【 第16章 









圭がロスマッティ氏の屋敷から【暁皇】に戻ってきたのは、シャトルの発着時刻が終わってからだった。

その時間になれば、搭載艇の発着場には誰もいないだろう。そう考えての行動だったのだが、どうやら向こうは更に上手だったらしい。






 圭が自分の部屋の前へと来ると、そこにはすでに今最も会いたくない人物が待っていたのだった。

「よう、遅かったじゃないか」

「飯田君、もう時間も遅いですよ。奥方が心配されているのではありませんか?」

「ふん。お前さんがもっと早く帰ってくれば、どうってことない時間になったはずだがな。で、悠季君はマエストロ・ロスマッティのところへ預けてきたのかい?」

彼はあっという間に核心をついてきた。

「・・・ええ」

「で、彼は何か言ってたかい?」

「・・・飯田君、僕は早くシャワーを浴びてベッドに入りたいと思っているのですがね」

圭はポーカーフェイスのまま飯田を冷ややかに睨んだ。

「まあまあ。俺はやけ酒の相手をしに来てやったんだぜ」

「別にやけ酒の必要などありませんが」

 飯田は圭の言葉など聞かず、にやにやとして立ち去ろうとはしなかった。圭はため息を一つつくと、仕方なく部屋のドアを開けて、飯田を中に招き入れた。

「へえ・・・。初めて入ったが、お前さんの部屋は面白いねぇ!」

物珍しそうに圭のコレクションの数々を見回している姿はまるで見物が目的のようにさえ見えた。

「そうですか?どうぞ適当に座っていてください。酒とつまみはそこのフードユニットから適当にどうぞ。僕は着替えてきますので」

 飯田が手を上げて答えるのを見てから、圭は自分好みの軽装へ着替えに向かった。

クローゼットには、昨日悠季が来ていた服がクリーニングされて戻ってきており、圭のものではないために仕舞われずにそこに置かれたままになっていた。

それを見た圭の胸がちくりと痛んだ。









「先にやってるぜ」

 居間に戻ると、飯田がテーブルにウィスキーやらアイスペールやら数種類のつまみやら細々と並べて酒盛りの準備を整えており、仕方なく圭も向かい合って椅子に腰掛けた。

「しかし、お前さんも思い切ったことをやったな。まさかあそこまで思い切るとは思ってもいなかったぜ」

 圭のグラスを用意しながら、飯田が言った。どことなく彼の声は感嘆の響きを帯びている。

「お前さんの執着の仕方から見て、彼を【暁皇】から下ろすとは思えなかった。彼を、こう・・・抱え込んでそのまま何の策も出せずにうろうろしていて自滅するんじゃないかと、実は心配していたんだがね」

「もし僕がそうなっていたら、君は悠季を消す事も思案に入れていたのではありませんか?

君は桐ノ院コンツェルンの内部調整者です。コンツェルンに益がない、いや害がある人物となればいつの間にか消えているあるいは事故を装って・・・抹殺する事も厭わないはずですね」

「おやおや、俺がそんな非情な人間に見えるかい?」

「非情ではなくても、君はそれが一番いい方法だと思えば、ためらいなく出来る人間でしょう」

「おや、褒められちゃったぜ」

 飯田が笑いながらグラスを掲げて見せた。言われた事は否定しない。

 つまり、そういうことなのだ。

「桐ノ院圭の最高の判断に乾杯!」

 しかし圭は戯れ言を無視して、自分の前に置かれていたグラスにはいっていた生のままのウィスキーを飲み干した。

「確かに、福山悠季という人物はこの【暁皇】にとって台風の目になりそうな人物だったよ」

 飯田には珍しいほどのまじめな声で言い出した。

「桐ノ院コンツェルン総帥桐ノ院圭が執着している恋愛相手とトラブッているとなれば、これはもうこの船に乗っている分家の連中にはたまらなく陰謀を起こしたくなる誘惑に駆られる話だろう。

それだけじゃない、緑簾で接触するあちこちの企業やら政府の出先機関やらもさぞかし・・・だろうね。

お前さんが一歩対策を間違えれば、桐ノ院コンツェルンはあっという間に失墜だ。鵜の目鷹の目で我こそは総帥の座に成り代わろうという分家連中には、お前さんが桐ノ院コンツェルンをちゃんと運営していって、外からの力を押し返しているなんてことは分かろうともしていないんだからな。

外部へと目をやれば、ただでさえ若造だということで風当たりは強い。なめられたり軽んじている連中を少しずつ見直させている最中なのに、弱みを見せるような事になればあっという間に一族の繁栄が脅かされることになってしまう。

手近なライバルと言ったら、あのセレンバーグ一族・・・かね。あの大所帯の一族は桐ノ院一族を目の敵にしているからなぁ。長老のデビッド・セレンバーグは、未だに矍鑠として一族を束ねているし、財界政界に一族の者たちを配置して支配を広げようとライバルたちの動向を鵜の目鷹の目で見張っているからな。

就任したばかりのお前さんの足元は、あんな妖怪から見たらまだまだ不安定に見えているだろうし、ちょっとの油断という蟻の穴のような小さな隙間からからも、一気に全部崩壊させようと画策させてしまう危険性があるからなぁ・・・。

危ない、危ない・・・。よくまあ分家の誰かが彼を拉致して人質にとって、お前さんと交渉しようなどということにならなかったもんだよ」

 飯田はほっとしたように言った。それが心配だったんだ、と。

「いいえ、ありましたよ」

「ほう?」

 圭は悠季の部屋に仕込まれていた罠について説明した。

「すでにそのようなことをした者については見当がついていますし、証拠固めを命じているところですから、断固とした処罰を考えています。この際ですから他にも見逃して泳がせておいたトラブルの種は全て排除して、一気にこの船から膿を取り除こうと思っています」

「おお、怖いねぇ」

 この男が一旦決心したことなら、おそらく徹底的に行うことだろう。そう飯田は思うと相手のことが気の毒にさえ思えてくる。

「昨夜までは、悠季をこのままこの船に何とか引き止める方法はないかと、そればかり考えていました。一族の中にも、桐ノ院コンツェルンの中にも不安材料は幾らでもあるというのに。

だから、もし彼を今ここに引き止める事が出来ないのならば、全てを諦めなければならないと思いつめていたんです。

 悠季を害する者から守れないとなれば、僕はこの手を離して桐ノ院家とも【暁皇】とも縁を切って無関係であると証明する事が、悠季を守る最大の方法だろうと思っていました。けれど、僕は彼を思いきることが出来なくて、立ち往生していたのです。

しかし、悠季に言われた言葉で僕は目が覚めました。

僕が焦って近視眼的なものの見方しかしていないことに気がついたのです。まず自分の足元を固めて、万全の態勢を作り上げてから改めて悠季にこの船に戻ってもらえるように努力すればいいのではないか、今すぐとどうしても思い込むことはないのではないか・・・と。

 ですから、彼にはしばらくの間安全な場所に行っていてもらうことにしたのです」

「それで彼を大至急に【暁皇】から降ろしてマエストロのところに置いてきたわけかい・・・。そこなら彼は安心できると。それで、巨匠はこんな夜になって急に連れて行った理由を理解していているのかい?」

「ええ、パパエミリオは僕の立場をよくご存知です。ですから今夜は他の人を入れないで話が出来るように計らって下さいました。それに悠季が連れて行ったエマの価値もわかっていらっしゃるし、菫青で貰った『宝石の果実』についてもお話してあります。この先の事も十分配慮してくださるでしょう」

「それで殿下は、不安じゃないのかい?この船から降りた彼が他の者と恋愛関係になったりしないかと」

 飯田はにやにやしながらからかってみせた。圭はそれには答えなかったが、飯田の言葉に動揺するそぶりも見せなかった。

「なるほどね。そういうわけか・・・ふーん!」

「・・・何がなるほど、なんですかね」

「だから、お前さんが不安にならないような何かを彼がしていった・・・ということなんだろう?」

「飯田君のご期待に沿うような答えは言いませんよ。ご想像にお任せします」

 圭のそっけない言葉。しかし飯田はげらげらと笑い出したかと思うと、ばしんと圭の背中を叩いた。

「まあお前さんが正気を取り戻したとなれば、さぞかし船の中も外もあたふたとした騒動が起こるだろうから、俺はそれをじっくり拝見して楽しむことにするぜ。

お前さんも悠季君をなるべく早く迎えにいけるようにせいぜい陰謀にいそしむことだな。汚い掃除の場面は見せないようにしておいて、綺麗さっぱりとなったスウィートホームに大切な恋人を迎え入れるんだろう?」

「ええ、何の問題もないように完璧を目指しますよ」

 圭の目元が不穏に細められた。

「・・・ところで、悠季君を改めて【暁皇】に迎え入れる頃には、誰もが彼の価値を見直すことになるだろうね」

 飯田はそんな圭の様子を頼もしそうに見ながら話題を変えてきた。

「彼が今回マエストロ・ロスマッティの弟子となれば、音楽的付加価値の他に様々な価値があがることだろう。彼をここに呼ぶのにふさわしい立場を得ることになる。

それに・・・・・、今はまだ誰も気がついていないようだが、藍昌のサラマンドラ、菫青の未来の女王とのコネクション。あの二つの惑星にコネを持ちたい奴は幾らでもいるのだから、この先さぞかし注目のまとになるだろうなぁ」

「悠季はそんな俗な事には興味を持たない人ですよ。

僕が心配したのはむしろ彼が自分の価値に気がついていない点です。彼には金色の雌サラマンドラも菫青のエレミア皇女もただの友達に過ぎない。それどころか自分は【暁皇】にいるのにふさわしくない人間だと思い込んでいるところが不安でした。

 飯田くん、知っていましたか?彼はESP能力者なのですよ。それもかなり植物や動物と親和力が高い。こんな能力を持っている者を、その関係の研究所などは放ってはおかないでしょうね。

ところが、彼にとってはこんな能力は無くても構わないもので、持っていたくない能力だった。

 肝心の音楽の方でも、恒河沙が音楽家を優遇していないせいで、自分のことを余計者だとさえ思っている。

コンプレックスだらけだ。

そんな彼は、甘言をもって近づいてくる悪党にはどれほど自分が無防備か分かっていないのです。

ただ救いなのは、悠季が頑固でその上賞賛の言葉を言いながら近づいてくる人間を、信用しようとは思わないことですね。甘言を弄する者を、彼は下心のあるおだてと見るか、せいぜいがお世辞と言っていると受け取って聞き流してしまう。

事実を言っているとは考えもしない。

・・・だから僕の方も苦労しているのですが」

 飯田は低く口笛を吹いた。

「なんとも自分を知らないっていうのは・・・」

「ええ、ロスマッティ師にお預けしたのは、その点もあるのです。

汎同盟の中でも文化の最先端である緑簾での音楽修行は、彼の音楽をもっと洗練させるだけでなく、彼が自分の実力を、思い込みではなく客観的に把握するには最も適した環境でしょう。

ロスマッティ師は緑簾に本拠を構えているバイオリニストの中でも最高峰だ。きっと悠季の心身ともに良い影響を及ぼしてくれるはずです。

そうですね、長くてあと一年・・・が僕にとっても限度でしょう。それまでに悠季をこの船に迎えてもう一度彼との仲を仕切り直しです。再会してまた彼のバイオリンを聴くのを楽しみにすることにして、せいぜい船の掃除にはげむことにしますよ」
















―― 翌朝、緑簾の悠季 ――







ピピピ・・・ピチュピチュ・・・・・・。

 にぎやかな小鳥たちの声が部屋の中に忍び込んでくる。

悠季はびっくりして起きあがった。昨日までの【暁皇】では考えられない音だったから。

「え?・・・ああ、僕はマエストロ・エミリオ・ロスマッティの弟子になったんだっけ・・・」

 未だに信じられない気分が胸のうちのほとんどを占めている。もしかするとこれは夢かもしれないと思えて、おもわず自分の頬をつねって確認してしまった。

「・・・やっぱり夢じゃなかったんだなあ・・・!」

悠季はベッドから出ると、エマも起き上がって、ぴるる・・・と挨拶してきた。

「おはよう、エマ。これからは君と二人っきりでここにご厄介になるわけだね。よろしく頼むよ」

 彼女は、大丈夫というように頭を手にこすりつけてきた。

「さて、と。起きなくちゃね」

 悠季は窓を開けて、思いっきり深呼吸した。

窓の外は昨夜見たときに予想していた以上の美しさで、ロスマッティ邸の庭が大きく広がり、イングリッシュガーデンが続いている。きちんと整地してある庭と違い、少し雑然とした感じを与えるイングリッシュガーデンは見ていてほっと緊張が緩む感覚が気持ちいい。

「今朝はエミリオ先生以外の人たちとご対面というわけだな」

 悠季はシャワーを浴びると、用意しておいてもらったエマの食事を与えて留守番を命じてから、階下の食堂へと降りていった。

「おお、悠季。起きはったな。お早うさん」

「おはようございます。エミリオ先生」

 食堂にはエミリオ先生が座っていた。

「この人は麻美はんゆうてうちの奥さんやわ。マサオの愛弟子やったから、悠季とも縁があるゆうところやね」

 麻美さん、と呼ばれた彼女はうっすらと涙を浮かべていた。

「悠季さん、やったわね。エミリオから福山先生のことは伺いましたわ。えらい悲しいことやけど、どうかここでは気を使わんと我が家と思うていつまでも過ごしとくれやす」

「あ、ありがとうございます」

 いろいろと話題も尽きないところに、那由他から来ているという三人の短期留学生たちの内の二人が入ってきた。どうやら昨夜の政府主催の催し物の招待というのは夜遅くまであったらしく、二人とも腫れぼったい目をしていた。

「おや?もう一人はどないしはった?」

「ああ、彼はどうやら二日酔いのようです。呼んだのですが起きないのですよ」

「さよか。じゃあ二人に先紹介しておくよってな。この子は福山悠季ゆうて、バイオリニストの福山正夫に縁がある者や。今度うちで弟子として預かることにならはった。

 悠季こちらは那由他からのマスタークラスの留学生の二人で、ミスカ・キラルシュ君と東田由布子嬢や。」

「よろしくお願いします」

 悠季が頭を下げると、ミスカ君と言われた悠季より若く見える男性は、友好的に挨拶してくれたが、東田由布子嬢は感心がないと言う様子でぞんざいな挨拶を返してきた。

「・・・遅くなりまして・・・」

 食堂にうっそり入ってきたものがいる。

「おお、来はったね。紹介するよってこっちへ」

 エミリオ先生は、入ってきた人物を悠季に紹介した。

「こちらは同じくマスタークラスの芳野和弘氏や。こちらは福山正夫の縁者の福山悠季くんや。今度うちに弟子として預かることになった」

「ほう?福山正夫先生の?」

 芳野というその人物は悠季をじろじろと眺め回し、まるで品定めをしているかのように見えた。



 悠季は『前途多難』という言葉が頭に浮かぶのを感じていた。
















「ところで、最近【ハウス】について、『鎖委員会』に問い合わせてきた者がおるそうだな」

 とある場所の、暗くブラインドを下ろした部屋の中で、老人のしわがれた声が響く。

「はい、【暁皇】の中でカウンセラーを務めているという、飯田という人物です。ですが、これはあの桐ノ院の若造がやらせている、と考えてよろしいかと」

 やや若い声が答えた。しかし、その声も若者とは言えない程度に枯れた野太い声だった。

「大丈夫なのだろうな?【ハウス】について万全の措置を取っていると考えても構わぬな?」

「はい、それはもう もちろんです。

あの事件について知っているもので、僕が関わっていたと知っているのは既に支配人だったレンベルクだけです。

彼は今私の手元に置いておりますから、いつでも見張っていることが出来ます。それに僕があそこに出入りをしていた時に関係があった子供も、既に誰も生きてはおりません。

ああ・・・一人だけ、僕を見た者で『邪眼』がおりまして、遠くへと追っぱらった者がおりますが、そいつが戻ってくる事は絶対にありえませんので」

「・・・そいつは捜しても殺すべきだったと思うがな」

「し、しかし『邪眼』ですよ?!」

「そんな迷信を信じて、自分の首を絞めるような真似はせんことだ。もしその子供が生き残っていたならば、どうするつもりだ?あの事件ではお前はすでに儂に多大な迷惑を掛けているのだからな、これ以上 事を長引かせるつもりなら」

 むくりと老人の姿が大きくなったような錯覚を覚え、影の中で、男が息を呑んだ。

「も、もちろん僕が始末をつけます」

「当然だな。儂の勘気をこうむらない様に気をつけることだ。今のお前の地位に就きたいと思っているものは大勢いるのだからな」

 老人は淡々とした口調で言った。これは彼にとって当然至極の事実だったから。

「わ、分かっております!必ずご期待に沿えるように致します。あの時の子供は、僕が必ず探し出して抹殺してみせます!」