情けない有様だった。
「ロ、ロスマッティ先生、僕は断然抗議しますっ!この事態は必ず那由他の文化省に報告してしかるべき謝罪をしてもらいますからね!
こ、こんなことをされて黙ってはいられません!こ、こんな侮辱は生まれてこの方受けたことがありませんよ!こんな下品で野蛮な奴とは一緒の部屋に居ることさえ我慢できません!どうかさっさとこいつを追い出して下さい!」
涙を拭きながら、鼻をすすりながら、盛大に鼻をかみながらというにぎやかなBGM付きでの抗議だった。
「まあまあ、待ちなはれ。うちには何があったかまだよく分かってないよってな。麻美はんからの話やと二人が何やら言い争っていて、悠季がスパゲティの入ったボウルを投げたということやと聞いてるのやけどな・・・。いったい何を言い争ってはったの?」
「た、たいしたことではありませんよ。僕は福山君にもっと修行してからデビューした方がいいよと言っていただけです。それをこいつときたら・・・」
芳野は涙を拭き鼻をかむにぎやかなしぐさを行いながらも、じろりと悠季の方をにらんで指差した。
「確かに僕はスパゲティをこっちにまわすように頼んだことは頼みましたよ。そうしたら、私の顔めがけてボウルを投げつけてきたんです!」
「本当に頼んだやけ、やったの?」
「そのとおりです。僕は頼む時に『すまないが』とは付け加えなかったとは思いますが、だからといって・・・」
ぺらぺらとまだその先を言い続けようとしている芳野を止めて、エミリオ先生は悠季の方へと向いた。
「それで、悠季の方は何か申し開きをすることはあらへんの?」
「ありません。確かにそのとおりです」
エミリオ先生はため息をついて、悠季に言った。
「そんなら、悠季は芳野はんに謝ればええ。何もことを荒立てんと、事は平らに収めんとな」
「ロスマッティ先生!僕はこいつが謝罪するだけでは許しませんよ!絶対にこいつが出て行くようにしてもらいます!いや、先生のお宅を出て行くだけじゃ気がすまない、こいつがいた貧民窟でもどこでもさっさと追い返すべきです!」
「何やて?」
それまでは穏やかだったエミリオ先生が、じろりと芳野を睨んだ。
「貧民窟に追い返すというのは、どういう意味や?」
芳野がたじろぎながらも続きを言い続けた。
「いや、その、だから、彼のいた恒河沙では辻楽士というのは、乞食と同等の扱いだったと僕は知っているんですよ。それに、奴隷だったんでしょう?彼からちゃんと聞きましたよ。
そんなやつをマエストロ・ロスマッティの弟子になどしたら、先生のお名前に傷がつくと思ったわけです。
こういう何の後ろ盾も持っていない奴を弟子に加えたところで、先生に何のメリットもありませんよ。僕でしたら何かしら先生に有利な条件が出せますから。それでですね・・・」
「もうええ!少し黙っとき!」
エミリオ先生がきつい声を出すと、さすがの芳野も黙りこんだ。
「それで、悠季。芳野はんに謝罪せえへんか?」
「・・・先生にご迷惑をお掛けしたことは申し訳なく思っています。でも僕は・・・」
悠季はそれまで黙って下を向いていたが、はっきりと先生と目を合わせてみせた。
「芳野さんには絶対に謝りたくはありません!」
圭に説明していた画面上のパパエミリオはため息をついて見せた。
《そうゆうたっきり後は貝が口を閉じたようになってしまはって、あとはなーんにも言わへんかった。うちがいろいろに尋ねても黙ったまんまやった。それでな、あの場にいはった他の留学生に聞いたんやが・・・》
エミリオ先生は、別室にミスカ君と由布子嬢を呼び出すと、その場であった事について話してくれるように頼んだ。
「それは、悠季はうちの内弟子やし、芳野はんは同じ星から来た者同士やから、二人のことを告げ口するようなんは言いにくいこともあるかもしれへんけど、どうかありのままに話してくれへんやろか」
ミスカ君はうなずくと、素直に話し出してくれた。
「先生、どうか気を使わないで下さい。芳野氏の言った事ややった事は僕にも許せないと思っているんです。同じ那由他の人間として恥ずかしく思っているのですから」
そしてミスカ君は食卓での悠季と芳野との偏見と差別に満ちたやり取りをしかめっ面で詳しく話してみせた。
「芳野はんがそんなひどいことを・・・。それに盗聴とはなんてことを!わかった。よく話してくれはったな。後はうちがええようにするよって、もう部屋に帰ってええよ。おおきに、ありがとうさん」
「先生、早めに悠季さんの部屋から盗聴の証拠を持ってきて確保しておいたほうがいいと思いますわ」
今まで黙っていた由布子嬢が突然口を開いた。
「私はどなたが野心を持ってコネやらツテやらを使おうが、誰かの縁者であろうが関係ないと思っていますけど、こういうやり方は許せませんわ。盗聴などという犯罪行為をする人が一緒の留学生だなんて言われたくありません!
告げ口をするようで気が引けるのですが、これだけは言っておきたいと思ったんです。先ほど先生に呼び出される前に、芳野さんは悠季さんのお部屋に忍び込もうとしていました。
もちろん、個人の部屋にはロックが掛かっていましたから入れなかったようですし、私が見ているのに気がついたのでそのまま立ち去ったようですけど、もし入ることが出来たら、話に出てきた盗聴の証拠品である盗聴器を持ち去るつもりだったのではないでしょうか?」
「何やて?」
先生は急いで悠季を呼ぶと、自分の部屋から仕掛けられたという盗聴器を持ってこさせた。
確かに悠季の手の中に乗せられている針のような機械は盗聴器らしく、エミリオ先生は屋敷に設置してあった盗聴器発見のためのセキュリティソフトをチェックしてみた。
すると画面上には、現在は先生の手の中にある盗聴器の電波を受信する為の機械が芳野の部屋にあることを示していた。つまりこの盗聴器をしかけたのが確かに芳野であることを証明したのだった。
再度芳野が呼び出された。きっと自分に有利な事態になるに違いないと思いこんていだ芳野はいそいそとエミリオ先生の部屋へやってきたのだが、そこに待ち構えていた先生は普段とは全く違う厳しい顔つきをしていた。
「芳野はん、これはどういうことや?うちの屋敷の中でこんな犯罪行為をされるとは思わへんかったえ。これは間違いなく芳野くんの仕掛けたものやな。嘘をついてはいかん。こっちは調べて分かっていることや」」
テーブルの上には自分が仕掛けた盗聴器が置かれていた。
「そ、それは・・・」
まさかこんなに早く悪事の証拠が見つけられるとは思っていなかった芳野はあせりながらも白々しい言い訳を開始した。
「それくらいは誰だってやることじゃありませんか。
僕は先生がこんな下層階級の人間と付き合うのを心配したんですよ。こういう手合いは那由他にも沢山いますがね、最初はいい子ぶっていてもしまいには後足で砂をかけるようなことをするんですよ!僕はそれをよーく知っていますからぜひ先生も騙されないようにと・・・。
それに先生は近頃彼にかまけて、僕へのレッスンがおざなりになっていると思っているんです。貧乏楽士だった彼がマエストロ・ロスマッティのレッスンにふさわしい授業料を払っているとはとうてい思えませんしね。ひいきですよ!それでどんな話をしているのか僕にも聞かせて欲しかったわけでして、それからですね」
「うちがどんな人間とどないして付き合おうが、芳野はんの知った事やない!」
エミリオ先生はぴしゃりと芳野の言葉をさえぎった。
「芳野はんよりうちの方がずっと人を見る目はあるよってな。それに、あんたはんは短期留学生、悠季はうちの内弟子や。待遇に差があってなんの不思議もないはずや。
どうやら芳野はんは、うちのところで預かるにはふさわしくないお人のようやな」
「ロ、ロスマッティ先生!」
芳野がわめきだした。
「そりゃあないですよ!僕は那由他からの要請で文化省が派遣した留学生なんですよ?!僕を追い出すとなったら那由他政府も文化省のダヴィド氏も黙ってはいないでしょう!どうか考え直してください!」
「芳野和弘くん、荷物をまとめて我が家から出て行きなさい」
いつもの柔らかななまりが消え、銀河標準語の固く冷ややかな声で言い放った。そしてエミリオ先生は悠季をうながすと、吉野を置き去りにして部屋を出て行った。
「ゆ、許さないぞ!僕にこんな仕打ちをしてただで済むと思うな!僕はあちこちに顔が利くんだ!絶対にこのままでは済ませないからな!それに・・・」
そこでぱたりとドアが閉まって、芳野の口汚い捨て台詞は途切れた。
「すまなかったな、悠季。あんなお人やとはうちも思わへんかった。ずいぶんひどいことを言われたようやな」
「・・・いえ、僕こそ先生にご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。でもこのままで構わないのでしょうか?芳野さんは那由他政府に訴えるのではないかと心配なんですが」
「構わんとき。芳野はんの言ってる事は口だけや。何も出来へん。それより食事が途中やったのならお腹が空いてるのとちゃう?何かうちと軽く用意してもらわへんか?何やうちもお腹が空いてきたわ」
からからと笑ってエミリオ先生は悠季を食堂へと引っ張っていった。
悠季はそこですっかり昼食を台無しにしてしまった失礼をパドローネさんに平謝りすることになったのだった。
《それで事件は解決したと思ってたのやけどな、その日の夕方になってレッスンの時間になっても悠季が練習室に来なかったんや。おかしいて思おて部屋に行ってみると、エマとバイオリンだけを持って悠季が書置きを残して出ていかはった後やった》
書置きにはエミリオ先生と麻美奥様にご迷惑をかけたことへの謝罪と、これまでお世話になった感謝の言葉が書いてあった。そして今度の事件で先生の演奏活動に迷惑が掛かる事を恐れた事と、こういう問題のある弟子を手元に置くことが先生にトラブルを招き寄せる不安を述べて、破門してくれるように頼んであった。
《この先は迷惑の掛からないようにするよって、このまま立ち去る事を許してくれ言うて書いてあったわ!》
エミリオ先生は鼻息荒く言ってのけた。
《こんなふうに自分だけで決めて出ていくなんて、礼儀知らずな子や!ちゃんとうちに向かって挨拶していくのが本当や思うえ。圭はどない思う?》
「それで僕のところに戻っていないか尋ねられたのですね?」
《そうや!そっちに戻ってるのやろ?》
「いいえ、何の連絡もありません。
それに・・・おかしいな。悠季がそんな礼儀知らずなことをするとは思えませんよ。・・・彼の性格では恩義のある人にそんな失礼なことをするはずがありません。むしろ僕は他人に遠慮しすぎているのではないかと考えていたくらいですから。今回の事はまるでわざとそんな無礼なことをして、先生の方から縁を切ってくれるように仕向けていったように思えます」
《何やて?》
「芳野というその人物が何か悠季にふきこんだのではありませんか?」
《それは、あるかもしれへんね・・・。しかし圭のところにも戻ってないとなるとどこに行ったのやろか・・・?》
圭は、ふっと過去に悠季との会話の中に出てきた名前を思いついた。
「ああ、そうだ!パパエミリオは『鎖委員会』の市山という方をご存知ですか?」
《ああ、知ってるよ。そういえば、マサオの知り合いやったね。うちも何回か会ったことがあるよって》
「もしかしたらそこに行っているのかもしれませんね。悠季は福山師から三通のM.Sを託されていますが、その中の一通が市山氏宛だったはずです」
《さよか、ほなら市山はんに連絡してみることにしましょか。もしそこに悠季がいたなら、こっぴどく叱らなあきまへんからな!》
何か分かったからまた連絡すると言ってパパエミリオが通信を切った。
圭はため息をつくと悠季の行方を捜す方法を考え始めた。パパエミリオには『鎖委員会』にいるはずだと言い切ったのだが、悠季の思考方法では、このままどこかで辻楽士をして生活していこうと考えることもありえると思い付いたのだ。彼は誰かに頼ることを潔く思わない人間だから。
そこで、その場合に対しての対策も考え始めた。
もし、どうしても見つからないとなれば他の方法を――あの最終手段を――考えなければならないかもしれなかった。
「船長、飯田さんから面会の申し出が入っています」
「飯田君から?」
隣室の川島嬢から声がかかった。
「緊急で知らせたいことがあるそうですが・・・」
と言っているうちに、ドアが開いてあわただしく飯田が入ってきた。
「おい、殿下!大変なことが起こったぞ。連合の奴隷制度に対する審議が開始されるそうだ。それと同時に那由他の【ハウス】の主催者が起訴された!」
「ああ、それは僕の方にも情報が入っていますよ。意外に早かったですね、そろそろ始まってもいい頃だとだとは思っていましたが」
飯田はいらいらとしながら、圭の言葉をさえぎった。
「おい、その分では知らないな?その二つの審議で召喚された重要な証人というのは、あの悠季君だぞ!?」
「・・・なんですって!?どういうことです!」
「俺の知り合いがあの『鎖委員会』の副官にいつの間にやらなっていたんだ。俺が以前一緒に組んで仕事をしていた奴なんだがな。そいつから極秘情報としてリークされてきたんだよ。
俺が【ハウス】のことで問い合わせをしていたから、【暁皇】にも影響が出るかも知れないと心配してきたのさ。そこに、悠季君の名前が出てきたんだよ!
彼は最近 委員会にやってきて、重要な情報を知らせてくれた上、自分が証人になることも承諾したんだそうだ。つまり、奴隷制度を消滅させる為の証人となる事と、【ハウス】での重要な主催者の中の一人の名前を伝えて、法廷でその人物の犯罪についても証言すると言ったそうなんだ」
「その誰かとは、誰なのですか?」
「いや、そいつははっきりとはした名前を出したわけじゃない。あいつもそこまで言う事は守秘義務に反することらしいからな」
飯田は思わせぶりに言葉を切って、ニヤリとした。
「だが、ヒントはくれたよ」
圭はじろりと睨むと、飯田に早く言いたまえと、無言で催促した。
「延原の――これが教えてくれたやつの名前なんだが――言う事には、元連邦に所属していて、今は汎同盟に所属している惑星の出身で、一族の長老が名付け親・・・。だそうだよ。
殿下、お前さんにもこのヒントで簡単に見当がつくだろう?」
「ええ、よく分かりました」
圭の頭に一人の人物が浮かんでいた。
マティルド・ダヴィド=セレンバーグ氏。惑星那由他は一時期連邦に所属していたが、今は汎同盟に加盟している。セレンバーグ一族の長老、妖怪とあだ名されているデイビッド・セレンバーグ氏の血縁で、お気に入りの甥。
「・・・そうですか、彼が・・・」
圭はうなずいた。
「どうりで悠季が『モーツァルト』のホログラム画面で彼の顔を見た時に緊張していたわけですね・・・。僕はあの時はてっきり那由他の文化省がマエストロ・エミリオに留学生を出したことに関心があったのだと思っていたのですが・・・。
そうか、彼が覚えていた【ハウス】での重要人物と言えば、正幸くんを殺した人物としか考えられない。すると悠季は犯人の顔を覚えていたというわけなのですね」
「もし奴が【ハウス】の主催者の一人ということになれば、セレンバーグ一族の中にも波紋が大きくなるな・・・。そうなる前にあの一族の長老、つまりセレンバーグの妖怪じじいが動き出すのは間違いない。
自分の牙城が崩されると思えば何としても阻止しようとするだろう。それもたった一人の人間がこの世から消えてくれればいいだけなんだから、たやすいことだと思うことだろうなぁ・・・」
「そんなことは僕が絶対にさせません!ええ、絶対にです!」
圭は拳をぎゅっと握り締めた。
「市山氏、それでは彼の居所については教えていただけないということでしょうか?」
急きょ圭は飯田と共に【暁皇】を離れ、緑簾の首都天藍へと向かうことにしたが、途中鎖委員会の市山に通信を入れて悠季の行方を聞き出そうとした。
通信画面に現れた市山は穏やかな表情のうちにも圭の介入を拒否する姿勢は崩さなかった。
《少し前にマエストロ・ロスマッティにも言ってあるんだが、今言ったように彼の身辺は今非常に危険となっている。知っているものが少なければ少ないほど彼の安全が守られるのだから、知らせるわけにはいかないのだよ。
それに悠季くんから君やマエストロ・ロスマッティには言ってくれるなと頼まれていてね。二人には合わせる顔がないと言っていたよ。いずれきちんと謝罪に伺うから今はそっとしておいて欲しいそうだ》
そう言って、にこやかな顔つきで市山は回答を拒んだ。
「・・・しかし!」
《まあまあ、落ち着いてくれ。もうしばらくしたら審理が始まって彼を極秘に保護している事を隠す必要はなくなる。そうなれば、堂々とこちらで保護できるんだ。その時には君も面会する事が出来る。君が彼と面識があるといっても、今の時期に例外は認められないんだ。
それに、君は桐ノ院コンツェルンの代表だ。ここでは君が『鎖委員会』に関連していると相手に思われるだけでもまずいんだよ。だから、情報が公開になるときまで待っていてくれないか?そうすれば、話すことも出来るのだからね》
「しばらく、とはいつのことなんですかね」
《そうだねぇ。裁判はしばらくかかるだろうが、審理の開始なら・・・既に奴隷制度についての資料はほとんど揃っていたし、【ハウス】についても裏づけが整うのは時間の問題だから・・・。開廷されるあと一ヶ月ほど先には君と彼と会えるように取り計らうつもりだよ》
「・・・分かりました。彼は、福山悠季さんはどんな様子ですか?」
《ああ、保護のためにつけてある部下の報告では、毎日のんびりと暮らしているそうだ。連れてきているペットをかわいがりながら、毎日風光明媚な景色を楽しんでいるそうだよ。心配ないさ、彼の身の安全は我々が必ず守るから》
「・・・なんですって・・・?!」
《それじゃあ、これから会議があるのでね、失礼するよ》
ごくあっさりと言って市山は通信を切ったが、彼の言葉を聞いて圭は更に不安を募らせる事になった。悠季が日がな一日ぼんやりと景色を眺めてないるなどとは考えられないではないか?!
彼の性格からすれば、どんな状態であっても、時間さえがあれば一日中でもバイオリンを弾いているはずだった。しかし市山はバイオリンのことなど一言も言わなかった。
その情報からすると、彼の手からバイオリンが離れているということにはならないか?
あの悠季が、自らバイオリンを手離す?!そんなことはありえない!
「川島君、藍昌のキングを呼び出してくれないか?」
圭は眉をひそめてしばらく考え込んでいたが、川島嬢の方へ向き直ると大至急で命じた。
《それで俺に助けを求めた、というわけかい?》
圭が藍昌のキングに連絡を取って説明すると、彼も悠季の状況を考えて眉を曇らせていた。
「はい。僕には今、彼の精神状態が安定しているとは思えないのです。彼にとってはバイオリンはなくてはならない、離れられないパートナーです。バイオリンを弾くことが彼にとっては精神安定剤にもなっているのです。それなのに弾くこともせずに日がな一日ぼんやりしているなど考えられない!
バイオリンを取り上げられているか、バイオリンを弾けない環境にいるか、に違いないのです。これはどうあっても僕が彼を保護しなければならない事態です!それなのに、僕には今彼がどこにいるかを教えてもらうことさえ出来ないのです」
《君の考えているとおりとは限らないんじゃないか?彼がバイオリンよりリゾートを楽しむ気分になっているのなら、のんびりとしていることもありうるだろう?》
「もしあなたが彼と同じ立場に置かれたとして考えてみてください。人前でもうすぐ重要な発言をしなければならなくて緊張している時に、あなたの研究を中止しなさい、そして一日中何もせずのんびり暮らしていなさいと言われたとしたら、やはり同じように何もせずにリゾートを楽しんでいられますか?」
《・・・いや、出来ないだろうな》
「あなたは彼の性格を詳しくご存知ではありませんから申し上げますが、彼はとても繊細で他人に気を使う人です。こんなふうにパパエミリオに迷惑をかけたままで出て行った上に、彼がひどく神経質になっていた【ハウス】の問題に直面させられている時に、のんびりとしているなどとは絶対に思えない!
もし彼が一日中バイオリン三昧に過ごしていると言われたならば僕としては安心していたでしょう。彼らしいことですから。ですがバイオリンが手元に置かれていないなら、その結果は・・・考えたくもない!」
ふむ・・・、とキングは腕を組んで考えていたが、やがて腕を解いて圭に言った。
《分かった。すぐに緊急用の発信装置を作動させるように伝えておこう。そうすれば、彼の体内の発信チップで彼のいどころはすぐにわかる》
「ありがとうございます!」
一方、飯田の方もあれこれと動き出していた。
「おい、延原いいかげんしにしろよ!お前が今いるところは、政府の出先機関だから妙な所で秘密主義なくせに、あちこちザルになってるんだ。危機意識といい、先への見通しといい甘すぎるぞ。そんなことでは連邦を追い詰める事も【ハウス】の問題も決着が付くはずがないんだからな」
《おいおい飯田、何の根拠があってそんなことを言ってるんだ?》
「お前、分かって言ってるんだろうな。【ハウス】のことを調べる為に、お前さんの所で集めているという証人を何人か見つけて話を聞いてみたが、いずれも逃げ腰になっているし、どうやらどこかから圧力が掛かっている気配だぞ。本番の裁判の証言席で十分な証言をしてもらえる保障はないと思えよ」
《ちょっと待て!飯田、お前の情報収集能力が高いのは知っているが、どうして証人たちに接触するんだ?裁判が終るまでこちらで保護している人たちなんだぞ!?》
「だーかーらー、ザルだって言うんだよ!お前の所で保護と監視をしているはずの連中には、いくらでも接触出来るんだ。ということは内部で監視を緩めて、接触させやすくしている者がいる、ということさ」
《・・・なんだと?》
「ということで、最近お前さん達が抱え込んだ証人の一人はこちらでいただくことにする。こっちで安全に保護することにするので」
《おい、ちょっと待て!》
「それが不満だと言うのなら、ちゃんとムシを見つけておけよ。スパイという名のムシをな!」
飯田は言い捨てると通話を切ったのだった。