ある日のこと、掲示板にとある予定が書き込まれていることに気がついた。

どうやら今朝方に書かれたものらしかった。

 内容は1週間後にこのホールで、桐院家主催の奨学生をオーディションによって選抜するという内容だった。

そう言えば、ここの富銀の頭取である桐院家は、先々代の桐院堯宗さんから音楽を庇護していて、当代の頭取である桐院圭さんはプロの音楽家になりたいという人たちに奨学金制度を作って、見返りを求めることなく音楽家を支援していると聞いたことがある。

 僕はその書き込みを睨みつけていた。

もしかしたら、僕にも参加する資格があったかもしれない、オーディションの知らせを。

でも、今はそれも夢。

望んでも望めないものになっている。プロになることを諦めた僕にとっては。

「お前さんも参加してみちゃどうだい?」

 僕は背後から突然声をかけられて、びっくりして振り返った。

「ああ、飯田さん。冗談がきついですよ。僕程度の腕しかない者が参加したら、失笑されるのがオチですって」

「おいおい、参加しないうちからずいぶんと悲観的なことを言うもんだな。守村くんのバイオリンはいい音を持っていると思うから勧めてるんだ。腕試しと思ってやってみたらいいのに」

 僕はその言葉に苦笑していた。

 寝た子を起こすようなことは言わないで欲しい。

「僕は秋から教師に戻ります。まだ正式な教師の採用試験に受からないのが残念ですけど、いずれはちゃんと試験に受かって、子供たちに音楽を教えるのが夢なんですよ」

 そう言いながら、ちくりと胸の奥に走る痛みは無視した。

 プロになりたくて、なりたくて、でも夢をあきらめなくてはならなくて、さんざんに泣いたことは胸奥にしまいこんだ。

「しかしなあ。お前さんは教師よりも演奏家の方が向いているような気がするんだけどな。それにコンクールに出たことがないんだろう。一度くらい挑戦してみてもいいんじゃないのか?」

「コンクールには出たことはありませんが、オーケストラの採用試験は受けたことがありますよ。まあ、今の僕を見れば結果は分かると思いますが」

本当は、試験を受ける前にストレスでダウンしてしまって受けられなかったんだけどね。

あの苦い体験で、僕の場合は才能や演奏以前の問題なんだってつくづく思い知った。

「ですから、バイオリンは仕事ではなくて趣味としていくつもりです」

「本当にそれでいいのか?」

 飯田さんは更に食い下がってきた。

「まあ、好きなものを食っていく仕事にしてしまうと、楽しいばかりではなくなるわけだから、ためらう気持ちはわかるよ。しかし、その苦しみもまた喜びに換えるだけの力を持っていると思うんだけどね」

「・・・・・買いかぶりです」

 僕は言ったが、その言葉には飯田さんの言葉を否定するだけの力はない。僕自身、未だにプロの音楽家になる夢を捨て切れていないことを知っているからだ。

「まあ、考え直したら、挑戦してみてくれ」

 そう言うと、飯田さんはさっさと帰っていった。飯田さんには僕のためらいや未練を良く分かっているんだろう。でも、それを口にするような野暮なところを持たない人だ。






「オーディションは明日の午後からなんですよね?でも、まだ練習にお一人しか来られていませんよ?」

気にするまいと思っていたオーディションだったけど、翌日となればやはり気になってしまう。どんな人が受けるんだろうかと。

 ところが、オーディションの前日はホールでの練習が認められているにもかかわらず、一人しか来ていないことを知った。

 えーと、名簿によると、芸大のバイオリン講師である阿部さんから推薦された芳野和弘というバイオリニストか。

「いいんだよ。他の人たちは辞退したそうだから」

 僕の疑問に対して、事務員さんはあっさりと答えた。

「でも、それじゃあ芳野さんしか選べないじゃないですか。オーディションの意味がないですよ!」

「いいのさ。今日の演奏は芳野さんの技量を見てもらうために開かれるようなものだそうだから。館長と阿部氏はぜひとも頭取に芳野さんの留学を認めてもらおうと必死なのさ」

「・・・・・それって、もしかして出来レースだという意味ですか?」

 事務員さんはにやりと笑うと、声をひそめて教えてくれた。

「大きい声じゃ言えないがね。今日のオーディションを受ける予定だった人たちには取りやめになったと伝えられているらしいぞ」

 その言葉に僕は呆然となった。

「それは・・・・・桐院頭取をだましているってことなんじゃないですか!?」

「人聞きの悪いことを言うなよ」

 事務員さんは鼻白んだ様子で顔をしかめてみせた。

「これも世間の常識ってものなんだから、知らん顔をしておけよ。
オーディションを開かなくたって芳野さんは充分プロとしてやっていける腕を持っているんだ。少しばかり楽をさせようというだけのことさ。
とにかく、そういう事だから、オーディションは予定よりも遅くなって、午後2時からになった。準備を頼むよ」

「・・・・・分かりました」

 僕はしぶしぶうなずいた。

 でも、事務員さんが呼ばれて席を立った後も、僕は動けずにいた。

こんなふうに、決められていくものなのだろうか?音楽は演奏家の才能や努力で成り立っていると信じていたのに。

それとも僕の考えは青臭い子供の理想でしかないのだろうか。




 そんなもやもやは、翌日の昼休みになっても続いていた。

 午前中に芳野というバイオリニストがやってきて、伴奏ピアニストと最後の打ち合わせをやったあとは、館長とどこかへ出かけていった。きっと昼食に出かけたんだろう。

 他の事務員さんたちも皆昼食に出払っていた。このホールに残っているのは僕ひとり。

 間もなく僕はここをやめることになっているから、もうこのホールに来ることはないかもしれない。誰かのリサイタルでもあれば聴きに来るかもしれないけど、少なくとも舞台に上がることはないだろう。


 ―――だったら、一度だけ、夢を見てみてもいいんじゃないだろうか?―――


 出来レースに対しての反感があったからかもしれない。僕は普段では考えついても決してやらないようなことを思いついていた。

 今ここには、僕の持っているバイオリンよりもずっとよい音を出す『アマーティ写し』がある。ずっと仕舞われっぱなしだったかわいそうなバイオリンに、ちょっとだけ僕の手で晴れの舞台を味わわせてあげてもいいかもしれない。

 オーディションが一人しか行われないというのなら、誰も知らなくてもいい、もう一人幻の候補者が立ってやろうじゃないか!

【3 】