間もなく予定のバイト期間が終わるという頃には、なんとかライブラリーに何が置いてあるのかだいたい目を通すことが出来、ざっとした目録も完成間近になった。

調べていくと、これまでに何回か整理しようとしていたらしくて大雑把な整理がしてあることが分かったので、僕程度の知識でも仕分けが出来たんだ。

どうやら間に合ってほっとした。

もっともだいたいの場所が整理出来たというだけで、本格的にやろうと思ったらまだまだ細かくやらないとまずいだろう。

でも、それは僕の後任者に任せるしかない。

もう少しここで整理や他の事務のバイトをやらないかという、ありがたい申し出があったけど、秋には臨採教師の仕事が待っているんだから、残念ながらお断りした。





 そんなある日、とても印象に残る電話があった。

「はい、こちらはハーモニーホール事務局です」

僕は電話番兼留守番を任されていて、他の事務員さんたちは昼食に出かけていた。僕だけたまたま弁当持参だったんだ。

そこへ一本の電話がかかってきたので、僕は気軽にとった。きっとコンサートの問い合わせかホールの予約受付だろうと思っていたんだ。

《もしもし、館長はおられますか?》

 うわ、すごくいい声。

 若々しくて響くバリトンの上、活舌がしっかりしているので聞き取りやすい。女性がこんな声を聞かされたらきっとメロメロになっちゃうんじゃないだろうか。

「申し訳ございません。館長はただいま出かけております。夕方には戻る予定ですので、こちらからご連絡を差し上げましょうか」

《あー。では、ライブラリーの事について分かる人は誰かおられませんか?》

「ライブラリー、ですか。失礼ですがどちらさまでしょうか?」

 富銀のライブラリーについて、今一番知っているのは僕かもしれない。でも、あれは誰にでも貸し出したり閲覧させているものじゃないはずで、一般の方ならお断りするしかない。

《ああ、部外者には閲覧禁止なのでしたね。僕は・・・・・桐院と言います》

うっ。勘がいい人みたいだ。僕の考えていることを悟られちゃったかな。

僕は急いで富銀の使用可能者リストを見てみた。すると、確かに桐院さんは何人か入っていた。

でも、どの桐院さんなんだろうか。

あ、どの人でも閲覧可能だ。当然か。桐院という姓はここのオーナーの名字でもあるのだから。でも、まさかオーナー本人ってわけないよな。こんなに若そうな声の人が銀行を取り仕切っているなんて、ありそうもない。

このホールは銀行ではなくて桐院頭取の持ち物だから、一族の中の一人なんだろう。

「失礼いたしました。どのようなご用件でしょうか?ライブラリーのことでしたら、僕でもお答え出来ると思います」
《君が・・・・・?それは失礼しました。実は僕が捜しているのは・・・・・》

 桐院さんが捜しているという楽譜は、桐院コレクションとでも言うべき桐院堯宗さんのコレクションの中の楽譜だった。おそらくこれは日本にはあまりないような貴重な楽譜なんじゃないかと思う。

それを見つけた時、僕は物珍しさに思わず我を忘れて楽譜をたどっていたから。

「それでしたらご用意出来ます。こちらへ取りに来られますか?」

電話の中の相手は僕の言葉を聞いて、しばらく黙っていた。

《・・・・・本当にその楽譜があるのですか?》

「え?ええ。あります・・・・・けど」

そんなに驚くなんてどういう意味なんだろう?

《分かりました。では明日取りに伺います。どうもお世話をかけました》

「いえ、どう致しまして。お役に立てたようで何よりです」







僕はライブラリーの中から目当ての楽譜を探し出し、封筒に入れてきちんと誰でも分かるように付箋をつけた。

翌日になると、館内は何となくざわめいていた。

いったいどうしたことかと思って事務員さんに尋ねると、きらきらと輝いた目をしながら、彼女は答えを教えてくれた。

「桐院圭様がいらっしゃるんですよ!!」

はずんだ声で言われても、知らないものは知らない。

「あのね、ここにバイトしてるんだから、頭取の名前くらい覚えておきなさいよ」

 ちょっと睨みながら事務員さんが言った。

「・・・・・あっ、すみません」

そうだった。

桐院というのだから、確かに。

うっかりしてたよ、ここは同族で経営していた銀行で、筆頭は本家の長男の「圭」という名前の人だったんだ。

やがて館長があわただしく玄関ホールへと向かい、その後ろを何人もの人が追っていった。

どんな人なのか僕も見たかったけど、ちょうどそこに電話がかかってきたもので、野次馬として拝見することは出来なかった。



電話はどうやら来月のホール予約を申し込んできた方だった。

仮に押さえておきたいらしく、キャンセル料を一日ごとにくどく聞いてくる。

バイトの僕ではそんなに詳しいことまで説明出来ないから、ここの事務所の人に電話を代わってもらおうとしたとき、事務所がざわついているのに気がついた。

僕の後ろを通る人たちがいる?

振り返ってみると、館長が丁重な態度で応接室へと案内しているところだった。

重要らしい来客はすごく背が高い。

館長が腰をかがめているせいだけじゃない。扉の上かまちが近いくらいだから、背が高いからおそらく2メートル近いだろう。

一人だけ目立っているのは背が高いだけの問題じゃないみたいだ。

全身にまとっている覇気。自分自身に力があることを確信している自信が彼を他から浮き上がらせて見せている。

自分のいる場所を心得ていて、自分が何をするべきかも分かって生きているんだろう。僕が持ちたくても持てないものだ。

でも少し、いや、かなり尊大そうに見えたけどね。

突然、僕は憎悪にも似た感情が湧きあがってきた。名前すら知らない他人に対して。

いったいなんてことを考えているんだ、僕は!

そのときだった。

ふっと彼がこっちを向いた。まるで僕が考えていたことに気がついたとでもいうように。

そんなはずはあるわけないのに。

目があった。

でも、僕はすぐに目を伏せた。心の中のやましい思いに気づかれないように。

もっとも、相手は僕なんか通りすがりの置き物にしか思っていないだろう。

すぐに視線は他へと流れていき、彼は応接室へと消えていった。そのあとを秘書らしい初老の男性が通り、更に館長たちがぞろぞろと中へと入っていった。

事務員の女性たちが興奮した様子でささやきあっていた。

なるほどね。あれが桐院頭取か。

なるほどこれなら女の人たちが騒ぐはずだよ。

ああいう財産もあって銀行家としての才能もあって、顔までいいっていう、男としてうらやましい限りの人間も世の中にはいるんだなぁ。

それにひきかえ僕は、という言葉は浮かんできたとたんにひねりつぶした。

比較してもどうしようもないことなんだから。

【2】