【 第11章 下 】
圭は悠季の話を聞いて、うなずいてみせた。
「そうですか・・・。難しい問題ですね。確かに簡単には決められないでしょうね。
僕は君がどれだけこの問題で苦しんでいたか一番よく知っていますからね。しかしだからといって、なぜそれで僕が避けられる事になってしまったのですか?」
「いや、圭、それはね・・・」
「もしや、この状況を知って僕がこれ幸いと君の事を押し倒すとでも考えられたのでしょうか?」
「い、いや、そんなことは考えてないよ」
しかし、悠季の目は圭の顔からそらされて揺れていた。
「心外ですね。僕はそれほど信用されていなかったのでしょうか。君と僕の間柄はかなり改善されてきていると思って喜んでいたのですが」
「・・・ごめん・・・」
「では、謝罪をうけいれましょう。ただし、そうですね。かわりに僕の提案を聞いていただけませんか?」
にっこりと笑ってこう言った。
「提案?」
「はい、もし君がエマをこのまま連れて行くと決められましたら、繁殖期の時の君のお相手には、僕が立候補してもいいと言って頂ければ大変嬉しいのですが」
「って、僕を抱かせろってことかい?」
悠季の眉がむっとひそめられた。
「いえ、僕を抱いて下さるのでも構いませんよ」
「ぼ、僕が君を・・・!」
悠季は目を丸くして圭を見た。からかっているのかと思ってみたが、圭の口元には微笑が浮かんではいるが、ふざけているわけではないらしい。
「考えた事もないよ・・・!でも、君、それでいいのかい?」
「はい、君と肌を合わせる心地よさは、例えようがありません。どちらがどんな役割を果たそうがそれは些細な問題でしかありませんよ。僕は君を愛しているのですから。」
「・・・君にそんなふうに言われると、この問題がまるでたいしたことではないような気がしてくるよ」
悠季は頭を抱えてしまった。
「では、僕は立候補してもいいでしょうか?あんな年上のキングより僕の方が絶対に君を満足させられますから!」
真面目くさった顔でとんでもない提案をしてきた圭を、悠季はまじまじと見つめていたが、やがてぷっと吹き出して笑い始めてしまった。
「話が間違った方向に行ってるよ。まあ、君の方が僕も慣れてはいるだろうけどね。・・・あの事件のせいで」
言ってしまって悠季はうろたえたが、圭の方は大丈夫というように、にっこりと笑って提案を続ける。
「では、予約という事でよろしいでしょうか?」
「・・・ええと、いや、ちゃんとこれから考えてみるよ。君の事だけじゃなくて、僕のこれからとエマとの関係をね。その後だ」
「それではとりあえず、今夜は昨晩と同じように一つのベッドで眠る、ということでよろしいですか?それとも、やはり違う部屋を取りましょうか?さすがにもう君を拉致しようなどというような事は起こらないでしょうから」
違う部屋になったら実に残念だというしぐさを、圭は雄弁にしてみせる。悠季はため息をついてうなずいた。
「・・・昨日と一緒で構わない」
二人とも昨夜と同じようにしてベッドに横になり、目をつぶった。しかし、平穏な眠りはもう訪れなかった。二人のこれからの関係にも大きくかかわってくるこの問題は、あまりにも重く感じられた。
あの強姦事件のあと、ぎくしゃくしていた関係が緩やかに改善されていき、友人同士となって気のおけない間柄になってきたように見えていたが、二人の心の中ではいつも水面下の駆け引きが起こっていたから。
この先、親友から恋人になりたい圭。
この先、親友のままでいたい悠季。
そこに肉体関係という微妙な要素が二人の間に入り込んだ時、この一見平穏な関係はどうなってしまうのか・・・。どちらにも分からない事だったから。
次の朝は二人とも無口だった。朝の挨拶はしたが、それ以外はいつもだったら出てくるような気軽な話題も出てこない。なんとも気まずい雰囲気の中で食事を済ませると、圭がこの後の予定を尋ねてきた。
「僕は・・・そうだね。バイオリンの稽古でもしているよ」
「そうですか、それでは僕は一度【暁皇】に戻っても構わないでしょうか?
どうやら今夜まではここでの身の安全は保障されているようですし、船の方での用件を急いで済ませてきますので。夕方までには必ず戻ってきますが、何かあったらナビで連絡していただければすぐに戻ってきます。もし心配でしたら、船から誰かをここに呼んで来てご一緒させておきますが。」
「ううん、心配しないで、一人で大丈夫だから。ごめんね、迷惑をかけちゃってるね」
「これは僕が自分の意思でやっていることですから。気になさらないで下さい」
船での仕事がだいぶ溜まっているのだろう。悠季は申し訳なく思いながら、圭が出発していくのを見送った。
圭が出かけてしまい、悠季一人になるとこのコテージが急に広くがらんとしたものに思えてくる。
こんなふうに密接に誰かと過ごしていたのは、初めての事のように思える。いや、つい最近まで福山との暮らしでもやってきていたはずだった。けれど、圭と過ごした数日間はそれとはまったく違うものに思えた。
数日を共に過ごし、彼の人となりを知っていくにつれ、彼がポーカーフェイスの内に甘えん坊で淋しがり屋な一面を持っていることに気がついた。そして、不器用な愛情の示し方しかできない奴だということにも。必死という感じで悠季の愛情を求め、悠季に執着してくる。
『なぜそれほどまでに僕を欲しがってくれるのかは分からないけれど、そんな彼に対して僕が感じているのは、せつないような愛しさで・・・』
悠季はあわてて周囲を見渡した。部屋の中にはエマも出かけているらしく誰もいない。
「な、何を考えているんだ、僕は?!」
バイオリンを持ったままで、ただぼんやりと考え込んでいたのに気がついて赤くなってうろたえた。
「僕はあいつのことなんか友人として以外には何とも思っちゃいなかったはずだ。僕を強姦したやつだし、もし彼の求愛を受け入れるとしたら、もちろん肉体を含めた付き合いになるのだし、それは嫌だったはずだぞ」
しかし、自分が以前ほどにはセックスに対して否定的にはなっておらず、嫌悪感を薄れさせているのは分かっていた。なによりあの暗示が発動する事を恐れなくても良くなった事が、実は一番ほっとしていたのだが。
昼過ぎになって、近くの島にいるというキングから急に連絡が入ってきた。
《君に見せたいものがあるんだが、少し時間をくれるかな?》
「はい、僕は構いませんが」
キングは飛行艇で悠季を迎えに来ると、そのまま群島内でも少し離れた島へと連れて行った。
「実はあそこの島にいる野生の女王サラマンドラがどうやら発情期に入ったらしく、先ほど島に居る者から連絡が入ったんだ。
島には三人ほど感合した者がいるのだが、その内の二人が影響を受けているらしい。もし君が女王を得るとどうなるかの参考になるかもしれないので、見せたいと思ったんだがね」
飛行艇は島の空き地に止まり、島の長老だという人物の家へと入った。
「すまないが、エマとビューティーはここで留守番だ。交合飛翔に参加出来る女王は一匹だけだ。他の女王がいると、雄たちの気が散るし、女王も怒って女王同士の喧嘩になることもあるのでね」
悠季はうなずくと、エマをビューティーのそばに残した。エマも最初は悠季に付いて行きたそうなそぶりを見せたが、本能が行ってはいけないことを知っているのか、そのままそこに留まっていた。
キングは悠季を案内して島のはずれへと案内した。岩場の崖には何人もの人が集まっていた。
「ほら、あの一人離れて立っているのが、褐色の雄と感合している人だよ。もう一人は向こうにしゃがんでいるね。彼は青銅色の雄を持っている。・・・そろそろ始まるようだな」
野生の女王だというサラマンドラは、今までいた岩の上から紐で動けないようにされている小動物へと飛び降りてきて、威嚇の声を上げながらその獲物にとびかかって引き裂き、まだ生暖かいその肉に喰らいついていった。
貪欲にむさぼり、血を啜る。喉からのうなり声が高まるに連れて、女王の様子を伺って周囲に群れをなしていた雄たちの間にもざわりと緊張が高まっていく。
我が物顔で獲物を貪り食い、荒々しい咀嚼音だけがその場に響く。
しばらくすると、ふいに女王は翼を広げると、高らかに一声鳴いて、高く空へと舞い上がった。その速度はとても速く、大急ぎで後を追って飛び立った雄たちとは比べ物にならない。
女王は後を追いかけてくる雄たちを翻弄し、縦横無尽に飛び回る。
高く低く飛んだかと思うと急に方向転換して、あわてた雄たちが混乱している間に悠々とまた引き離していく。そんなことでは私を得る事は出来ないと、嘲るように鳴いてみせる。そうしてまたひらりと身を翻して高く飛び上がる。
女王が雄たちを弄んで気ままに振り回す行動を繰り返しているうちに、一匹また一匹と疲れ果てた雄が脱落していく・・・。
何度目かの方向転換のとき、女王はまた雄たちのすぐそばを飛び去ろうとした。しかし、そのときを待っていたらしい一匹の雄がすばやく女王のからだを捕まえた。女王は雄を引き離そうとしたが出来ず、二匹はそのまま絡み合ったままで飛行を続けていく。
雄が勝利の雄叫びを上げた。
やがてその二匹だけが空高く飛んでいて、他の雄たちは散り散りになって元いた場所へと帰っていった・・・。
悠季は自分の心臓が激しい動悸を打っているのに気がついた。この興奮は性欲に似ている・・・。あたりを見回すと、雄のサラマンドラと感合しているという男性は、近くに立っていた女性の腕を掴んでコテージの中へと駆け込んでいった。
そこに立っていた人たちもそれぞれ相手を連れて急いで引き上げていく。中には悠季の方へと視線を向けて近づいてくるものもいて、嬉しそうに腕をつかもうとしてきた。
「やめろ!彼はだめだ」
キングは急いで悠季を連れてその場を立ち去った。
途中彼が悠季の顔を覗き込むと、あわてた様子になって足を速めて長老の家へと連れ帰ってくれた。悠季はぼんやりとされるがままになって彼に付いて行った。
長老の家では変わった味の飲み物が用意されていて、手渡されたその熱い飲み物をゆっくりと啜っているうちに、徐々にからだの中から興奮が消えて静まっていくのが自分でも分かった。
ああ、これが交合の感覚に引きずられると言う事なのか。と悠季は思った。
しかし覚悟していたような嫌悪感は起きてこなかった。むしろサラマンドラたちの誇り高い自由な奔放さを、からだがそして心も納得して受け入れている。
「悠季君、先ほどは大変失礼した。島民に代わって謝罪する。あそこにいると誰もが影響を受けやすくなってしまう傾向があるんだ。それを先に言っておかなければならないのを、失念した」
キングはまじめに謝ると、頭を下げた。
「・・・いいえ、大丈夫です。気にしていませんから」
悠季は謝罪を受け入れると、また飛行艇に乗り込み元の島へと送ってもらった。
「悠季、いったいどこへ行っていたんですか?心配しましたよ!」
すでにコテージに戻ってきていた圭が、心配顔で二人を出迎えてくれた。
「・・・うん。大丈夫だよ」
悠季はどこか上の空で圭に返事をした。
「心配をかけたようですまなかったね。彼は無事にお返しする。心配はいらないよ、ちょっとサラマンドラの影響が残っているだけだ。少し休めば元通りになるはずだ」
キングは悠季をどこへ連れて行ったか、また連れて行った理由を圭に詳しく伝えた。ようやくほっと肩の力を抜いた彼だったが、まだどこかぼおっとしている悠季をキングの手から取り戻すと、かいがいしく世話を焼き始めた。
「それでは、失礼するよ。ではまた明日」
キングが帰っていったが、悠季はまだどこかぼんやりと挨拶を返していた。
圭は失礼にならない程度の礼儀で見送ると、急いで悠季の元へと戻った。
「悠季、本当に大丈夫ですか?」
「うん・・・、ちょっと酔っ払っているような気分なんだ。フワフワとして気分がいいんだよ・・・」
とろりと潤んだような目が圭の方を向くと、圭はどきりとして目をそむけた。
「少し休んだ方がいいかもしれませんね」
「いや、大丈夫だよ。今すごくバイオリンが弾きたい気分なんだ」
悠季は手や顔を洗いに行き、近くで心配そうな顔をしている圭にはお構いなく、バイオリンケースを開けると指慣らしを始めた。
弾きだされた彼のバイオリンの音色は、今までとまったく違っていて自由奔放で艶かしく、何かが悠季の中で吹っ切れたかのように思えた。
圭はそんなバイオリンの音色を耳にすると、それ以上悠季の演奏を止めようとはせず、黙って悠季のやりたいようにさせてくれた。
「・・・悠季、悠季、もう夕方ですよ。そろそろやめた方がいい。顔に疲れが浮いています」
「ああ、そうか、もうそんな時間・・・」
悠季は我に返ってほっとため息をつくと、バイオリンを肩から下ろしてケースにしまった。そして、そのままシャワーを浴びに行くと、すっきりした顔で圭が待つ夕食の席へと着いた。
「心配かけちゃったね。もう大丈夫だから」
「ええ、そのようですね。もうすっかりいつもの君の顔だ。ほっとしましたよ」
「僕、そんなに変な顔をしていたのかな?」
「ええ、その・・・なんというか・・・、実は君がひどく艶かしくて、触れなば落ちんという風情に思えましたので、ああその、キングに何かされたのではないかと、内心かなり心配だったのですが・・・」
一瞬にして、悠季の顔が赤く染まっていった。
「それって、僕が物欲しそうな顔をしてたってことかい?」
圭は口を濁してそれ以上詳しくは言わなかったが、そんな顔をされてひどく誘惑されている気分がした、ということらしい。悠季も気まずくなって目をそらした。
「君は感受性が強いからだと僕は思います。あまり気にされないでいいです」
悠季は黙ってうなずいた。
あの飛翔のときは、明らかに性的な興奮や欲情も覚えてはいたが、それにもまして野生の女王の飛翔の自由気ままさ、生への歓喜が自分の心とからだに共鳴していた。
それはまだ味見程度の淡いものでしかなかったが、もしエマが成獣となってあの自由への歓喜を共感できたとしたら、どれほどの喜びだろうか。
確かに、いくつもの欠点はあるとしても、なぜ人がサラマンドラとの感合を受け入れようとするのか、理由の一端が分かった気がした。
その晩、昼間の件で疲れ果てた悠季は、圭の事を意識せずにさっさと眠り込んでしまったが、圭の方はほとんど眠る事が出来なかった。
先ほどあのような艶かしい顔を見せられて、今は同じベッドで眠っているというのに、触れる事も出来ない。健やかな寝息が聞こえ、あたたかなからだが無意識に寄り添ってくる。圭の限界を試しているかのようにさえ思えた。
・・・どうして、これで平気で眠れるというのか?
キングが返事を聞きにくるという朝、また圭は悠季のそばへ近づけまいとするエマとやりあう事になってしまった。
どうやらエマは昨夜の圭の葛藤に気がついているらしい。何かあれば、すぐにでも悠季に手を出してしまいそうな衝動が高まっている事を察知したのか、悠季がいない時には、前にもまして威嚇しようとする。
「確かに今の僕は揺れていますがね。君が心配するような事態は二度と決して起きませんよ。僕は自分に誓ったのですから、二度と悠季を傷つけるようなことはしない。
それに君も僕にいつまでも威嚇するのはやめてもらおう。これから悠季と一緒に生活して行こうと思うのならば!僕は彼のそばから離れないのだから、君は僕がいつも近くにいることを認める必要がある!」
『そうなるとは限らない』
とでも言っているように、エマは一声鳴いて胡散臭そうな顔つきで頭を振ってみせた。
部屋に戻ってきた悠季は、圭とエマが互いに牽制しあっている姿に気がついた。前にもやっていたが、またやっていたんだろうか?と。圭とエマはそんな諍いをしていたことを、悠季に知られていないと思っているらしい。
悠季の寵愛を争っているかのような二人の態度は、端から見ている分にはとてもほほえましい。まるで子供たちが母親の愛情を競っているように子供っぽくかわいらしく思える。
互いがそんな態度を取っているということは、実は逆を返せば仲良くなれるかもしれないということ。
悠季の心の中で、安堵感が広がっていく。
この先自分と圭との仲がどうなっていくかはまだ分からないけれど、少なくともサラマンドラと付き合っていけるかもしれない、気の合いそうな人間が一人はいるということは、気分的にとても楽になれることだったから。
だから、キングが悠季の返事を聞きに来たとき、ためらい無くこう答える事が出来た。
「ええ、サラマンドラのエマは僕が大切にしていきます。ずっと一緒に連れて行きます」
はっきりと、彼の眼を見ながら。
その答えの意味を理解しているのかどうか分からないが、エマが悠季の手に頭を擦り付けてきて甘えてみせた。キングもほっとしたようで、満足げな顔で何度もうなずいてみせた。
「よろしく、これからは俺と仲間だな」
この先のことについては、自然保護局の方からくわしく説明があるだろうからと言って彼が帰っていくと、今度は圭が嬉しそうな顔で尋ねてきた。
「それでは、僕が君の相手をしてもいいという・・・立候補しても構わないということですね?」
「・・・うん、まあ、それはエマが成獣になった時に改めて、だね。時間が経つうちには状況が変わることは十分にありえるし、君の気が変わることもあるかもしれなかいらね」
「それはあり得ませんよ。僕の気は変わりません」
圭はきっぱりと断言する。
「そんなふうに言ってもいいのかい。君には難しい問題が待ち構えているんだよ?」
「問題・・・ですか?」
「そう、サラマンドラのエマと仲良くならなければいけないということが、前提条件というわけだからさ」
圭が目を丸くしてその言葉を聞き、それからがっくりと肩を落とした。
・・・どうやら圭にとっては、こちらの方がはるかに大問題になるらしかった。