翼が欲しいと思うときがある。


僕を経済の問題などという重しや自分ではどうしようも出来なかった過去のあれこれという鎖を断ち切って、自分の思うがままに飛んでいけたらどんなにいいだろうと思う事がある。





僕の名前は守村悠季。

 国立音大を卒業後、プロのバイオリニストになる夢をあきらめて、でも音楽教師として音楽に少しはかかわれる生活に身を置い ている23歳。

でも、現実は胸を張って音楽教師ということが出来ない。

音楽教師というのはいつも欲しいところよりもなりたい人間のほうがずっと多くて、僕が住んでいる周辺で探しても容易に雇ってもらう事が出来ないんだ。せいぜいが産休する先生の代理を務める臨採教師くらい。

なんとか正規の教師に雇ってもらえるように働きかけたいが、新潟出身の僕にはコネもツテもなく、くやしい思いをすることが多いように思う。

現在も無職の状態になっている。秋からはラッキーなことに臨採のお呼びがかかって、働くことができることが決まっているけど、それまでは失業手当で暮らさなくてはならない。

とは言っても僕の蓄えはたいしたことはないし、秋からの仕事の後にまた仕事が入るかどうかは分からない。

そんな僕に短期アルバイトの仕事を持ってきてくれた人がいた。

富士見市民交響楽団、通称フジミというアマチュアのオーケストラに所属している僕は、コンサートマスターとして(というか、雑用係に近いけど)コンサートの時にはいろいろなことをしなくてはならない。

アマチュアのオーケストラというのは、いつもきちんと定員の団員がいるとは限らない。だから、コンサート間近で転勤になってしまったチェロの穴を埋めるために、急遽助っ人を捜すという仕事も入ってきた。

ようやく見つけたのは世話人のニコちゃんの知り合いだという富士見銀行の人で、銀行内のオーケストラでもチェロを弾いているのだという。とても魅力的な音色を持った、素敵なチェリストだった。

フジミというオーケストラの和気あいあいとした雰囲気を気に入ってくれたという、チェリスト飯田さんは、オーケストラのかけもちが出来ないことをとても残念がってくれて、僕はとても誇らしい気持ちにさせてくれた。

 その飯田さんが、僕が無職になっているということを小耳にはさんだらしく、僕に声をかけてくれたんだ。

「ちょうどハーモニーホールの手が足りなくなっていてね。コンサートの手伝いやライブラリの整理なんかをしてくれる人間を捜しているんだ。たいした金額は出せないそうだけど、もしよかったらやってみないかい?開催されてるコンサートをのぞくことも出来るぜ」

ハーモニーホールというのは、富士見銀行の初代頭取が音楽に造詣が深くて、アマチュアのオーケストラを銀行内の有志で作ったそうで、そのコンサートを開くために作ったという、なんともすごい話なんだ。

内部は演劇からロックコンサートまで対応できるような良く出来た作りになっていて地域の人にも安く貸し出しているから、地域の貢献するという意味合いもあるらしい。

僕は飯田さんの申し出をありがたく受けて、秋までの間、ハーモニーホールで働くことになったんだ。
 





仕事は思っていた以上にこまごまとしたものが多かった。

当初やることになっていたコンサートの様々な仕事は、フジミのコンサートを開いたときにやっていることと似ている。切符のもぎりやパンフレットやチラシの配布。お客さんの誘導やコンサート後のサイン会の準備など。

そして、もう一つ僕に与えられた重要な仕事とは、ライブラリーの整理だった。

「もともと初代の頭取、桐院堯宗さんの所蔵していた楽譜や評論伝記、そして様々な音源が元になっているんだよ。そりゃ趣味が広かったようで、クラシックからジャズラテンなど多岐にわたっているんだねえ。

その後富銀オケでやった曲や集められたり贈られたりした曲やテープCDレコードなどが次々入ってきて、ちょっとしたクラシック関係の所蔵庫のようになっているんだね。

その上この間も大量の資料が持ち込まれてしまって、これ以上このままにはしておけなくなったんだ。

その上、これをきちんと整理しようとする人がいなかったらしく、系統だてて並んでいないんだよ。こっちもなかなかライブラリーの整理まで手が回らないっていうのに、秋までに整理して欲しいって上から言われちゃってね。まあ、よろしく頼むよ」

「・・・・・はあ」

僕にこの仕事を説明してくれた事務員さんはライブラリーの所蔵庫に連れて来ると、僕を置き去りにしてさっさと自分の仕事に戻っていった。

「・・・・・これを僕一人でやらなくちゃいけないんですか?」

僕は呆然としていた。

返事はしたものの、すぐに自分がとんでもない仕事を引き受けたことに気がついたんだ。

大学でいくらか整理方法についても習ったけど、これは専門家じゃないと手に負えない。どうやら膨大な量に音を上げて、ほとんど手つかずにしてあったらしい。

僕は素人の考えで整理して分からなくなってしまうよりは、後で整理する人がきちんと並べられるように、その道筋をつけることだけに徹するようにした。

調べて行くうちに珍しい楽譜をいくつも発見して一人はしゃいだこともあった。

少し前に富銀オケで行ったコンサートに使っていたらしい楽譜も見つけた。鉛筆で書かれた指揮者の注文が書かれていて、僕は整理しなくちゃならないのをつい忘れて読みふけってしまう事もあった。

この曲を指揮している人は、きっと天才に違いない!そう思えるような丁寧でダイナミックな指示をオーケストラに与えている。

「こういう人をフジミの指揮者に迎えることが出来たらいいのになあ・・・・・」

僕は一人ため息をついていた。


そうなんだ。


アマチュアのオーケストラでは何より指揮をしてくれる人が重要なんだ。

ばらばらになってしまう音を寄り集めてまとめてくれるかなめの人間なんだけど、なかなかフジミを理解して腰を据えて力になってくれるような人が来ない。

素人相手に無茶な注文を出すような人やメトロノーム代わりの棒振り、果ては素人がオーケストラをやる資格なんかないと、暴言を吐くゲスト指揮者までいた。

もう指揮者を頼むのはあきらめようって声が出るほど、うんざりさせられた。でも、どこかにフジミを理解してくれるような指揮者はいないかなぁ。

「おっと、手が止まっちゃったぞ」

僕は考え事をやめて、再び楽譜の整理に取り掛かった。



「バイオリン!?」

僕がライブラリーの中を整理していると思いがけないものを発見した。バイオリンのケースだった。中を開いてみると、ちゃんとバイオリンが入っている。

「アマーティ!?・・・・・じゃなさそうだ。写しかな?」

中世のストラディバリと同時期に作っていたバイオリン工房、アマーティ。

そこで作られたバイオリンはストラディバリほど有名じゃないけど、その音色は勝るとも劣らない。そして、音色の美しさを求めて、材料やニス細部の作りまで忠実に再現したバイオリンは「写し」と呼ばれる。

「写しとは言ってもかなり前の作品みたいだ。それにすごくきれいだ。きっと値段も張るんだろうな」

僕はケースから取り出してあちこち眺めた。弦は保管用になっていた。でもちゃんと弦を張り替えないとだめみたいだな。

「それにしてもどうしてこんな高価なものが無造作に置いてあるんだ?」

写しとは言ってもかなり値が張るだろうと思う。それなのにまるでどうでもいいようながらくたの扱いをされている。

いくらケースに入れて空調の整っている部屋に置いていても、人の手で弾いてやらなければいい音が出なくなってしまう。誰がこんなところに置いたのだろうか?置いた人はこのバイオリンの値打ちについて何も知らなかったのだろうか。

「ライブラリーの中のもの?ああ、桐院の御屋敷から運んできたものがほとんどらしいよ。バイオリン?・・・・・さてなあ、そんなものがあったかな」

僕は話をするようになった事務員さんにバイオリンのことを尋ねた。でも、事務員さんはまるでバイオリンについては無関心だった。ここは音楽ホールなのに。

「俺はもっぱらJポップスが得意でね。クラシックのことは分からんのよ。まあ、君はこいつが高価なバイオリンだと信じているようだけど、そんなに高価な品物ががらくた扱いでしまいこんでいるなんて考えられないけどねぇ。本当にそれ、いいものなのかい?君の勘違いじゃないのかな」

「・・・・・間違いないと思いますが」

僕も見ただけで断言出来るほどには自信はない。弾いてみれば分かるかもしれないけど。

「ああ、そうか。富銀オケの誰かに使ってもらおうってことかな?だったら収納庫に入れておいてくれればいいから」

「でもしばらく鳴らして、つまり弾いていなかったのなら、弦や弓の手入れをしないと使えないと思いますよ」

「君、詳しいんだねえ。ああ、音大を出ているんだっけね。じゃあ手入れの仕方も知ってる?」

「一応、知ってますけど」

「手入れしておいてくれるかな。弦はオケの予備用に幾つかストックがあると思うし」

 じゃあ頼むよと、事務員さんは気軽な調子で言って、さっさと自分の席へと戻っていった。

「・・・・・そんなに簡単に頼んじゃっていいんですか?」

 僕はあっけにとられてた。あの事務員さんはあのバイオリンがアマーティの、それも写しだと聞いたらもうたいした価値があるとは思わなかったみたいだった。確かに世間一般ではストラディバリばかりが有名だけど。

僕は富銀オケの弦のストックとやらを探しに行った。でもあいにくとバイオリンの弦は思ったようなものがない。仕方なく僕は自腹で自分の好みの弦を買ってくると、きちんと張り替えた。

そして休み時間を利用してバイオリンの手入れをし、それからいよいよ音のメンテナンスを始めることにした。

 団員たちが練習していないときに、空いている個人用の練習場を借りた。このホールにはいくつもの練習場があるんだ。

なんてうらやましいんだ。

僕はそっとケースを開くと、バイオリンを取り上げて弓をあてた。

眠っていたままだったバイオリンがゆっくりと目を覚ます。

まだまだ本当に綺麗な音は出ていない。でも、僕の勘違いじゃない。やっぱりこれはかなりの値段が張る楽器に違いない。今はそれほどの音色は出ていないけど、もっといい音になるに違いないんだ。

「きっと綺麗に歌えるようにしてあげるからね」

そうして、僕はこのかわいそうなバイオリンを鳴らしてあげようと決意して、仕事の合間を見てはせっせと弾くことにした。

そうなると、だんだん別れがたくなっていく。

僕が持っているバイオリンとは格段に違う音色を持っているんだ。

これが自分のものになったらどんなにいいだろう!でも、ここのバイトはもうすぐ終わる。そうしたらバイオリンともお別れとなる。さびしいけど・・・・・仕方ないんだ。

【1】