プルネット
【2】
僕がひるんだのを見て取ると、悠季はくるりと背を向けてルドウィックの方へと向き直った。
「それで、僕は何をすればいいですか?」
淡々とした様子でルドウィックに尋ねると、彼はいかにもしてやったりと得意げな笑顔で宣言した。
「そうだね。前回ケイからもらったものと同等のものでいいよ。つまり我々全員とのキスで交換さ」
「悠季!!」
僕は絶叫した。
「どうか断ってください!彼らにそんな無茶な要求をする権利はないし君が従う義務はないでしょう!」
「でも、君はその要求を呑んだんだろう?」
「そ、それは・・・・・!」
確かにそのとおりです。しかし、僕が支払ったつもりの代価と君が支払うつもりの代価とはその値打ちは格段に違うはずです!
だが、彼の言うことは正論でもあり、僕はそれ以上の反論をすることが出来なかった。
「君には僕のすることを止め立てする権利はないよ。僕のすることを黙って見守る義務はあるけどね」
そう言って僕に背を向けた。
悠季はどのようなつもりでこんなことを言い出したのだろう?僕との仲を解消しようとでも言うつもりなのだろうか?
・・・・・解消?僕達が?
僕が呆然としている間に、悠季と七人との取引を見守るはめになってしまった。
悠季はぎこちなくエンドレやニコル、ユーグリ、カールと次々に彼らの腕の中に抱き寄せられるとキスされていた。
僕はなすすべなくそれを見守っているだけ。
最後にルドウィックの腕から離れると、色めかしいため息を一つついて僕の方をみた。濡れて赤く色づいた艶めかしい唇。彼らとのキスの余韻が目元に、そしてふとしたしぐさに、残っているようだった。
かっと目の前に赤い炎がひらめいた気がした。悠季の首に両手を伸ばし、思い切り縊り殺したいという凶暴な思いが渦巻く!
それはとてもリアルな想像で、僕は自分の手に悠季の首を感じ、冷たくなって転がっている彼の屍を思い浮かべことさえ出来る気がした。
僕の胸の中に嫉妬の炎が燃え上がっていく・・・・・!!
そう、これは嫉妬なのだ!
僕は、僕以外のどんな男にも女にも悠季を渡したくなどない!
だが、待て。
僕が悠季の行動を止めようとしているのは、彼が僕という結婚相手がありながら浮気をしているという怒りがあるからだ。だが、逆の立場に立たされた悠季は僕の行動をどう思ったか?
悠季がしたことは許せず、自分が同じ事をしたなら許されるということはあり得るのか?
一瞬にして頭から冷水を掛けられた気がした。
「これで取引は完了したわけですね」
悠季の声が聞こえた。だが、その姿はなぜかゆがみぼやけて見えた。
「そういうことになるね」
ルドウィックの声はそれまでの余裕を楽しんでいるような軽いものではなく、まじめな顔で悠季を見つめているではないか!
「悠季、今回は約束だからキスだけだったが、僕としてはぜひ次の機会には君と付き合いたいと思っている。君はとても魅力的だ。僕は、その・・・・・」
「次などありません」
悠季の声がきっぱりとルドウィックの愛想のよい声を断ち切った。
「あなた方ともう二度とこんな馬鹿げた取引に応じることはありませんし、お会いすることもないでしょう。
もし、圭が」
彼はそこで僕の方を向いた。その悲しげな表情。まるで喪ってしまった恋を見つめているような、見ていてつらくなるような透き通った微笑を浮かべていた。
「・・・・・もし圭がまた僕の名前を口実としたこんなくだらないジョークに加わるつもりなら、僕と別れるつもりだということです。そして、ここで得るものは僕との仲の形見となるのを承知ということでしょうから」
悠季が僕と別れる、ですって!?そんな馬鹿な!!
僕の悠季が口に出してそんなことを言うなんて・・・・・・・・・・!!
僕の心臓は冷え切り、こめかみにはどくどくという鼓動が、不快なとどろきとして聞こえてくる。手足が冷たく強張り崩れていくような気がした。
僕は頭の中に一瞬にして悠季と出会ってからのことが走馬灯のように駆け巡っていくのを感じていた。悠季との出会い、ようやくめぐり合って思いを伝えることも出来ず鬱々としていた日々。悠季を傷つけ、許しを請い、彼の心を振り向かせるために悶々とた日を過ごした。
ようやく悠季の心を射止めることが出来たと安心した矢先に僕の傲慢さと彼の誤解による決別の危機が・・・・・!
「・・・・・ああっ・・・・・!!」
僕は思わず声を上げていた。
僕は利己的な腹立ちにまぎれて、悠季の何を見ていたのだろう。
悠季の倫理観は潔癖すぎるほど潔癖で、自分に対してはどれほど禁欲的で厳格なのか良く知っていたはずなのに。
彼が僕という恋人以外の人間とキスするということがどんなに自分自身を傷つけることになるか知っていたはずなのに。
悠季は僕にどんなことをしでかしたのか分からせるために、我と我が身を傷つけるようなことをして僕を諭してくれようとしたのだろうか。
いや、もしかしたらこれは本気で僕と決別するために、あえてやってのけたのか?
「・・・・・すみません。・・・・・すみません、悠季。どうか許してください・・・・・・・・・・!」
僕の足は力を失い、その場に座り込んだ。許しを請う言葉は切れ目なく続き、ぼろぼろと涙は溢れ続けて何も見えなくなっていく。
僕は子供のように泣きじゃくっていた。
『あーあ、ケイを泣かせちゃったよ』
『おい、俺たちがすごい悪人になった気がするぞ』
『ちょっとやりすぎちゃったみたいだね・・・・・』
ドイツ語でつぶやかれている彼らの驚きの声は僕の耳を通り過ぎていった。
思えば最初の出会いのときから彼らの前では虚勢を張っていたものだ。自分の若さや未熟さを見せることが出来なくて、いつも気を張っていた。そんな僕が見せた無様な姿は彼らにはどう見えただろう。
しかし僕には見栄も外聞も体裁も関係なかった。
彼ら七人が僕の醜態をどう思おうと、例え彼らが僕の姿を見て嘲笑おうとどうでもよかった。僕にとって今一番重要なことは、悠季の許しを請うことであり、彼に許されることだけが闇に堕ちていこうとする僕を救ってもらえる道だったのだ!
だが悠季からの寛大な手は差し伸べてもらえず、僕に与えられる許しの声はない。僕はこのまま見放されてしまうのかという絶望感に目がくらんだ。
「あー・・・・・なんというか・・・・・。
まさかケイの号泣する姿なんて珍しいものを見せてもらえるとは思わなかったなぁ」
ルドウィックはふざけた言葉の中身とはうらはらに、笑いの欠片もない声で言った。
「ユウキ。僕らは君たちの仲を壊そうなんてつもりはないんだよ。そりゃからかったら面白いだろうくらいは思っていたけどね。悪ふざけが過ぎたようだ。
・・・・・君に心から謝罪する」
他の者達も同様に思っていたらしく、ルドウィックの言っている言葉の意味は分からなくとも似たような言葉で悠季に訴えかけていた。
「・・・・・僕と彼との仲は、僕たち二人だけのものです。あなた方にとやかく言われるような事ではありません。ですが、・・・・・そうですね。コンサートが終わるまでは僕のコメントは保留にしておこうと思います」
悠季!僕と本当に別れる気があるということなのですか?!
僕は息を呑んで、とんでもない発言をさえぎろうとしたが、悠季はまだ先を続けていた。
「僕は彼の音楽性の天才的な素晴らしいところにも惚れ込んだわけですから、指揮者としての本分を全うするつもりがあるなら、本気をコンサートで証明してもらいましょう。彼には明日と明後日のコンサートで名演奏をして音楽家としての仕事を立派に果たして名誉挽回してもらいます。」
そう七人に言うと、何事もなかったかのように微笑みながら僕の方を振り向いた。だが、この目もとはいつものような柔和な線を見せていない。目も合わせてくれない!
「ホテルに戻ろうか」
悠季は僕を促すと、扉へと歩き出した。僕はよろめきそうな足を踏みしめて悠季の後に続いて歩き出した。
「ちょっと待ってくれないか!」
ルドウィックとの間でまだ何かあっただろうか?
「忘れてるよ。せっかく代価を支払ったんだ。せめて君の人質を見ていかないかい?」
ルドウィックはそう言った。彼は気まずい状況のまま帰したくなかったのだろう。悠季との縁を切りたくなくて呼び止めたのだと思われた。つまり彼もまた悠季に魅了されたということなのだ。
当然のことかもしれないと思う。
端正なたたずまいとストイックで厳格な態度。抑制された感情と裏腹に、かいま見せてくれる情熱と艶やかさ。
ルドウィックが惹かれたのはよく分かる、と考えていた。悠季にどうすれば許されるのか考えるのに頭が一杯の僕でさえ。
「僕が人質にされていた僕を救出したわけですね」
くすりと悠季が笑った。この問題の現況となっていたのが自分だということにいささかひねったユーモアを感じたらしい。笑っている姿は無邪気そのもので、先ほどまでの禁欲的な様子が一変した。
「向こうの部屋に置いてあるんだ。君にはぜひ見て欲しいと思っていたし、出来れば持って行って飾って欲しいと思う」
「要りません」
悠季はあっさりと断った。
「どうせあなた方が圭を呼び寄せるために作ったお遊びの品なんでしょう?僕に下さると言われても、その作品の出来栄えがよくても悪くても閉口するだけですから」
「いや、僕が言っているのはそんな意味じゃないんだ。とにかく見るだけでも見てくれないか?」
ルドウィックは僕達を奥の部屋へと案内した。
ここはこのアパートの中のアトリエと呼ぶべき日の光が良く入る部屋で、興が乗れば彼はここで塑像の原型を作ったりしているらしい。
「ほら、これだよ」
ルドウィックが取り出して見せたのは、前回出してきた大理石の彫像よりはずっと小さな30センチほどの大きさのブロンズ像だった。彩色はほどこされていなかったが、細部まで緻密でリアルな・・・・・
ヌード像だった!
「これは僕の作品の中でもいい出来だと思っているんだよ。これまでケイに作って渡したのは古典の名作のパロディだったけど、これは僕が堂々とオリジナルだと言える作品なんだ。間違いなく君がモデルだよ」
僕は以前この取引で渡された作品の数々を思い出していた。
画家であるニコルが描いた絵は誰もが知っている名画のパロディだったし、前回ルドウィックが作ってきた彩色された大理石の彫像も、多少でも美術品のことを知っている者ならすぐ分かる巨匠の彫像のポーズに悠季の顔をつけたもの。
だが今回はオリジナルで自信がある作品を見せたと言うことは、パロディではなく、自分の真面目な作品を見せて芸術家としての自分を悠季にアピールしようと思いついたのだろう。
ブロンズ像は、繊細な手の表情といい、しなやかで綺麗な肉体のラインといい、『悠季』として見なければ立派な芸術作品だろう。しかし、これが悠季なのだということになると・・・・・。
「これが僕、だって!?」
それが悠季の感想だった。声には驚きと不審感がありありと出ていた。
「ルドウィック、あなたはこれが僕の姿だと言うわけ?」
「そうさ!君だよ。もちろんからだは服の上からだから類推しただけだけど、さほど違ってはいないと自負しているよ。どうだい、ケイも彼だと思うだろう?」
ルドウィックは悠季の不満の言葉を心外だと思ったらしく、僕の同意を得ようとこちらを振り返った。
「あー、そうですね。顔やからだをみれば確かに悠季に似ている、いや、かなり似ていると思います。もし君たちがこのブロンズ像を『悠季』と名づけて僕を呼び出したのなら、その名前がついているという理由だけで、これを手元に置きたいと思ったことでしょう」
悠季が眉をしかめている。僕はあわてて悠季にうなずいてみせて理解を求めた。
分かっています、悠季。今、僕の言葉が気に障ったのは。しかしこの像の意味するものを説明するには必要なのです。
僕はルドウィックに説明を続けた。
「しかしこの像を手に入れたとしても、僕は二度と見ることなく封印しておくでしょうね。このブロンズ像は綺麗だ。しかし・・・・・悠季ではない」
「冗談じゃない!この像は以前の彫像や塑像とは違う。彫刻家としての僕が作った『悠季』のイメージなんだぞ!それは君だけの意見にすぎないのではないか?」
ルドウィックは僕の言葉を聞いて声を荒らげた。彼の芸術家としての矜持に関わると言いたいのだろう。
「しかし事実ですよ。このブロンズ像は悠季の本質を示してはいない。悠季は綺麗なだけの、『天使』ではありません。この像のような空虚な存在ではない。
つまりこれは悠季ではない」
僕の言葉に悠季もうなずいていた。
そう、彼が作ったブロンズ像は、ほほえんで手を広げて全ての人間を受け入れようとしている天使像にも見えた。ただし、羽はなく全裸でエロティックな姿態で人間を全て受け入れてくれているように見える。それは精神的というだけではなく、肉体的にも、許容する存在として。
つまりこの像は娼夫のイメージも内包している天使ということになる。それがルドウィックにとっては、悠季のイメージなのだろう。
悠季にとっては大変不本意なことに。
僕の言葉を聞いたルドウィックはさっと悠季の方に向き直った。視線で人を刺し貫くことが出来るのならば、きっとこの時彼は悠季を刺し貫いていたことだろう。
ルドウィックの隣に立っていたニコルも、僕の言葉をあらためてドイツ語に通訳すると驚いたように悠季の方を向いて同じように悠季を睨みつけだした。
いや、彼らは芸術家としてあらためて悠季を観察していたのだ。画家、彫刻家とジャンルは違っていても、彼らは人や物という対象の本質を布や石や金属に写し取ることを生業としている。真っ向から僕に『お前は物の本質を見抜くことが出来ていない』と言われたのも同様なのだから、腹を立てたのも無理はない。
他の連中もジャンルは違えど、芸術家として立っているものばかり。ルドウィックたちほど厳しい視線でははないにせよ、悠季の姿を改めてまじまじと眺めていた。
ルドウィックたちの厳しい視線にさらされた悠季は、思わずたじろいで僕にすがるような視線でこちらを見たが、僕は彼らの怒りなどなんとも思わなかった。
悠季の本質なら彼らよりもよほど知っているという優越感。だが、その喜びも悠季が僕を見捨てるのではないかと言う不安がぶりかえしてきて、あっと言う間にしぼんだ。
「帰りましょうか」
「あー・・・・・うん」
僕達は、押し黙ったまま何かを考えているルドウィックやニコルと、彼らの姿と悠季とを交互に見比べている他の連中をそのままにして、アパートから出て行こうとした。
後に残されたのは混乱しきった男達とルドウィックが作った自称、『悠季』の像だった。
天使の像は出て行く僕を見つめて誘っているように見え、エロティックな姿を誇っているように見える。
本物の悠季ならこんな驕慢な表情で僕に誘いかけて来たりはしない。自分の魅力に自信と誇りを持ち、人間の男を堕とすことなど容易いと驕った顔など見せることはない。
悠季にとって自分がどれほど魅力ある存在かということを信じることはとても難しいことらしい。
僕が言う言葉も世辞と受け取って、真剣に認めようとはしないような佳人なのだから。
だからこそ、彼は誰よりも人々を魅了する。
「ヘル・ユウキ」
ルドウィックが厳粛な声をかけて来た。