プルネット
【1】
そのとき僕はひどく浮かれていた。
いつもなら僕の演奏旅行に同行することなどない悠季が、このときは学校の都合で数日の休みが取れたというので、欧州に一緒に来てくれることになったのだ。
僕は大喜びで悠季と共に演奏旅行をこなし始めていたのだが、次のコンサート会場がウィーンだと気がついて、どきりとした。
このところ僕がこちらのオーケストラに招聘されて演奏する時には、必ずと言っていいほど僕のもとへと連絡が入る。ウィーンの悪友ども、七人からだ。
僕が彼らのアジトへと足を向けるようにと、悠季を題材にとった絵や彫刻を制作し、それを僕への人質として呼び寄せてくる。
断ってしまえばいいことなのだが、彼らは皆芸術に優れた技能を持っており、次第に悠季によく似た品物を作り出して待ち構えている。そのままその場においておくだけで満足することはなく、作品を悠季に見立ててどんな悪さをしかけているか・・・・・それを考えるといてもたってもいられなくなってしまうのだ。
僕はそれが怖くて言われるがままに彼らのアジトに足を踏み入れることになってしまう。
このところ欧州のコンサートがウィーンで行われる時には、なるべくその日のうちにこの地を立って次の会場の地へと移動するよう心がけていた。あの悪漢どもと交渉を持たないようにすれば僕を呼び出したりは出来ないし、悠季を模した彫像や絵画で僕をおびき出すことが出来ないと考えたからだ。
僕と連絡が取れないとなれば、わざわざ彼らが作り上げた『悠季』に悪戯することもないだろう。そう考えられるだけで、僕の気持ちは穏やかに保たれる。少なくとも言い訳程度には。
前回は悠季にそっくりな彫像を出してきた。僕は壊すことが出来ず、動揺している隙をつかれてキスとペッティングで交換することに同意してしまったのだ。それも、目隠しと手錠つきという度を越した悪ふざけをおまけにして!
彼らが僕の思考方法や嗜好を熟知しているからだと分かっている。思い返すと自分でも腹立たしいことだが。
ついあの場の雰囲気に流されて取引に応じてしまったが、もしこのままエスカレートしていったらどうなってしまうだろう?僕はそれを断ることが出来るだろうか?
僕は悠季のためと言う名目のもとに自分が彼らの要求を受け入れてしまうのが怖いのだ。
すっかり鬼門と化してしまったウィーンだが、今回の演奏旅行には悠季が僕と同行しており、この地に久しぶりに滞在することになっている。もしそれが彼らに知られたら、不愉快な取引を持ちかけにやって来るのは眼に見えている。
僕はウィーンでの宿泊先のホテルのコンシェルジェに彼ら七人の名前を挙げて彼らからの電話はくれぐれも取り次がないようにと依頼した。こうすれば僕は彼らの呼び出しに応じなくてもすむわけだし、悠季の耳に不愉快な雑音が入ってくることを阻止できる。
唯一の不安は彼らが直接このホテルにやってくるかメッセージを残すことだが、それは同じくコンシェルジェに断るように頼んでおいた。
しかし、僕の姑息な自衛手段は、それまでの自堕落な生活に対する神の鉄槌と言う形でもたらされたと言うべきかもしれない。
僕と悠季はウィーンに早めに入り、コンサート前に得られた貴重な時間をキルヒナー夫妻の自宅訪問とウィーンの街を散策するというデートで楽しみ、悠季が気後れしないような家族で経営していると言うこじんまりとしたレストランでの食事でしめくくった。
やはり親族が作っているというなかなか美味だったハウスワインのほろほろとした酔いに心浮かれながら、ホテルへの帰路についた。
さて、今夜は悠季との夜をどう演出しようかと楽しく考えながら。
ホテルの部屋に戻ってくると宅島からメッセージが届いていた。
いつもの悠季なら僕あてのメッセージを読もうなどとは考えなかっただろう。しかし、相手が気の置けない宅島だったし、アルコールによる開放感も手伝ってか、僕に読み聞かせると言う形でそのメッセージを読み始めてしまったのだ。・・・・・ああ、運悪く。
「圭、宅島くんからのメッセージだけど、読むよ。えーと、『ニコル・シュバイツという人物から伝言が僕のところに届いている。[悠季を人質に預かっている。彼が返してほしければ早めに連絡されたし。さもなくば彼はひどくなげき悲しむことになるだろう]だそうだ。お前の友人からもあと数件、至急のメッセージが届いているんだが、中身は同様なことを言っているようだ。どう対処すればいいのか、連絡されたし・・・・・』だ、そうだよ」
悠季はこわばった表情で僕の方を見た。
僕としたことがなんということだ!!
宅島にも彼ら七人のことを伝えてメッセージが届いても僕だけに届くように頼んでおき、悠季の目に触れるのを阻止してもらうつもりでいたのに、うっかりと悠季とのデートに浮かれて失念していたのだ!
「これってどういう・・・・・?」
悠季は自分のことを鈍いと言う。確かに彼は本来善良で、人を疑いの目で見ようとはしないから人の悪意を察することを苦手とする。しかしだからと言って彼の洞察力や感性を侮ってはいけない。彼が一つの真実に気が着けば次々と秘密を明らかにしていく力を持っているのだから。
ああ、このときの悠季が僕を見たその眼は・・・・・!
僕は、愚行は我が身に返るという教訓を改めてかみ締めることになった。
「ねえ、圭。シュバイツさんは僕がウイーンに来ていることを知った上でこう言ってきてるのかな。でも僕を人質にしているって言っても、僕はここにこうしているんだし、君が僕の居場所を知らないでいるなんて思わないよね。確かシュバイツさんって画家だって聞いたことがあるんだけど、そうするとつまりこの人質の僕というのは、もしかして僕を描いた絵ということじゃないのかな?」
違う。
と言えたらどんなによかっただろう。しかし、もし僕が否定したとしても無駄だろう。悠季はニコルたち過去の恋人たち(僕は『恋人』などという言葉を悠季以外に使いたくないが)のことを内心ひどく気にしている。心配性で細やかな神経を持つ彼にとっては、メッセージをくれた相手に返事も与えずに放置しておくという冷徹な方法を取るのはとても苦手だ。優しく心配りの細かい彼は、僕が傷つくようなことが起きたらと心配して、早晩彼のところに何の用件かを問い合わせしようとするのは間違いない。
「・・・・・おそらくそうだと思います」
僕は渋々答えた。
「そうすると、君の昔の友人が僕の絵をくれるから来いと言っていると考えていいのかな。ああ、それとも、呼び出すのが目的・・・・・なのかな?」
これまたうなずくしかなかった。ポーカーフェイスで繕っていても僕の背中には大量の冷や汗がにじんでおり、悠季は僕の表情を読むのを得手としているのだ。
「君が動く必要はないです。明日にでも宅島に言って取りにいかせればいい」
「いいよ。僕が受け取ってくるよ。彼らに会って話したいし、君と違って僕はコンサートの時間まで暇だしさ」
やさしく微笑んでいるはずなのに、彼の眼が怖く感じられるのは我が身を苛む罪の意識のせいなのだろうか?
「君には彼らの所には行って欲しくないのです。彼らが君の身に何か害をなすということはないとは思いますが、彼らの持つ毒気に当てられてしまうかもしれないという危惧は持ってしまうのです。君が傷つけられるのではないかと不安にかられてしまうのですよ」
僕は必死で悠季が七人の溜まり場に行かないように説得を重ねた。しかし言い訳を重ねることが自分のやましさを糊塗しようとしているのだということには気がついていなかったのだ。
「うーん。それじゃあこれから一緒に行かないか?まだそんなに遅い時間じゃないし。早めに来いって言っているんだから、今から訪ねていってもいいよね。えーと、場所はどこに行けばいいのかな」
僕は絶望感で頭をかかえてしまった。
ゾンネンフェルス通りの三番地。通称バロックの館と呼ばれる建物の最上階の一室を彼らは溜まり場としている。ドアの前に立ってドアベルを押しながら、僕はこの部屋の中にニコルが一人でいることを願っていた。日本語やイタリア語はほとんど話せない彼が相手なら、悠季をごまかすことも出来るのではないだろうか?
しかし、ここでも僕はとことん運に見放されていたらしい。いや、僕の考えなど見通されていたのだろう。中では七人全員が揃って僕たちが部屋の中に入ってくるのを待ち構えていたのだ!
『やあ、ようやくお出ましか』
『昨夜到着したと聞いていたから、きっと今夜あたり着てくれると思っていたよ』
『それにしても悠季を同伴するとはね。彼に僕らとのイタズラがバレちゃったとか?』
『それとも彼を僕達との遊びに誘ってくれたということかな?』
彼らの口からから次々に歓迎だけとは考えられないきわどい言葉が飛び出してくる。
『こんばんは、久しぶりですね。ところで、人質になっているという僕を引き取りに来たんですが、彼はどこにいますか?』
悠季は七人の前に姿勢よく立つと、落ち着いて挨拶した。最初はあまり上手ではないドイツ語を使おうとしていたが、彼らの中にルドウィックがいるのを見つけて、苦手なドイツ語で話すのをやめたらしい。ルドウィックは幾つかの外国語以外に日本語を学んでいて、このところ磨きをかけたらしく、以前よりもさらに流暢に話すことが出来ている。
「おやおや、ケイに聞いてないのかい?僕らの手元にいるユウキをつれて帰ろうというのなら、それなりの代償が必要になるんだよ。彼がいなくなってしまうと寂しくなってしまうからね」
彼はそう言って大げさに肩をすくめてみせた。
「君が来たんだから言うけど、確かに向こうの部屋においてあるのは本物のユウキじゃなくてまがい物だよ。だけど僕達は芸術家だからね、それなりの力の入った作品を置いてあるんだ。だから、ケイにもそれなりのものを出してもらわないとね」
「いったい何が欲しいとおっしゃるのですか?」
「・・・・・そうだねェ。今回は何をしてもらおうかな」
「・・・・・今回、ですって!?」
ユウキの声の中にひやりとするような棘が混じった。
「帰りましょう、悠季。こんな悪戯好きの連中と付き合う必要はありませんよ」
僕は急いでユウキこの部屋から連れ出そうとした。
「ちょっと待って。僕の用件はまだ済んでいないんだから」
ユウキはぎっと僕を睨んでから、面白そうにしているルドウィックたちに向き直った。
「今回、と言うことは、前にもこんなことがあったんですね。これまでの取引と言うのは、以前圭のウィーン公演中にあったってことでしょうか?」
「そういう事だ」
ルドウィックは僕の必死のアイサインには目もくれず、悠季に正直に答えている。正直すぎるほど。
・・・・・ああ、なんということを!
「今までの人質というのは何だったのでしょうか。そして、その代償として彼に何を要求したんですか?」
「そうだね。僕の彫刻や塑像、二コルの絵を提供したよ。圭が我々の飲み会に誘ってもどうしても参加してくれないのでね、少し強引なやり方をしたがね。僕らに加わって一晩楽しく遊んでもらうことが交換条件だった。彼がどうしても僕達と遊びたくないと言うので、こっちもつい意地を張っちゃってねぇ」
悠季の肩から少し力が抜けた。
「もっとも前回は僕の力作を提供したからね。キスしてもらったよ」
「・・・・・キス、ですか?!」
一瞬にして悠季の顔が強張っていくのが分かった。彼の心の中でルドウィックの言葉はどのように受け止められたのだろうか。
「まあ、それくらいなら挨拶がわりさ。罪のないジョークだろう」
「・・・・・ジョークですって!?」
悠季はくるりと僕の方に向き直って真剣な顔で問いただしてきた。
「本当のことなのか?君は僕の姿をしたまがい物を得るために彼らとキスをしたわけなのかい?」
「・・・・・あー・・・・・・・・・・はい」
僕はうなだれて悠季の弾劾を甘んじて受けた。彼の目を見ることが出来ない!
「つまり君も彼らとキスすることは単なるジョークとして受け止めたわけなんだね」
「悠季、僕はその・・・・・」
彼らヨーロッパ人にとってキスすることは挨拶がわりのようなところがあるのだが、つつましやかな日本人としてのアイデンティティを有する悠季にとっては受け入れられないものがあるのを失念していた。
僕は悠季になんと言って納得してもらえばいいのだろうか?
「分かった!」
悠季は僕のしどろもどろの言い訳をさえぎってルドウィックの方に向き直った。
「今回の人質の僕を引き取るのは圭じゃなくても構いませんか?」
「それは君が引き取りたいという意味かい?」
ルドウィックは他の者達に相談してからうなずいた。
「いいよ。君たちがそれでいいのなら」
「悠季!」
僕はあわてて悠季の肩を掴んでこちらを振り向かせた。
「どういうつもりですか?君らしくもない。こんな悪戯好きの連中と付き合うのはやめてください!彼らが遊びの代価として望むものは、金銭で済むものなどなくて、悪趣味なブラックユーモアを利かせた楽しみなのですよ!」
純真な悠季をこの七人のところに長く置いておけばさらに傷つくのは目に見えている。
「でも、君だってその遊びに付き合っていたんだろう。それを僕に禁じるというのはどういうことかな」
「・・・・・そ、それは」
「圭、少し黙って僕のことを見ていてくれないかな」
僕はそれ以上話す言葉を失った。悠季の声は冷ややかだが、その瞳の奥にはマグマのような秘めた怒りに溢れていた。